STEP UP !



35








 「お帰り!!」
 家の前に車が止まる音がした途端外に飛び出した太朗は、車から降りてきた家族に向かって元気に声を掛けた。
 「・・・・・太朗、お前、もう帰ってきていたのか?」
 「だって、もう夕方じゃん!父ちゃん達こそ遅かったじゃないか!」
自分がここにいることに驚いている父に、ニカッと笑ってみせるものの、太朗は疲れ切った腰のせいで長くは立っていたくなかった。
ただ、その原因はとても父に言えるものではないので、太朗は何とかその場に立ち続けている。
 「おー、無事帰ってきたか」
 自分の後ろから声を掛ける男。きっとその顔はニヤケて、いい男の顔が台無しだろうが、それを注意してやるつもりは今はない。
(もうっ、こんなにきついの、ジローさんのせいなんだからなっ!)
そう、太朗は上杉に怒っているのだ。

 本当は、夕べ遅くまで・・・・・いや、正確に言えば今朝夜が明けるまで上杉の腕の中から解放されず、自分が何度精を吐き
出したか、上杉に身体の中に吐き出されたか分からないほど、太朗の身体はグチャグチャに汚れ、疲れ果てていた。
 「う〜・・・・・」
 「ん?どうした、腹減ったか?」
 「・・・・・腰、痛い」
 「はいはい、王子様」
 浅い眠りから目を覚ました太朗は、ずっとベッドの上の住人だった。
陽が高くなってからはソファに移動したものの、それでもまるでトドのように寝そべった形で、何かを食べるのも飲むのも、こうした状
況におちいらせた原因の上杉に命令をし続ける。
 そこで多少上杉が懲りたような顔をしたらいいのだが、何だか嬉しそうに甲斐甲斐しく世話を焼き続けていて・・・・・太朗は何だ
か、自分のしていることが上杉の喜ぶことなのではないかと思ってしまった。
 「・・・・・」
 「気持ちいいか?」
 大きな手でゆっくりと腰を揉んでもらうのは気持ちがいい。
太朗は口の中でブツブツと文句を言いながらも、何時しか眠りに引き込まれていった。

 その後、昼過ぎまでダラダラとしていた太朗は、直ぐに家に帰ると言った。何時家族が旅行から戻ってくるのかは分からなかった
が、出来れば自分の方が帰ってくるみんなを出迎えたい。
 上杉は夕食までと思っていたらしいが、太朗の申し出に笑いながら頷いてくれ、そのまま家まで送ってもらって、2人でお茶を飲
んで一息ついた時、車の音が聞こえてきたのだ。




 「父ちゃん、自分で電話してこいって言ったくせに、9時にはもう寝ちゃってたんだって?俺、母ちゃんにそれ聞いた時は、嘘だって
思っちゃったじゃん!」
 「・・・・・悪かったな」
 「別に、いいけどさ」
 太朗の文句は長く続かず、直ぐに妻や弟のもとに行って、お土産お土産と煩く言っている。
その姿をしばらく見ていた苑江は、チラッと憎たらしいほどに容姿の良い、堂々とした態度の男に視線を向けた。
 「・・・・・世話になった」
 「いい湯だったか?」
ニヤッと肉厚の唇が緩む。
 「・・・・・ああ、宿もいい場所だった」
 「そりゃ良かった。今度は俺がタロを連れて行ってやるかな」
 「・・・・・っ」
(俺の前で堂々と言いやがって・・・・・っ)

 温泉に浸かって、美味しい料理を出されて。もちろんそれらは自分くらいの収入の人間だったらなかなか手を出せないほどに豪
華なものだったが、苑江としては太朗のことが気になって心から楽しむことが出来なかった。
 「どうしたんですか、苑江さん。ほら、もっと飲んで」
 「い、いえ、私は・・・・・」
 苑江はチラッと腕時計を見る。時刻は午後7時半。後1時間半経てば、太朗から電話が掛かるはずだ。嘘のつけない太朗の
声を聞けば、2人で何をしているのか絶対に分かるはずで・・・・・それまでは酔ってなどいられなかった。
 「佐緒里さん、苑江さんはお酒は?」
 「強い方だと思いますけど」
 新鮮な刺身を息子の伍朗と顔を綻ばせながら食べている妻が気軽に答える。
(どうしてそんなに落ち着いていられるんだ?)
大事な息子があんな男に食われているのかもしれないのに、親だったら落ち着かなくて心配で、本当ならこのまま帰ろうとまで思
うのではないだろうか?
(・・・・・本当に、俺よりも肝が据わってるんだから)
 「ほら、強いのなら少しはいいでしょ?」
 「・・・・・」
 「強いんでしょう?僕を酔い潰しちゃえばいいんじゃないかな?」
 それなら大人しくなるだろうしと笑う壱郎に、とりあえず付き合いで一杯だけ口にした。いい酒なのだろう、喉に程よい痺れを感
じる。
 「次は?」
 「・・・・・そちらも」
 「じゃあ、お互い注ぎっこしましょうか」
 このまま放っておいても、壱郎は煩く声を掛けてくるだろう。それならば自分が相手を酔い潰せばいいかと、苑江は傍にあったウ
イスキーのボトルを手に取った。
 「酔い潰れるまで、ですよ」

 そして、苑江が次に気がついた時には、既に翌日の朝、もうそろそろ昼になろうかとしている時刻だった。
慌てて起き上がれば頭がガンガンと痛み、唸る苑江に妻の佐緒里が告げたのは、飲み始めて1時間少しで自分の方が酔い潰
れたということ。
そして、見せられた自分の携帯の着信履歴には、午後9時少し過ぎに太朗から電話があったことを示していて、直接話したらし
い佐緒里が言った。
 「仲良くしてたみたいよ」

 いったいどういう意味があるのかは分からないが、佐緒里は楽しそうに笑っていた。
その笑みの意味が知りたいような知りたくないような・・・・・そんな思いのまま、午後1時にゆっくりとしたチェックアウトをし、そのま
ま家に帰ってきたのだ。
(・・・・・まあ、もう帰ってきていたことはいいが)
 自分達よりも先に太朗が家に帰ってきていたことにはホッと安堵するものの、心の中の、何かあったのかも知れないという疑惑
は消えないだろう。自分が知りたくないと思っている限り、それは・・・・・消えない。




 「あっ、家族みんなでお世話になりました!」
 駆け寄って頭を下げた太朗に、壱郎は穏やかに笑った。
 「ううん、僕も楽しかったし」
 「でも、父ちゃんが酔っ払って潰れちゃうなんて、イチローさんってお酒に強いんですね」
 「楽しいお酒は何時までも飲みたいじゃない?苑江さんとだけじゃなく、美人の佐緒里さんとも飲めたしね」
へえと素直に頷く太朗を目を細めて見つめた壱郎は、そのまま上杉に視線を向けた。その満足したような穏やかな表情を見れ
ば、事が上手くいったかどうかは直ぐに分かる。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 自分の視線に気がついたのか、上杉がこちらを向いた。にこっと笑ってから軽く手を振れば、面白くなさそうに眉を寄せて不機嫌
な表情を見せるが、壱郎からすればこんな風な子供っぽい態度を示してくれる方が嬉しかった。
太朗のおかげで、何だか息子との距離がぐっと近付いたようで、壱郎は太朗に感謝する気持ちで一杯だった。






 「太朗、あの、な」
 「何?」
 何か言い難そうに言葉を濁す父親はらしくなく、太朗は首を傾げてしまう。
どんな時だって正しく、強い父親が、自分に対して何を言おうとしているのだろう。太朗はじっと父を見つめ、父も太朗を見下ろ
して・・・・・その時、車が止まる音がして振り向いた太朗は、ちょうど姿を現した小田切の姿を目にした。
 「太朗」
 そんな太朗の意識を、父の声が引き戻す。
 「いいのか?」
 「え?」
 「お前は、本当にこの男でいいのか?」
 「父ちゃん・・・・・」
 「職業に文句を言うつもりはないが、それでもこの男は特殊だ。太朗、それでもお前はこの男の隣に立つことが出来るのか?」
真剣な父の言葉。自分のことを心配し、それでも上杉を卑下してはいない。
そんな父の気持ちが嬉しくて、太朗は自分の気持ちをはっきりと告げた。
 「大丈夫、父ちゃん。俺は将来ジローさんにヤクザを引退させるから」
 「は?」
 「タロ?」
 太朗の言葉に驚いたのは父だけではなく、上杉はもちろん、様子を伺っていた小田切も、壱郎も、そして母も、意外な返答だ
というようにびっくりしている。
しかし、これは太朗が前から思っていたことだった。




 「ヤクザ全部が悪い人だって、今の俺は思ってないけど、やっぱり、ジローさんが危ない目に遭うのは嫌だから。俺が大人になっ
て、ちゃんと自分のことに責任を持てるようになって、ジローさんがもう少し歳を取ったら、今までジローさんが俺にしてくれた分を、
今度は俺がしてあげたいんだ」
 「タロ・・・・・」
 太朗のそんな気持ちを初めて知った上杉は、何と言っていいのか分からなかった。
今自分が太朗にしていることは、あくまでも自分がしたいからであって、その見返りを望むなど少しも考えてはいない。
(俺の身を、案じて・・・・・か)
 ヤクザという生業を嫌ってではなく、上杉の身を案じてそう思ってくれているとは・・・・・。
 「だから、父ちゃん、俺のことは心配ないからっ」
自分は父のような公務員を目指すと高らかに宣言する太朗は、本当に父親である苑江のことを尊敬し、愛しているのだろう。
そして、それほどまでに大切な父の意思に背いてまでも、自分の隣にいようと思ってくれているのだ。
(・・・・・くそっ)
 胸が詰まる。こみ上げてくるものに鼻がツンとしてしまうが、もちろんこんな場所で失態は見せられない。
そんな自分の気持ちをごまかすように、上杉は太朗に言った。
 「タロ、俺の世話をしてくれるつもりか?」
 「当たり前じゃん、ずっと一緒にいるんだし、オシメだって換えてあげるよ」
 悪戯っぽく笑いながら太朗は言うが、そんな言葉で自分が怒るはずもない。
 「・・・・・バ〜カ。俺のは何時までもお前を可愛がってやれるように、そう簡単に使えなくなるわけねえだろ」
 「ジローさん!」
 「おい!」
上杉の言葉に苑江がたちまち声を荒げ、太朗も恥ずかしさと怒りで顔を赤くする。
 「素直に嬉しいって言えばいいのに」
 「まだ子供なんですよ」
 直ぐ傍では、父と小田切が勝手なことを言っている。
 「ジローさんのスケベオヤジ!!」
父親の手前だからか、それとも本気でそう思っているのか、野外だというのに大声でそう言ってくる太朗に、上杉はニヤッと悪戯っ
ぽく笑って言った。

 「それでも、俺がいいんだろう?」




                                                                      end