「お帰り、広海」
 今日の茅野家の夕食当番である茅野陽一(かやの よういち)は、玄関の鍵が開く音にハンバーグを捏ねていた手を止
めて顔を上げた。
末の弟である大地(だいち)は、中学三年になったというのに今だ部活一筋で、日が暮れるまで帰ってはこない。
そうなると、今時分に帰ってくるのは真ん中の弟の広海しかいなかった。
 「広海?」
 「・・・・・ただいま」
 「どうした?」
 「え?」
 「何かあったんだろ?」
 自他共に認めるブラコン(広海限定)の陽一は、広海の表情、仕草一つで、その心境が分かると自負している。
玄関に入るなり、腹が減ったと叫ばなかったことや。
今日のおかずは何だと、陽一の手元を覗かなかったことだけでなく。
僅かに拗ねたような目付きだけでも、嫌なことがあったのだということが分かった。
(あそこには、あいつもいるしな)



 広海だけではなく、自分達家族をも巻き込んだ嵐。
その元凶の1人が、今年入学したばかりの広海の高校にはいた。
そのことを知った陽一は、それとなく他の高校の受験も勧めたが、広海はごく単純な理由で(自転車通学圏内という、広
海的には重要な条件だったらしいが)その高校を決めてしまった。
 頭ごなしに反対しても、頑固な広海が頷くはずがない。
それが良く分かっていた陽一は、わざと広海の意見を尊重するように助言をすると、既にその高校に進学している後輩に
それとなく様子を報告してもらうことにした。

 既に何回かあった連絡では、広海はその元凶と接触することはなく、それなりに楽しい高校生活を送っているらしい。
広海の話からも、同じ中学から進学した小林以外にも、気が合う奴が出来たと聞いた(彼らについては、改めて会ってみ
ようとは思っているが)。

 ただ、後輩の口ごもった言葉の中には、中学生の時と同じように、広海が相当やんちゃをしているらしいというのは想像
が付いたが・・・・・まあ、それも広海の可愛い個性だ。
多少のことは、目をつぶるのが当然と、兄馬鹿の陽一はどんな状況でも広海のことを一番に考えていた。



 「広海」
 そんな可愛い広海の顰め面は、自分がさせる時は別として、あまり見たくはないものだ。
陽一は改めて手を洗うと、そのままキッチンとリビングの間に律儀に立ち止まっている(さっさと部屋に閉じこもらないところが
可愛い)広海の顎を掴んで上を向かせた。
 「何があった?ん?」
 まるで、恋人に囁き掛けるような甘い声。
そうでなくても、容姿端麗、頭脳明晰、冷静沈着・・・・・etc・・・・・四文字熟語のデパートのような完璧な陽一にそれほ
ど大切に扱われるのが自分しかいないのだと、鈍い広海は全く気付かないだろう。
それがじれったくもあり、楽しいと、陽一は余裕を持つことが出来た。
 「広海」
 もう一度名を呼ぶと、広海はぷいっと陽一から目を逸らしながら言った。
 「選ばれた」
 「選ばれた?」
 「リレーの・・・・・色別選手」
 「リレーの?凄いじゃないか!」
陽一は広海の運動神経をよく知っている。
中学二年生の途中で、不本意ながらもサッカー部を辞めることになってしまった広海だが、その恵まれた運動神経は今だ
錆付くことはなかったらしい。
 「やったじゃないか!」
 陽一はぎゅうっと広海を抱きしめた。
まだまだ細く、少年らしい身体は、陽一の腕の中にすっぽりと納まってしまう。
 「は、離せって!」
恥ずかしいのか、腕の中でもがく広海を離さず、陽一はその耳元で囁いた。
 「お前の走る姿、楽しみだ」
 「あ、兄貴っ」
 「お前だって、断る気はないんだろ?」
 「・・・・・」
 広海は『選ばれた』と言った。
一度決まったことを理不尽にも断ることはない広海の性格では、口や表情では嫌だと言いながらも、結局はその決定に
従ったのだろう。
(詳細は武藤に聞けばいいか)
広海がどういった経緯で選ばれたのかは、蓮見高に通う後輩に聞けばいいと思っていると、背中から低く威嚇するような
声が聞こえた。
 「こんなとこで、何セクハラしてるんだ、ヨーイチ」
 「・・・・・」
(あ~煩いのが帰ってきた)
 「何だ、早かったな、大地」
 「え?だ、大地?」
 「・・・・・」
広海を抱きしめた腕をほどかないまま顔だけ振り向くと、そこには不機嫌マックスな末の弟が仁王立ちになっていた。



(こんなとこで、ヒロミを抱きしめて・・・・・何してんだ、こいつは!)
 今日はコーチに急用が出来て、何時もより早く部活が終わった。
特に寄り道もなくそのまま真っ直ぐに家に帰ってきた大地の目に映ったのは、真ん中の兄、広海を抱きしめている長兄の
姿。
自然と、大地の声は威嚇するような声音になった。
 「こんなとこで、何セクハラしてるんだ、ヨーイチ」
 多分、自分が帰ってきたことに気付いていただろう長兄は(鈍い広海は全く気付いていないだろうが)、少しも慌てること
なく、目元に笑みを浮かべたまま言った。
 「何だ、早かったな、大地」
 「・・・・・悪いか」
 まるで2人の邪魔をしたのが自分の方だとでもいう様な態度に、大地の眉間にはますます皺が寄る。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
陽一とは3歳歳の差があるとはいえ、バスケットで鍛えている大地の体格は遥かにその年齢を超えている。
身長こそ僅かに負けてはいるものの、横幅は既に陽一も追い越していて、広海などは腕の中にすっぽりと納まってしまうだ
ろう。
 「さっさと離れろ」
何時までも広海を抱きしめたままの陽一に、大地は唸るように言い放った。





                                               





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