千三つ せんみつ
1
倉橋克己(くらはし かつみ)はデスクの上にあるパソコンの画面をじっと見つめている。
(・・・・・まだか)
ずっと待っている相手からのメールはまだ届かなかった。念の為にと携帯も出しているが、こちらにも着信の知らせは無い。
連絡が無いのはきっと無事な証だとは思うが、嘘吐きな男のことだ、何か危険があったとしても、自分との会話ではその欠片さえ
も感じさせないに違いなかった。
「・・・・・遅いですよ、綾辻さん」
ここにはいない相手の名前を呟き、倉橋は再び自分に任せられた仕事へと視線を戻す。
それでも意識はまだ完全には仕事モードになっていないようで、倉橋は自分自身に呆れたように溜め息をついてしまった。
倉橋の上司であるう開成会会長、海藤貴士(かいどう たかし)の恋人である大学生の西原真琴(にしはら まこと)が、偶然
に知り合ってしまった人物。
真琴からその相手の容姿を聞いた護衛役の海老原(えびはら)が機転を利かせて報告を上げたのはよかったが、なぜかそれは自
分ではなくもう1人の幹部、綾辻勇蔵(あやつじ ゆうぞう)へといってしまった。
彼は自分が持っている情報から、それが中国マフィアの一角を担う、香港伍合会(ほんこんごごうかい)のロンタウ(龍頭))では
ないかと検討をつけ、そこからまた新たな情報を持ってきた。
敵対するには、かなり大きな相手。
詳しい内情を知る為にと、綾辻は数人の部下を連れて今朝から香港へと旅立った。
着いた時に一度電話があり。
それからは梨の礫だ。
こちらが心配していることは十分分かっているはずなので、それでも連絡が無いということはそういう状況に無いということなのだろ
う。想像は付くが心配は変わらず、倉橋は無意識に左手の親指の爪を噛んでいた。
「・・・・・っ」
その時、内線が鳴った。
時間はもう直ぐ日付が変わるといった頃だが、倉橋は全く躊躇無くそれを取った。
「はい」
【すみません、綾辻幹部宛に電話なんですが・・・・・】
「綾辻に?」
【はい。留守だって言っていいのかどうか分からないので、どうしようかと】
「繋げろ」
こんな時間に綾辻名指しで掛かる電話とはいったい何か、倉橋は緊張して切り替わった電話の相手に話し掛けた。
「・・・・・どなたです?」
【・・・・・ユウ、違う?】
「・・・・・」
(・・・・・女?)
電話の向こうから聞こえてきたのは、明らかに若い女の声だった。
少し、日本語のイントネーションがおかしいので外国人だろうというのは分かったが、いったい綾辻とどんな関係なのかは全く分か
らない。
ユウ・・・・・と、いう名前は、綾辻が夜の街で遊ぶ時に名乗っていたもので、もしかしたら彼の遊び相手なのかとも勘ぐってしまう
ものの、その一方でそんなことがあるはずがないと自分の中で綾辻を庇う声がした。
あの男が自分に愛の言葉を告げるようになってから、女の気配を身に纏っている様子は感じられなかった。もちろん、頭が固く、
不器用な自分とは違い、嘘の上手なあの男に騙されている可能性は0ではない。
それでも、今更愛情を疑うということは無かった。
「・・・・・綾辻は不在ですが、どのようなご用件ですか」
【あ、ワンが心配していたから、どうなったか思って・・・・・ごめんなさいっ】
「あっ」
電話は唐突に切れてしまった。
結局、女は誰なのか、何の用件で電話をしてきたのかは全く分からないが、少なかった会話の中に気懸かりな言葉が聞き取れ
た。
(ワンが心配している・・・・・確か、そう言ったな)
言葉の響きでは、どうやら中国人らしいが、もしかしたら今回のことで綾辻が接触した人間の1人ではないのだろうか?
「・・・・・」
(いったい、どんな人間とコンタクトを取ってるんだ・・・・・)
自分が想像出来ないほどに交友関係の広い綾辻の知り合いを、倉橋は全て把握しているわけではなかった。今まではそれが
悔しいとも思わなかった(綾辻と自分は違うのだと割り切っていた)が、今は・・・・・胸のどこかが僅かに痛い。
「・・・・・駄目だな、私は」
不甲斐無い自分を悔やむように倉橋が眉を顰めた時、
《め〜るよ〜ん め〜るよ〜ん》
「・・・・・っ」
まるでタイミングを計ったかのように、惚けた声が聞こえてきた。
「・・・・・携帯?」
どうやらそれは、メールの着信を知らせる為の携帯の着信音だったらしいが、確か数日前までは自分で設定したごく普通の機械
音だったのに、何時の間にこんな惚けた着信音に変わったのか・・・・・。
「・・・・・」
倉橋の携帯にこんな悪戯が出来る人間は1人しかいない。
あの男は他人のメールや履歴を黙って見るような人間ではないが、こういった悪戯は直ぐに思いつくのだ。
「側にいないと・・・・・私の反応が分からないだろう」
思わず小さく呟いた倉橋が開いた文章は、ごく短いものだった。
《 美味しい焼肉店を教えてもらったわ。今度は2人で来ましょうね。
おやすみ、愛してるわよん。 》
こんな文章は綾辻にしか書くことは出来ない。多分、短い時間で、それでもきっと心配しているだろう自分を思って、こんなメール
を送ってきてくれたのだろう。
ちゃんと生きているのだと安堵した倉橋は、ようやく止まっていた書類の処理を始めた。
こちら側が思っていた以上に早く、香港伍合会のロンタウ・・・・・ジュウは、接触を図ってきた。
初めて対面したその男は、想像していた以上に若く、柔和な表情だったが、全く笑っていないその眼差しが彼の本性を垣間見
せていた。
倉橋も噂は聞いたことがある、青い目を持つ鷲と言われているブルーイーグル。狙った獲物は殺してでも奪うと言われている男
の何を形容しているのかと思っていたが、本当に瞳が青いとは思わなかった。
突然変異か、それとも異国の血が混じっているのか。
こちらの戸惑いなど全く無視するかのように、ジュウは海藤に向かって堂々と真琴を奪うと言った。いや、真琴の名前を出してそ
う言ったわけではないが、彼の言葉の比喩を考えればそうとしか思えなかった。
海藤は全く引かなかったが、倉橋は初めて誰かを不気味に思ってしまった。
武器を突きつけられたわけではなかったし、恫喝の言葉を投げつけられたわけでもなかったが、何を考えているのか分からないとい
うことがこれ程恐怖に思うとは、倉橋にとっても予想外だった。
ふと、今、香港にいる綾辻はどうしているだろうかと思う。
敵の本拠地といえる香港。彼が無事帰るまで、倉橋の心痛は消えることは無いだろうと思った時、胸元に入れていた携帯のバ
イブが揺れた。
「・・・・・失礼します」
海藤に断って携帯を取り出した倉橋は、液晶に出た番号を見て目を見張った。
「倉橋?」
「綾辻さんからです」
「・・・・・ああ、帰ってきたのかもな」
海藤の言葉を聞きながら倉橋は携帯に出る。
「はい」
【・・・・・あ、克己?私、今同じ空の下よ〜】
相変わらずな綾辻の口調に、倉橋は一瞬眉を潜めてしまった。それが、いったいどんな気持ちかは分からないが、一番大きなも
のは安心感からかもしれなかった。
「倉橋、綾辻をここに呼んでくれ。帰国早々だが話がしたい」
「はい」
海藤の言葉に倉橋は頷き、直ぐに綾辻に言った。
「綾辻さん、今から言う場所に来ていただけませんか?たった今、社長と私はロンタウに会ったんですが、そのことについて話があ
るそうなので」
【・・・・・ん】
「お疲れでしょうが・・・・・すみません」
先程までとは言葉のトーンは少し落ちてしまった綾辻に申し訳ないと思いながらも、倉橋は自分達がいる料亭の名を告げた。
【ええ、分かったわ】
「お願いします」
倉橋が電話を切ると、海藤が声を掛けてきた。
「様子はどうだった?」
「・・・・・元気そうだと思います。あっ、あの人、先ず社長に連絡をしなければならないのに・・・・・」
今更ながら、綾辻が報告義務を怠っていることに気付いた倉橋が、綾辻に代わって慌てて謝罪しようとしたが、海藤は軽く笑い
ながらそれを止めた。
「何時ものことだ」
「しかし・・・・・」
「お前の声を真っ先に聞きたいんだろう」
「・・・・・」
海藤のその言葉に何と答えたらいいのか分からず、倉橋は手の中に握り締めていた携帯に視線を落とした。
この小さな機械で、先程までは異国にいたはずの綾辻と繋がっていたが、今は確実な安全を知らせてくれた。
「・・・・・良かったな」
「・・・・・はい」
今までは仕事上の連絡でしか必要でないと思っていたこの小さな携帯が、今では離れた相手の安心を確認する大事なものに
変化している。
倉橋はそんな風に思ってしまう自分に今だ戸惑うことも多いが、それも自分にとっての必要な変化だとも思う。
ただ、それでもやはり直接あの声を聞きたいと思う気持ちの方が強い。あの優しい男は、顔が見えなければどんな優しい嘘をつ
くのか、単純な自分にはとても分からないからだ。
「ただいま、克己」
(早く・・・・・)
倉橋はきっと車を飛ばしてくるだろう綾辻の到着を、早く早くと急くように待ち焦がれていた。
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