昔日への思慕
プロローグ
大学に入学してから数週間、4月の半ばに彼と出会ってから、ほぼ半年が経った10月も終わり・・・・・。
それは一本の電話から始まった−
「はい」
『夜分遅く申し訳ありません』
「倉橋さん?」
久し振りに聞く声に、真琴は思わず頬を緩めた。
その日、バイトが休みだった西原真琴(にしはら まこと)は、風呂上りに濡れた髪を拭いていた時、突然掛かってきた携帯電
話に何気なく出た。
電話の相手は、真琴の同居人(同棲相手)の部下である、倉橋克己(くらはし かつみ)だった。
『マンションの方へ掛けても出られないと思いまして』
「あ、はい、海藤さんが出なくていいって」
元々同居人の持ち物の一つであるこのマンションに住むことになったのは、真琴の大学とバイト先からあまり遠くなく、治安的に
もいいと選ばれたらしかった。
滅多に電話も掛かることは無く、掛かったとしてもそれは100パーセント自分宛てではないので、真琴は絶対電話に出ないの
だ。
「どうしたんですか?」
時刻は午後9時少し前。同居人が帰ってくるにはまだ少しだけ早い。
『実は・・・・・今晩、社長はそちらにお帰りになれないと』
「え?」
何時ものテキパキとした倉橋とは違い、どこか言いにくそうな雰囲気の口調に、真琴は急に不安になってきた。
同居人の職業が職業だけに、何時何が起こるか・・・・・突然湧き上がった恐怖に、真琴は思わず倉橋に詰め寄った。
「何かあったんじゃないんですかっ?」
『真琴さん』
「内緒になんてしないで下さい!」
『・・・・・社長の身に何かあったということはありません』
「本当にっ?」
『はい。・・・・・真琴さん、ここからは社長の言葉ではなく、私の判断でお伝えした方がいいと思うので・・・・・』
「は、はい」
『1時間ほど前、社長のお父様が撃たれました』
「お・・・・・とうさん・・・・・?」
普通の男子大学生である真琴が同居をしている相手・・・・・海藤貴士(かいどう たかし)の職業は、一般的に言う普通の
ものではなかった。
関東最大の広域指定暴力団『大東(だいとう)組』の傘下、『開成(かいせい)会』の3代目組長・・・・・簡単に言えばヤクザ
の頭、それが男の肩書きだ。
思い掛けなく出会い、嵐のように攫われて、今、真琴は海藤の傍にいる。
どんなに危険でも、どんなに怖くても、海藤の傍にいることを決めた・・・・・それほど、真琴は同性である海藤を愛していた。
その海藤は、まだ幼い頃に母親の兄であった元開成会会長、菱沼辰雄に引き取られ、後継者として育てられてきた。
実の両親と離れて暮らすようになって、もう20年以上は経つらしい。
初めて聞くといってもいい海藤の父親の近況があまりにも衝撃的で、真琴はなかなか次の言葉が出なかった。
『最近、お母様の方が体調を崩されて九州の方に静養に行かれていたらしいのですが、そこで・・・・・』
「あ・・・・・」
いきなり生々しい話を聞かされ、真琴は息が詰まるような感覚に襲われた。。
普通に暮らしているのならば、この日本で撃たれるということなど有りえない話だ。
真琴は改めて、自分が好きになった男がどういう世界で生きているのか、目の前に突きつけられた気がした。
『真琴さん』
電話の向こうから、倉橋の声が響いている。その声に気遣う響きを感じて、真琴は一回大きく深呼吸をしてから言葉を押し
出した。
「怪我は・・・・・大丈夫なんですか?」
『こちらにも連絡が届いたのは先程なので、詳しい事情は分からないんです。今から九州に向かうので、詳しいことはその途
中で・・・・・』
「俺も行きます!」
『真琴さん?』
考える間もなく、真琴はそう叫んでいた。
「邪魔にならないようにしますからっ、お願いします!俺も一緒に行かせて下さい!」
『・・・・・安全とは言いがたいですよ』
「それでも、俺、海藤さんの傍にいたいんです!」
家族がバラバラに暮らす・・・・・それは真琴の中では全く想像がつかないことだった。
今でこそ大学進学という物理的な事情で真琴も家族とは離れているが、それでも頻繁に電話のやり取りはするし、お互いの
行き来もある。
しかし、海藤は・・・・・。
海藤の口から育ての親である伯父の菱沼の名は出るものの、実の両親の話は真琴は聞いたことが無かった。
以前、海藤の異母弟である宇佐見貴継(うさみ たかつぐ)が現われた時、あくまでも事実だけを伝えるように真琴に話してく
れた・・・・・あの時だけだ。
親が恋しいという歳ではないとしても、離れていても生きていると、死んでいるとは、全く違う。
海藤がどんな衝撃を受けるかと思うと、真琴はじっと待ってなどいられなかった。
「お願いします!倉橋さん!」
『・・・・・』
「倉橋さん!」
『お伝えすればあなたがそう言うだろうと・・・・・分かっていたのかもしれません』
「倉・・・・・」
『迎えを行かす時間は省かせてもらいます。直ぐにタクシーを呼んで、今から私が言う所に来て下さい』
「はい!」
真琴は直ぐにメモを取り、間違いがないかと繰り返す。
「じゃあ、直ぐに行きますからっ」
急いで準備をしようと電話を切り掛けた時、真琴はふと倉橋に名を呼ばれたような気がして再び携帯を耳に当てた。
「倉橋さん?」
『ありがとうございます』
深い響きを込めた言葉を言うと、真琴が何かを言う前に電話は切れてしまった。
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