その日、茅野広海(かやの ひろみ)は朝から嫌な感じがしていた。
それは、朝壮絶に寝起きが悪い兄、陽一(よういち)に、起こしに行っていきなり耳たぶを噛まれたことではなく。
早朝ランニングをしてきた弟の大地(だいち)に、チビチビとバカにされたわけではなく。
弁当用に作った卵焼きが焦げたわけでも・・・・・ない。

とにかく朝からずっと脳裏を離れない嫌な予感は、その日学校に行ってからようやく、形となって広海に襲い掛かってくること
になった。



 「おはよう、茅野」
 「・・・・・おー」
 「何?元気ないみたいだけど」
 学校の裏手の駐輪場に自転車を置いた広海は、下駄箱の前で同じクラスの椎名克彦(しいな かつひこ)と鉢合わせ
をした。
とても今年の春中学を卒業したばかりの高校1年生には見えない落ち着きを持った椎名は、広海が高校に入ってからの
知り合いだ。
友達・・・・・と言い切るにはもっと濃密な。
親友というには少し余所行きの気持ちも残っていて。
それでも、初対面から風のように自分と中学校からの腐れ縁の相手である小林芳樹(こばやし よしき)の間に入り込ん
できた椎名と新田薫(にった かおる)は、広海にとっては既に心の中の一つのハードルを越えてきた存在でもあった。
 「なんか・・・・・やな予感がすんだよ」
 自分の内側に入れた相手だからこそ、そんな弱音ともいえる言葉を漏らしてしまう。
 「やな予感?」
 「そ。あんまりこんな予感なんか信じないんだけど・・・・・」
(どうしても頭の中から消えないんだよな)
 妙に現実主義の広海は、予感という不確かなものは信じない方だ。いや、多分兄も弟も、広海がそんな些細な気分
で落ち込んでいると知ったら笑い飛ばしてしまうだろう。
ただ、今日ばかりはその予感というものを信じてしまう人間の心境が、少しだけだが分かるような気がした。
 「気にするなって言っても仕方ないかもしれないけど」
 「・・・・・」
 「何とかなると思っていいんじゃないかな。なんたって、茅野なんだし」
 「なんだ、それ?」
自分だから何だというのか・・・・・不思議そうな顔をしている広海に気付いたのか、椎名が苦笑を漏らした。
 「どんな負の雰囲気でも吹き飛ばしてしまえるってことだよ」
 「・・・・・」
(なんか、意味分かんないんだけど)
 自分も含め、同級生の誰よりも大人びた雰囲気を持つ椎名の言葉に、広海は腹を立てることも納得することも出来な
かった。



 「セーフッ!」
予鈴が鳴り、朝のホームルームが始まる寸前、小林が教室に飛び込んできた。
いい意味でマイペース、悪く言えば止めどなくルーズな小林は、まだ入学してから一ヶ月ほどしか経っていないというのにも
う片手以上の遅刻をしていた。
褒められる事ではないのだが、クラスの人間も、そして担任さえも、これが小林なんだと思うようになっていた。
 「今日は間に合ったな、小林」
 「うん」
 「小林君、おはよー!」
 「おはよ」
 既に蓮見高のプリンスと噂されているほどの有名人になっている小林は(有名なのは小林だけではないが)、クラスメイト
達からも男女問わず声が掛かる。それに一々愛想よく応えるのだから、ご苦労様と言いたいところだ。
広海は自分にはとても真似の出来ないことをあっさりとしてしまう小林を内心感心しながら見つめていた。
 「おはよー、茅野」
 「・・・・・おう」
 「何?元気なさそうな顔してるけど、どうかした?」
 「・・・・・そんなの分かるのかよ」
 「俺が茅野のことで分からない事があるはずないだろ」
 「・・・・・」
(何か、表現が変じゃないか?)
 学校のプリンスと言われている小林を頭ごなしに怒鳴っては後々が怖い。
既にその地雷を踏んだことがある広海は、頭の中で小林に一発蹴りを入れながら力なく笑った。
 「別に」
 「茅野」
 「ほら、早く席につかねーと、1限始まるって」
片手で小林の背中を押すと、まだ気になるのか何度も振り返りながら小林は席に着いた。
斜め後ろの席からじっと自分を見ている気配が背中にビシビシと感じる。
(だから、これ以上俺を疲れさせんなって〜)
机に突っ伏してしまいたいのを何とか我慢すると、広海はようやく机の中から入れっぱなしの教科書を取り出した。



 「やっぱり、気のせいか?」
 五限を終えた時点で、広海の感じていた嫌な予感は全く形になって表れなかった。
もしかしたら本当に単に気のせいだったのかもしれないと、広海の顔には笑みさえも浮かんできた。
 「あ、茅野ご機嫌じゃん!朝の不機嫌は何だったんだよ?」
前の席の新田が、からかうように言ってきたが、それにさえもニンマリとした笑みが返せた。
 「そんな顔した覚えはないけどな」
 「あーっ!心配してたんだぞ!」
 「嘘つけ、面白がってたくせに」
 「へへ、バレタ?」
 何時もつるんでいる四人組の中で、一番子供っぽい(広海には言われたくないと思っているかもしれないが)新田は、こ
ちらまで笑みを誘われるような笑顔を浮かべる。
しかし、
 「こら、新田っ、前を向け!」
6限目は、一ヵ月後に迫った体育祭の話なので、担任が教壇に立っていた。
叱られた新田が慌てて前を向くと、担任の谷原が続けて言った。
 「今日は6月の体育祭の話し合いだ。先ず最初に決めるのは、色別リレーの選手だ。体育祭の中でも一番の見所だ
からな、しっかりと選べよ!」

(ん?)

なぜか、広海はゾクッと背中を震わせる。
(なんだあ、また嫌な予感が・・・・・)
朝に感じ、ついさっきまでには消えていた嫌な予感が、今急速に大きくなっていくような気がしていた。