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坂井郁(さかい かおる)は、じっと台本に目を落としていた。
つい先程、事務所に来た途端に渡された新しい仕事の本。・・・・・もちろん、ボーイズラブのドラマCDの仕事だ。
「・・・・・大平(おおひら)さん、他の仕事って・・・・・ないのかな」
「何言ってるのよ、郁!この時期に途切れないで仕事があるだけ幸せだと思いなさいっ。あんたは中堅にも若手にも入らない微
妙な立場なんだから、今の地位を死守するのよ!」
「・・・・・」
「分かったっ?」
「・・・・・は〜い」
郁は渋々というように頷いた。
坂井郁は、数年前爆発的ヒットを飛ばした有名なテレビアニメの悲劇の主人公の声をした声優だった。
ほぼ、デビュー作といっていいその作品でかなりの人気を得たものの、それ以降はどうしてもイメージが固まってしまい、泣かず飛ば
ずな状態だった。
そんな中、突然舞い込んできた、ここ数年で確かなジャンルを築いたボーイズラブのドラマCDの仕事。
いわゆる、男同士の恋愛の話だったが、名指しで指名してもらった郁はわけが分からないままその仕事に入った。
相手役、そして、郁を指名した相手というのは、日高征司(ひだか せいじ)という郁より7歳年上の先輩声優で、声優のキャリ
アとしては大学在学中を合わせても十年ほどだが、演技力の評価は高く、またその声が素晴らしくいいので、この年齢としては異
例なほど早くトップの座についていた。
日高の声は低く甘く、キャラクターに応じて様々に変化する演技力もあり、そのどれもが魅力的なキャラクターに生まれ変わった
し、そのルックスも俳優ばりに整っていて、イベントなどでは日高目当ての女性客が殺到するほどだった。
声優の中でもトップクラスの日高が、なぜ自分を指名してきたのかは分からないが、結果的に郁はそのドラマCDで再ブレイクを
し、声と同様に繊細で中性的な容姿ももてはやされて、今では受け(男同士の恋愛で女役をする方)声ベスト10でも、常に上
位に入るほどになっていた。
ただ、郁としては途切れなく入る仕事は嬉しいものの、そのどれもがボーイズラブ関係なので、他の仕事もしてみたいという気持
ちも生まれていた。
数ヶ月前までは声優という仕事自体を辞めようかどうか考えていたくせに勝手だとは思うものの・・・・・それでも、新しい仕事への
意欲が郁の中に生まれたということは事実だった。
「おはようございます!」
午後から郁はスタジオに入った。
先程渡された台本ではないが、やっぱりボーイズラブのドラマCDの録音だ。
「あ、郁ちゃん」
「おはようございます、神林(かんばやし)さん」
「今日は郁ちゃんが相手だっていうから楽しみに来たんだ。今日も可愛く啼かせてあげるね」
「は、はは、よろしくお願いします」
神林省吾(かんばやし しょうご)は、日高より1歳年は上だが、芸歴は2年下の声優だ。
日高とはまた違った甘い声の神林はこの世界でもかなりの人気で、作品数はもしかしたら日高よりも多いかもしれなかった。
軽いノリで可愛いとか言うので、始めは慣れなかった郁も今では挨拶だと割り切り、多少顔は強張ってはいるもののちゃんと笑
みを返すことが出来るようになっていた。
「よしっ、休憩!」
二時間ほど、普段の会話などを録って、絡みのシーン(いわゆる、セックスシーン)の前に休憩が入った。
どんなに作品をこなしてきても、やはり絡みのシーンが苦手な郁は、休憩に入ってもじっと台本に目を落とす。
出来るだけ登場人物の感情に入ろうとするが、今回の絡みは少しレイプっぽく(シリーズ物の1作目なので、くっ付く前の話らし
い)なるので、気持ち的に逃げたくなるのを必死で抑えていた。
「はい」
「あ」
そんな郁の緊張を和らげてくれる為か、神林がお茶を買ってきて手渡してくれた。
「あの、お金・・・・・」
「いいよ、愛しのメグムにプレゼント」
役の名前で言う神林に、郁も頭を下げながら答えた。
「ありがとうございます、ユウキ」
「う〜ん、そこは、こんなものじゃ僕の気持ちは揺るがないよって感じじゃないかな」
神林は、郁の隣に腰を下ろしながら不意に指摘してきた。
「毒でも入ってんじゃないのって感じ?」
「あ、そっか。メグムはまだユウキを好きじゃないんですもんね」
「そう。逃げたくてたまらないのに、逃げられない。ユウキも、逃がしたくなくて身体を先に奪ってしまう。第3作では恋人同士にな
るみたいだけど、それまでは俺のことを嫌っていてくれないと」
「はい」
年上の神林とはもう10作近く共演しているが、そのたびに色んな言葉で郁の演技を指導してくれる。
男と男のセックスは、女とは一緒じゃないということも、神林は教えてくれた。
それは単にその方法ではなく、どんなに受け側が女っぽい容姿をしていたとしても、本来の男としての性は捨てきることが出来ずに
どうしても反発してしまうものだということも。
女になりたい男と、男のまま男を好きになるのと。
(少しなんだけど、凄く違うんだよなあ)
勉強になるが、全てこれ(ボーイズラブ)関係というのがやはり・・・・・複雑だった。
「監督、明日の録りなんだけど」
郁が神林と今からの録りについて話していると、スタッフが打ち合わせをしていた監督に話しかける。自然と、郁と神林の視線も
話す2人にへと向けられた。
「日高さんがダウンしたんで、急遽予定変更」
「日高が?」
「・・・・・」
(日高さんが?)
不意に耳に入ってきた名前に、郁はハッと顔を上げた。いったい何があったのだろうと気になって仕方がないが、自分から日高の
ことを聞いて妙に思われないか気になったのだ。
ただの仕事仲間としてならばいいのだが・・・・・実際には演技ではないキスをしているし、日高からはこちらが戸惑ってしまうよう
な直接的な言葉も投げかけられている。
仕事で何時も愛の言葉を囁くような相手だ。全部本気だとは思えないが、それでもその眼差しに嘘は無い気がして、郁の気持
ちは微妙な位置にあった。
(日高さん、どうしたんだろ・・・・・)
スタッフの口調は深刻ではあるが慌てた様子ではなく、事故や重い病気といった感じではないように思う。
「監督」
その時、神林が声を出した。
「日高、どうしたんですか?」
「ん?」
「俺、明日絡みがあるんですけど」
「ああ、ライバルだったか」
「ええ。こっちが振られる役ですけどね」
理由に納得した監督が頷いていると、今日高のことを報告に来たスタッフが神林に言った。
「風邪らしいです」
「風邪?」
「嘘」
「・・・・・郁ちゃん?」
思わず、郁はそう否定してしまった。
普段はチャラチャラとした印象で、自分のこともからかってばかりいる日高だが、仕事に向う姿勢は真摯で、とても不用意に風邪
などひくとは考えられなかったのだ。
「まあ、確かにあいつは体調には気遣ってたがなあ」
「どうやら、昨日、映画の吹き替えの仕事があったらしくて。ゲストが風邪を引いてたらしいんですよ。向こうは本業じゃないし、少
しくらいいいと思ったのかもしれませんがね」
「で、でも」
「その前から、日高さん少し体調が悪かったみたいだから、一気にきたのかもしれませんが」
日高が風邪をひいたとはとても信じられなかった。
たとえ共演者が風邪をひいていたとしても、それが簡単にうつってしまうのも考えられない。
それでも、日高が明日の仕事をキャンセルしたことは事実で、キャンセルするくらいだから相当に酷いということも・・・・・きっと事実
なのだろうと思えた。
「・・・・・」
その後の仕事は神林の助けを借りてようやくOKは出たものの、この仕事を始めた当初から少しは良くなってきたかと思っていた
出来からは程遠いような気がした。
神林にも申し訳ないが、郁はどうしても気になってしまって仕方がないのだ。
「・・・・・」
郁はスタジオの階段を下りていた足を止め、鞄の中から携帯電話を取り出した。
「これ、俺の番号。貴重なんだぞ」
教えて欲しいと言っていないのに、郁の携帯を強引に奪って勝手に入力をしていた日高。
今までこの番号に掛けたことはなかったが、本当に・・・・・このまま日高に通じるのだろうか?
(これを押したら・・・・・)
「!」
その時、手にした携帯がいきなり震えた。
驚いた郁は一瞬それを落としそうになったものの、何とか握り直して液晶に出た相手を見た。事務所からだったので、郁は慌てて
通話ボタンを押す。
「はいっ、坂井です」
『郁?録りは終わったんでしょう?』
「・・・・・はい、でも、あの・・・・・ちょっと、失敗しちゃって・・・・・」
自然と落ち込んだ声になったのが直ぐに分かったのか、相手は笑いながら大丈夫と言ってくれた。
『まあ、そんな時もあるわよ。この後打ち合わせがあったと思うんだけど、台本がまだ届いてないからキャンセル。このまま帰っても
いいわよ』
「あ、はい」
『元気出しなさい。また、明日があるんだから』
「・・・・・はい」
根掘り葉掘り聞くことはせず、怒ることもしなかった大平の励ましに内心感謝しながら電話を切った郁は、そのまましばらく携帯
を握り締めて・・・・・、
「・・・・・」
やがて、思い切って再び携帯を開いた。
『・・・・・郁?』
「!」
数回のコールの後、携帯に出た日高の声に郁は驚いた。何時もは電話越しでもその甘い声音が分かるというのに、今日の日
高の声は掠れて弱々しく、辛うじて本人と分かるくらいだった。
「あっ、あのっ」
『どうした?お前から電話を掛けてくるなんて、珍しい』
そう言ってくっと笑う気配はするものの、その後に数回咳き込む音が聞こえる。それを聞いた瞬間、郁は思わず叫んでいた。
「今から行きます!」
『・・・・・え?』
「お見舞いに行きますから、あのっ、住所教えてください!」
始めは、様子だけを聞くつもりだった。仕事を休むほどに風邪が酷いのかどうか、電話越しでも確かめられたらと思っていた。
それが、日高の掠れた声を聞いた瞬間、どうしても直接会いたいと思ってしまったのだ。郁にとっては、何時も余裕があって、憎ら
しいほど元気な日高が弱っているなんて・・・・・考えたくないと同時に、心配でたまらなかった。
「行きます。教えてください」
『・・・・・郁』
「・・・・・」
『・・・・・うちに来たら、無事に帰してやれないかもしれないぞ』
こんな時にでも、そんな余裕を見せようとする日高に、郁はいいですよと言い返した。
「風邪をひいて寝込んでいる人に押し倒されたりしませんっ」
『勃たないとでも・・・・・思ってる?』
「・・・・・っ、住所!」
怒って言うと、日高は掠れた声で笑いながら、メールで送ると返事を返してきた。
「お願いしますっ」
これ以上変なことを言われないうちにと、直ぐに電話を切った郁。しばらくして、メールの着信があり、そこには日高のマンションの
住所と、持ってきて欲しいものが書かれていた。
お茶と。
蜂蜜と。
レモンと・・・・・。
「ば、バッカじゃないのっ、あの人!」
【可愛い、郁】
ハートマーク付きでメールを送ってくる元気があるのなら大丈夫だと思いながらも、郁は自分の頬が熱くなってくるのを自覚せずに
はいられなかった。
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