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「や、やだっ、ちょっ、さ、触らないでよ!」
「ん?どうして?お前、もう・・・・・勃ってる」
「!う、嘘!勃ってなんかないよ!」
「本当に?じゃあ・・・・・これは?なんだ?」
「ひゃっ、あっ、うっ、ふんっ、や、やめっ、て!」
「止めるわけないだろ。こんな可愛い声出すなんて・・・・・もっと、もっと、啼かせてやるからな」
「リ、リック!」
「はいっ、カット!」
ブースの中に響く監督の声に、郁はほっと息をついた。
(何度しても照れるよ・・・・・)
他の場面ももちろんだが、絡み(セックスシーンだけでなく、イチャイチャのシーンも含めて)のシーンは本当に苦労する。今までそれ
は、経験不足からということもあったのだが・・・・・。
「郁君、今のはすっごく良かったよ」
監督に褒められ、郁は顔を引き攣らせた。
「そ、そうですか?」
「何時もは少し硬くて、初々しい感じが良かったけど、今日のはなんか色っぽかった。ん〜・・・・・初めて男を知ったばかりの幼な
妻って感じかな」
「か、監督」
「何ですか、その例えは〜」
周りのスタッフや共演者は監督の例えにいっせいに声を上げて笑ったが、郁はその笑いの中に入れなかった。まさに、その例えの
通り、経験したばかりの状態だったからだ。
(もう・・・・・っ、声にも出ちゃってるのか?)
翌日、郁は目が覚めてもシーツから顔を上げることが出来なかった。
酔っていたわけでもないので夕べ自分が何を言ったか、何をしたかは鮮やかに記憶に残っていて、その状態で日高と顔を合わすこ
とはとても出来なかったのだ。
「どうしたんだ、郁。可愛い顔を見せてくれ」
夕べ、風邪をひいていたはずの男は、今朝になったら何時もと同じ・・・・・いや、何時も以上に艶やかな声で、甘く自分の名前
を呼んでくる。その声の中の、嬉しさと楽しさが郁にも伝わってきて、何だかそれも恥ずかしくて・・・・・なかなか起き上がらなかった
郁の耳元で、
「郁、俺の形、覚えたか?」
「!何を言ってるんですか!」
朝っぱらから言う言葉ではないだろうと飛び起きて抗議しようとした郁は、その途端ピリッと走った下半身の痛みに再び身体を丸
めてしまった。
(い、痛あ〜っ)
下半身の、とても自分で見れない場所がピリピリと痛むし、大きく広げられた股関節はガクガクの状態で、これでちゃんと立って
歩けるのかと心配になってしまうほどだ。
「郁?」
「ぅ・・・・・」
「痛むのか?」
「い、痛い、ですよ」
恨めしく思ってそう言えば、
「仕方ない、それがバージン喪失の痛みだ。勉強になったな」
などど、頭が沸騰してしまうようなことを言ってくる。
思わずその頭を叩いてしまいたくなるのだが、耳に聞こえる声も、チラッと見たその横顔も、こちらが恥ずかしくなってしまうほどに嬉し
そうなので文句も言えず、郁は今日の仕事をどうするか、それだけをじっと考えていた。
「監督じゃないけど、今日の郁ちゃんの声は本当に色っぽいよ。なに、恋人でも出来た?」
「は、ははは」
(笑って誤魔化すしかないよ・・・・・)
今日の相手は、神林桂一(かんばやし けいいち)、日高より1歳年は上だが、芸歴は2年下の声優だ。甘い声の持ち主であ
る神林はボーイズラブの攻め役の常連で、人気で言えば日高と肩を並べるくらいだった。
その彼とは、『聖フォンヌ学園シリーズ』というボーイズラブのCDで共演中で、もちろん、攻め役のリックは神林で、受け役のルイ
スは郁だ。
もう、今回でシリーズは5本目で、物語の中の2人はすっかり恋人同士という設定で、神林とも軽口が叩けるほどに仲良くさせて
もらっているが、まさか彼に、夕べ初体験・・・・・それも、男としたなんていうことは言えるはずが無かった。
「郁ちゃんは会うごとに色っぽくなるから困っちゃうよ」
スタジオの廊下、自販機でコーヒーを買って手渡してくれた神林に礼を言って受け取ろうとした郁は、あまり男が言われないだろ
う言葉に困惑してしまった。
「か、神林さん、そういうことは・・・・・」
「この後、飯食いに行かない?」
もちろん、2人きりでと耳元で囁く声は、もしかしたら録りの時よりも甘いかもしれない。
「・・・・・っ」
怒ることはもちろん、笑って受け流すことも出来なかった郁の代わりに、
「バ〜カ、先約済みだ」
「・・・・・っ」
「日高?」
30センチほどしか空いていない2人の間に強引に身体を割り込ませてきたのは、本日風邪で録りをキャンセルしたはずの日高
だった。
「大好き!リック!」
「・・・・・」
中から見えない位置で録りを聞いていた日高は、自然と眉間に皺を寄せていた。
もちろん、このセリフが芝居だと分かっているし、数時間前まで、自分の腕の中で啼かせていたという事実はしっかりあるはずなの
に、自分以外の男に愛を囁くあの不思議に魅惑的な声が勿体無くてたまらない。
(俺だけの相手役でいればいいのに・・・・・)
仕事をしている上ではそれも無理だと分かっているが、そう思わずにはいられないほど、今日の郁の声は良かった。
「日高」
「あ、監督、今日はすみませんでした」
いくら売れっ子だとはいっても、自分の不注意でスケジュールをずらしてしまったことはきちんと謝らなくてはならない。そう思って頭を
下げた日高に、監督は笑いながらいいってと言った。
「もうすっかり声はいいようだな」
「ええ、明日からまた甘く口説きますよ」
「そう願いたいねえ。今日は偶然神林君のスケジュールが空いてて、郁ちゃんもOKをくれてこの録りをしたんだが、今日の郁ちゃ
ん、妙に色っぽいと思わないか?」
「・・・・・そうですね」
「声に艶がある。雰囲気も気だるそうだし、こりゃ本当に何かあったかもな」
はははと笑う監督が本気でそう言ったとは思わないが、郁の声に艶があるというのは日高も感じていた。僅かに語尾が掠れてい
るのも、返って本当に何か事があったように感じさせて、妙に・・・・・そそるのだ。
(・・・・・ったく、今日は休めって言ったのに)
そうでなくても歩くのもままならなかったくせに、郁は絶対に休むのだけは嫌だと言ってスタジオに向かった。
いや、正確に言えば、自分の説得を聞かない郁を、監督に休みの謝罪を言うという口実を設けた日高が車でここまで送ってきた
のだ。
(いかにもヤッた風な雰囲気垂れ流しなのに・・・・・)
出来れば、部屋の中に閉じ込めておきたかった。
「ひ、日高さん?」
(帰ったんじゃないのか?)
さすがにあの足腰で電車やバスに乗るのは辛かった郁は、口では文句を言いながらも日高に車で送ってもらったことは感謝して
いた。
しかし、もちろん本当にセックスしてしまった相手の前で、いくら声の芝居とはいえ、セックスの場面を演じるのは恥ずかしくて、監
督への挨拶が終わったら帰って欲しいと頼み、日高もそれを了承してくれたはずだった。
その彼が、どうしてここにいるのだろうか?
「日高?風邪はいいのか?」
「ああ、おかげさまで」
さすがに神林も日高の出現に驚いたようだが、直ぐに頬には笑みを浮かべて言った。
歳は上だが芸歴は下という変則的な関係の2人は、互いに敬語では話さないらしい。
「今日は32回だったな」
「え?」
「何だ?」
「ルイスがリックに愛してるって言った数」
「数?」
「ばっ・・・・・!」
(バッカじゃないのっ、この人!)
以前、まだ自分が日高への感情を持て余していた時、彼は同じようなことを言った。
「神林(かんばやし)に愛してると何度言った?」
「『聖フォンヌ学園シリーズ』の撮りだったろ?ルイス役のお前はリック役の神林に何回愛してるって言ったんだ」
「俺以外の相手とラブシーンするなって言ったろ?それも、女相手じゃなく男相手に」
「愛してるなんて軽々しく言うな」
(うわっ、思い出さなくってもいいのに〜っ!)
日高の言葉を、ここまで覚えているという事実に今更ながら動揺してしまうが、それを見せてしまえばさらにからかわれてしまうの
は分かっているので、郁は必死で平静を装っていた。
「・・・・・」
そんな郁をしばらく見ていた日高は、ちらっと神林を振り返った。
「悪い、ちょっとこいつを借りるな」
「え?」
「ええっ?」
細い腕を引きずるようにして引っ張って行ったのは非常階段で、ドアを開け、明るい廊下から階段室に入ったと同時に、日高は
貪るようなキスをした。
「んんっ」
自分の言葉に一々動揺し、ビクビクとする様が可愛くて、もっと苛めたくて、その身体が自分のものだと確かめたくなった。
可愛く、色っぽい声は不特定多数の視聴者のものだが、本物の切なく、縋るような不思議な声音は、全て自分のものだ。たとえ
芝居でも、それを他の男に向けて欲しくは無かったし、聞かせたくも無かった。
「・・・・・んあっ」
散々口腔内を舌で蹂躙して解放すれば、郁はハァハァと苦しそうな息をしながら自分の身体に縋ってくる。
「足りない?」
耳元で囁くと、ピクッと郁の身体が震えた。
「バ・・・・・カ」
「俺のためを思うなら、本気で相手に愛してるって言うな」
とても頷いてはくれないだろう言葉を言うと、やはり郁は黙ってしまった。
(口から出まかせでも、分かったって言えばいいんだがな)
しかし、その馬鹿正直なところも、可愛いくてたまらなかった。
「・・・・・そろそろ、始まるか」
今から絡みのシーンだろう。面白くは無いが最後まで聞いて、帰りはそのままマンションに連れ去って・・・・・。
(同じ言葉を言わせてやる)
その想像で、多少は気が晴れた日高が抱擁を解くと、少しして顔を上げた郁が唇をへの字にしながら怒ったように言った。
「仕事では、何でも言えます。俺は、声が売り物だし」
「郁?」
「日高さんだって、色んな人に愛してるって言ってるじゃないですか」
「俺は仕事とちゃんと割り切ってる」
(これは・・・・・)
「俺だってそうですよ」
「・・・・・お前は駄目だ」
「だから、どうしてですか?」
「お前の声はそそるから。相手が本気になったらどうする」
(前にも、同じ事を言った?)
まだ、郁が自分の気持ちを本気にしてくれず、自分も本気とからかいの感情が微妙に混ざり合っていた頃のたわいない言い合
い。だが、今は2人とも本気でそう思っているのだ。
「郁」
「好き!」
いきなり、郁は叫んだ。思いがけず大きな声のそれに、さすがに日高が驚いていると、恥ずかしさを誤魔化すためか、郁は怒った
ように眉を顰めながら早口で言った。
「マイクの前以外で、こんなこと、他の人には言えませんから!」
それが捨て台詞だったのか、郁は走って階段室から飛び出して行った。
「・・・・・」
その後ろ姿を見送った日高は、今の郁の、まるで色っぽくなかった言葉を頭の中で繰り返し、やがてふっと頬を綻ばせた。
「仕方ないな、あんなに可愛く言われたら」
マイクの前以外で、多分郁は誰にも言ったことのない言葉を自分に向けて言ってくれた。今回の録りの分は、これで許してやろ
うかと思う。
「今夜はベッドの中で、愛してるって言わせるか」
多分、散々ゴネながらも、それでもきっと昨日以上の甘い声で、その言葉を自分に言ってくれるのではないだろうか。
日高はなぜかくすぐったく思って肩をすくめながら、愛しい相手が他の男に愛を囁くという面白くない場面を聞きに、自分も階段室
からゆっくりと出て行った。
end
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