大力の渦流
31
翌日、海藤は早速仮のマンションから元のマンションへと戻ることにした。
真琴が2人で暮らし始めたあの部屋を大切に思っていることをよく知っているし、ここにいれば海老原が撃たれたことを何
時までも思い出すと思ったからだ。
戻ることを告げると、真琴の顔は本当に嬉しそうに綻び、海藤は自分の決断が間違っていないことを確信した。
「あ〜、自分の家に戻ってきた感じ〜」
お気に入りのリビングのソファに思わず倒れ込んだ真琴は、その空気が思ったよりも埃っぽくないことに気付いた。
見れば床も綺麗で、観葉植物の土もちゃんと湿っている。
多分、海藤が何時戻ってもいいようにきちんと手配してくれていたのだと気付き、真琴は思わず笑みを浮かべて振り返っ
た。
「ありがとうございます」
「ん?」
今日は海藤も休みにしたようで、早速今夜の夕食の支度を始めるらしい。
今夜は倉橋と綾辻、そして海老原と筒井も招待しているので、結構な量を作らなければならない。
真琴は慌ててソファから立ち上がると、キッチンに掛けてある自分用のエプロンをつけた。
「ゆっくりしていてもいいんだぞ?」
「手伝わせてください」
「そうか?・・・・・ありがとう」
「いいえ」
昨日までの、胃が痛くなるような張り詰めた時間が嘘のようだった。
朝早く出掛け、夜遅く帰ってくる海藤がどうか無事であるように・・・・・そう祈っていたことも、もしかしたら海藤は気付いて
いたのかもしれない。
昨夜抱き合って、海藤を身体だけでなく心でも感じて、真琴はようやく自分が潤った感じがした。
(あんな出来事はもうやだけど・・・・・)
しかし、覚悟はしておかなければならないのかもしれない。覚悟が出来ているとは言い切れないが、何時また同じような
ことがあっても、海藤からは逃げないという自分の気持ちはきちんと持っておきたい。
「ご馳走作りましょうね」
「アシスタント、頼むぞ」
「はい」
真琴は張り切って頷いた。
「お邪魔しま〜す!」
まだ夕方にもならない時刻、早速綾辻が両手いっぱいのヒマワリの花束を抱えて持ってきた。
「どうしたんですか、これ!」
「誕生日でもないけど、全部が終わったお祝いだもの。パーッと華やかなものがいいかと思ってね」
「直ぐに飾りますね」
6月の頭という、ヒマワリの季節よりは少し早いが、こんな大輪の花を見ると心まで明るくなる気分だ。
真琴は花束を抱きしめて、綾辻の後に続く客に晴れやかな笑顔を向けた。
「いらっしゃい!今日はゆっくりしていってくださいね!」
「お邪魔します」
「俺までどうもすみません」
「失礼します」
さすがに、ある程度の年齢である筒井は落ち着いていたが、海老原はこれだけの人間に囲まれて少し緊張しているらし
い。
何時もは普通の青年とそれほど変わらない服装をしているのに、今日はカジュアルながらもスーツを着ている。
倉橋はケーキが入っているらしい箱を冷蔵庫にしまうと、自分も上着を脱いで振り返った。
「何かお手伝いしますが」
「・・・・・お前じゃちょっと危ないな」
珍しくからかうような海藤の言葉に、倉橋は途惑ったように視線を彷徨わせる。
そんな倉橋の肩をポンと叩いて、笑ったのは綾辻だった。
「こっちは私に任せて、克己はマコちゃん達のお相手よろしく」
「綾辻」
「社長、私なら戦力になりますよ?」
「そうだな、頼むか」
キッチンに並び立つ背が高く見目のいい男達をしばらくぼんやりと見つめていた真琴は、ふと気付いたように自分の隣で
同じようにキッチンを見つめている倉橋に言った。
「色々と、ご心配かけてすみませんでした」
真琴のその言葉に振り向いた倉橋は、僅かな自嘲の笑みを浮かべて首を振った。
「いいえ・・・・・私は何も出来ませんでした」
「倉橋さん」
「周りでオロオロとするばかりで・・・・・自分がこれほど役立たずだったのかと反省するばかりです」
整った倉橋の容貌に影が落ちる。
真琴はそんな倉橋を見たくなくて、思わずその腕を掴んで叫んでしまった。
「そんなことないですよ!」
「真琴さん?」
「俺、倉橋さんがいてくれて心強かったです!何もしなかったことなんてないですよ!倉橋さんはちゃんと俺を力付けてく
れたし、側にいてくれるだけでも安心出来たんです!それって凄いことですよねっ?」
「・・・・・」
倉橋は笑った。
綺麗な、温かい笑みだった。
「御前が近いうちに顔を出せと言われてましたよ?社長の顔より、マコちゃんの無事な姿を自分の目で確認したいんで
すって」
「・・・・・」
綾辻の言葉に海藤はただ苦笑を返すだけだ。
確かに今回菱沼には手を出さないようにと伝えたが、遠く離れた地で自分達のことを心配してくれていたのだろうというの
は容易に想像出来た。
本当の親以上に親らしい菱沼には海藤も頭が上がらず、綾辻にそう言ったのならば近いうちに本当に顔を見せに行かね
ばならないだろう。
「・・・・・綾辻」
海藤はふと、有能ながら扱いにくい部下の名を呼んだ。
丁度器用に生春巻きを作っていた綾辻は手を止めて海藤を見る。
「はい?」
「藤永会長のこと・・・・・俺が話をつけようか?」
その名に、綾辻は一瞬手を止めたが、直ぐに笑いながら言った。
「大丈夫です、全て自分でカタをつけますから」
「・・・・・本当に?」
「私は一生社長にお世話になるつもりですよ?ここにはマコちゃんもいるし、何より・・・・・」
そこまで言って、綾辻の視線はリビングに向けられた。その視線の先に誰がいるのか、海藤は見なくても分かる。
この、誰の指図も受けない自由な心の主が、唯一その存在に縛られている・・・・・それも面白いのかもしれないが。
「来週でも、休みを取るか?」
「え?」
「お前の誕生日、何もしなかったしな」
「・・・・・」
思い掛けない言葉だったのか、綾辻は今度は本当に驚いたように目を見開いて・・・・・次の瞬間、口元に笑みを浮か
べた。
真琴達に見せるような明るい笑顔ではなく、何かを企んでいるような・・・・・意味深な笑みだ。
「いいんですか?」
その意味を、海藤はちゃんと分かっているに違いないと思っているのだろう、共犯者に向けるような言いように、海藤は表
情を崩さないまま、あからさまな溜め息をついた。
「仕方ない、俺はお前を手放せないし・・・・・」
「社長」
「多分、あいつもお前を手放せないだろうし、な」
「ありがとうございます」
早口に礼を言った綾辻は、リビングにいる4人を振り返った。
「皆、出すのを手伝って頂戴!働かざるもの食うべからずよ!」
「は〜い!」
真琴が張り切って返事をし、続いて倉橋と筒井も立ち上がる。
「俺も」
「海老原さんは今日はお客様!ゆっくり座っててください」
「お、落ち着けないんですけど・・・・・」
情けなさそうに言う海老原の言葉に一同が笑い、真琴がトコトコと海藤の側に寄ってその耳元で囁く。
「元通りですよね?」
「ああ」
愛しい笑顔が、変わらずにそこにある。
海藤はその幸せを実感しながら、柔らかな笑顔を浮かべた顔で頷いた。
end
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