2
「・・・・・ここ?」
メールで送られてきた住所をタクシーの運転手に伝えてやってきた郁は、目の前のビルを見上げて思わず呟いてしまった。
業界の中でもトップクラスの人気で、声優以外の仕事もこなしている日高が住んでいる場所。
きっと、数十階建てのマンションで、ガードマンが立っていて・・・・・そんな様子を勝手に想像していたのだが、目の前のビルは5階
建ての、コンクリート打ちっぱなしのような外観だった。
「・・・・・」
中に入るには、一応インターホンを慣らさなくてはならないが、セキュリティーが厳戒だという感じはしなかった。
(本当に、ここ・・・・・だよな)
マンションの名前は確かに間違ってはいない。
しばらくそこに立って考えていた郁は、やがて思い切ったようにインターホンを鳴らした。
『あ、あの、坂井です』
インターホン越しでも、郁がかなり緊張している様子は伺えた。いや、声だけでなく、カメラ越しの表情は不安そうで、まさに狼の
家に自分からやってきた赤ずきんといった風情だった。
「開けるから、そのまま上がってきて。着いたらまた鳴らしてくれ」
『は、はい』
日高はエントランスの鍵を開けてやり、そのままキッチンへと向った。
風邪をひいているというのにシャワーまで浴びてしまったのは、この先を期待しているというよりも、郁に汗臭いと思われたら嫌だった
からだ。
共演者のアイドルが風邪をひいているというのは一目で分かり、日高は直ぐに監督にはその旨を伝えたが、どうしてもその日しか
アイドルのスケジュールが空いていないからということで、録りは強行された。
案の定、最近別の仕事が続き、少し寝不足になって体調不良に近い状態だった日高は風邪をもらってしまった。
普段から喉には気を遣っていて、ここ数年風邪もひいていなかったせいか、思ったよりも酷くなってしまった風邪のせいで、今朝久
し振りに病院に行き、注射まで打たれた。
こんなことで仕事を休むのも申し訳ないと思いつつ、今日いっぱいは大人しくしていなければならない・・・・・そう、思っていた時
に掛かってきた郁からの電話。
本来なら、風邪をひいている自分のもとに、声が商売の郁が来ていいわけはなかった。先輩として、きっぱり断るのが本当だ。
それでも、滅多にない状況に気持ちが弱っていたのか、来るなとは・・・・・言えなかった。
「あいつが自分から俺に近付くなんて・・・・・これからもあるか分からないしな」
玄関先でもう一度インターホンが鳴り、日高はゆっくりとした足取りで向うとそのまま鍵をあけ、ドアを開いた。
「あ」
「よう」
「こ、こんにちは」
「悪かったな、頼みごとをして」
「い、いいえ」
郁の手には重そうなビニール袋が握られている。
(なんか、色々買ってるみたいだが・・・・・)
日高が頼んだ以上の物を買ってきたらしいそれを手を伸ばして受け取ろうとしたが、郁は駄目ですと慌てて自分の背に隠した。
「それぐらい・・・・・」
「これぐらいでも、駄目です!」
眉を顰めてそう言った郁は、じっと日高を見てますます眉を顰める。
「お風呂、入りましたね?髪が濡れてる」
「・・・・・まあ、ちょっと」
「風邪ひいているのにっ?」
「もうかなりいいんだって」
「寝ててください!あっ、その前に、ちゃんと髪を乾かさないと!」
日高の返事にそう答えると、郁はお邪魔しますと乱暴に言いながら靴を脱ぐ。
そして、日高の背を押すようにして廊下を歩いて、突き当りのリビングまでやってきた。
「洗面所はどこですかっ?」
「せっかく、郁が来てくれたのに?」
「・・・・・っ、何しに来たと思ってるんですか!」
「・・・・・」
怒鳴られているというのに、日高は思わず笑ってしまった。
何時もはこちらがじれったくなるほどに、自分に対して距離をおこうとしている郁が、こんな風に素の表情で怒ってくれることが嬉しく
て仕方がなかったのだ。
(何時も、このくらい表情豊かに接してくれたらいいのに)
「・・・・・っ」
(な、なにっ?)
いきなり笑い始めた日高を、郁は怪訝に思いながら見た。
何時も唐突に何かする人だなとは思っていたが、こんなにも突拍子がないとは思わなかったのだ。
(風邪ひいて、仕事まで休まなくちゃいけないのに・・・・・)
どうしてこんな風に笑うのだろう?
「・・・・・日高さん」
「分かった、分かった。じゃあ、髪を乾かしてから寝室に行っているから、ほら、玄関から2番目の右側のドアな」
「あ、はい」
「何か作ってくれるのか?」
「え、えっと・・・・・」
素直に自分の言うことを聞いてくれる日高というものにも慣れなくて、郁は探るようにその顔を見つめる。
(声は、電話よりはいいみたいだけ、ど)
電話口で聞いた声はかなり辛そうな感じがしたものの、こうして直に声を聞くと思っていたよりは軽いかなとも思う。なにより、顔
色などは悪くなく、目も熱っぽくは潤んでいないので、郁は内心安堵しながらも口調だけは怒ったように言った。
「俺が出来るものなんて、期待しないでくださいよっ」
一応、日高に言われたものは買ってきたし、1人暮らしなはずの彼のために、レトルトのお粥と、果物も多めに買ってきた。
・・・・・いや。
ちらっと、郁の視線はキッチンを見た。
(・・・・・綺麗)
シンクの中も外も綺麗で、きちんと片付けているのが分かる。
(日高さんが?)
確かに、何でも器用にこなす男だとは思うが、まさかそれが家事まで通じるものなのか?それとも・・・・・。
(・・・・・誰か、いたりして)
郁の視線がキョロキョロと動いているのが分かる。
まるで何かを探すように、しかし、それを日高には知られないようにしている様が可笑しい。
(俺以外、誰かいるとでも思ってるのか?)
「郁」
「!」
いきなり肩に手を置くと、面白いほどに郁はビクッと身体を反応させた。
「な、何ですか?」
「何か、見付かったか?」
「え?」
「・・・・・女の気配」
「・・・・・っ」
わざと声を落としてそう言うと、郁はますます顔を歪めてしまう。からかうことは好きだが、もちろんこんなことで泣かせたいと思ってい
るわけではない。
日高は郁の身体を真正面から抱きなおした。
「俺は、5人兄弟の長男で」
「・・・・・」
「弟達の世話をする為に、小学校の時から家事を手伝っていた」
「・・・・・本当ですか?」
「嘘」
「!」
ドンッと日高の胸を突いた郁の顔はかなり怒っている。泣き顔よりもよっぽどそんな顔の方がいいと思った日高は、キッチンのイスに
無造作に掛けていたエプロンを指差した。
「あれ、俺の」
「それが何なんですか!」
「マイエプロンを持ってるくらい、俺は家事が苦痛じゃないんだ」
「・・・・・」
「どちらかというと好きな方かな。潔癖というほどじゃないけど綺麗な方がいいとは思うし、慣れたら苦痛でもないしな。最近忙し
くて外食も多かったからキッチンは汚れていないが、確かに俺がやってるんだよ。信じられないか?」
「・・・・・寝ててください」
信じるとも信じないとも言わず、郁はそう言ってグイグイと日高の背中を押す。それに苦笑した日高は、今度こそ素直に歩き始
めた。
(あんな反応しちゃって・・・・・誤解されちゃったらどうするんだよ、俺っ)
冗談だとしても、あんなに何度も自分を口説いてくる男に、まるで女性の影に嫉妬している風な態度を見せてしまえば・・・・・。
「!」
(しっ、嫉妬じゃないって!)
「郁?」
「・・・・・っ、な、なんでもないです、塩、効いていますか?」
風邪薬を飲んでもらうのには、何か口に入れてもらわなければならないと、レトルトのお粥を温めた郁は、寝室で横になっている日
高にそれを持ってきた。
もちろん、土鍋に入れてなどと、テレビのような真似が出来るはずがなく、食器棚の中にあるそれらしいものに入れてきた郁は、ベッ
ドヘッドに腰を預けてお粥を口にしている日高を見ていた・・・・・らしい。
先程の会話から、色々と考えることがあった郁は、今自分がどこにいるのか一瞬忘れてしまっていた。
「美味かったよ」
「あ」
何時の間にか皿の中のお粥は無くなっている。
空になったものを何時までも持たせていたのかと、郁は慌ててそれを受け取った。
「こんなのしか、用意出来なくて」
「大丈夫、郁の愛は感じたから」
「・・・・・そうですか」
食事をしたからか、それとも郁が来るまでに安静にしていたからなのか、日高の声には力が戻っている。
(良かった、後はちゃんと薬を飲んで、ゆっくりと寝てくれたら・・・・・)
元々が郁よりもガッシリとした体格の持ち主なのだ。風邪ぐらいで何かあるほどに弱ることは考えられないと、実際にこの顔を見
た郁自身も安堵して笑う。
「薬、キッチンにあったものですよね?」
「ああ」
「今持ってきますから、大人しく寝て待っていてくださいよ?」
薬を飲んで、ちゃんとベッドに横たわるのを確認したら帰ろう。郁はそう思いながら寝室を出た。
「・・・・・」
ドアが閉まる音がして、日高はホッと吐息をはいた。
注射が効いたのか、それとも郁のお粥(レトルトだが)が効いたのか、気分はもうかなり良くなった。まだ少し喉の奥が痛いような
気がしたが、多分一晩ゆっくり眠れば治るような気がする。
「・・・・・どうするかな」
(このまま帰すのが本当だろうが・・・・・)
帰したくない・・・・・そう思っていた。
せっかく郁が自ら自分の家まで来てくれたのだ。それが、単に病気の自分を心配して見舞いに来てくれたという理由でも、一歩
部屋の中に入ったら・・・・・。
「帰したら、男じゃないだろう?」
思わずそう呟いて、自然と苦笑が浮かんでしまう。
元気になった途端、好きな相手を押し倒したくなってしまう自分の現金さに、日高は笑うしかなかった。
使った皿を洗い、コップとミネラルウォーター、そして薬を持った郁は、再び寝室へと戻ってきた。
「日高さん?」
日高は大人しくベッドに横たわって、目を閉じていた。もしかして眠たくなったのかもしれないが、それならば早く薬を飲んでもらわ
なくてはならない。
「日高さん、起きて下さい」
「・・・・・」
「日高さん」
何回も名前を呼んでも、日高はなかなか目を開けてくれない。もう完全に眠ってしまったのだろうかと、郁は一先ずベッドヘッド
の上に持ってきたものを置き、身体を揺さぶって起こそうと手を伸ばした。
その瞬間、
「え?」
伸ばした自分の手を掴んだのが、日高の手だと分かる前に、
「うわっ!」
「・・・・・」
「な、何?」
上から日高に見下ろされてしまった郁は、そこでようやく、自分が日高の換わりにベッドに寝転がり、日高と体勢が変わったという
ことに気が付いた。
![]()
![]()