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暖冬と言われていたが、頬に当たる風がこんなにも温かいとは思わなかった。
杉野和沙(すぎの かずさ)は運転席に座っている沢渡(さわたり)の横顔をチラッと見て、また慌てて視線を流れる車外の
景色へと戻す。
(本当に・・・・・来ちゃった)
恋人との、2人きりの旅行。
今年の春から大学二年生になる和沙にとってそれはかなりの冒険だった。
相手が、自分と同じ男だからというわけではなく、一泊という泊まりの旅行だからというわけでもなく。
もちろん、それらのことを全てクリアしているとは言い難いが、自分から何か一歩を踏み出すという事自体が、和沙にとっての
途方もない勇気を必要とする冒険なのだ。
引っ込み思案な性格の改善の為に、高校生の時から叔父が経営している喫茶店『彩香』でバイトをしていた和沙。
今の恋人といえる相手と知り合ったのもその店だった。
客層は20代から40代の大人の男性客が多く、和沙がバイトに入った当初から皆優しく受け入れてくれた。
注文を急かすことはないし、失敗をしたとしても笑って許してくれる、臆病な和沙にはありがたい職場だった。
そんな和沙に、初めからからかうように口説いてきたのが、沢渡俊也(さわたり としや)という常連客だ。
外資系企業に勤めているサラリーマンだが、背が高く、容姿も良く、何時も綺麗に背広を着こなして、いかにも出来る男と
いった感じに自信に満ち溢れている沢渡のことを、和沙は初めとても苦手に思っていた。
しかし、そんな和沙に呆れることなく、急かすこともなく、距離を持って辛抱強く求めてくれた沢渡が次第に気になるように
なり始め、やがてゆっくりとそれは恋心に変わってしまった。
今でも、本当に自分が沢渡に相応しいのかどうかは分からない。それでも、ゆっくりとした歩みの自分を立ち止まって待っ
てくれ、手を差し伸ばしてくれる沢渡の手を離すことは出来なくなっている。
そして・・・・・今和沙は、待っていてくれた沢渡の為にも、自分自身の気持ちをしっかりと見つめる為にも、今ここに、沢渡
の隣にいた。
「那須高原なんて親父くさかったかな」
じっと窓の外の風景を見ていた和沙に話し掛けると、和沙はビクッと肩を揺らしてから振り向いた。
「そんなこと、ないです」
「もう少し寒い時期だったら伊豆とか箱根の温泉も捨てがたかったんだけどね・・・・・あ、和沙くらいの歳だったら、ディズニ
ーランドとかの方がいいのか」
「いいえ、僕、人混み苦手だし」
「そっか」
(うん、分かってる)
和沙の返事を聞きながら、沢渡は少しだけ微笑んだ。
付き合う前から考えれば、もう1年以上時間は経っている。和沙の性格や好みも分かっているつもりだし、それくらいの気遣
いは年上の自分がして当然だとも思っていた。
最初に見た時、いいなと思った。
臆病なウサギのように、叔父であるマスター以外にはどんな相手でもビクビクと怯えたように対しているところも、何をするにも
相当慎重なところも。
自分の容姿や肩書きに群がってくる女達には飽きていたし、セックスしたい盛りはもう過ぎていたつもりの沢渡は、慣れない
野生動物に触れてみたいという軽い気持ちで和沙に構うようになった。
何時の間にか恋愛感情に変わっていたなど、自分自身でも気付かなかった。
だが、自分の気持ちが分かれば、沢渡も世慣れた男だ、大人の手管で和沙の心を絡め取っていった。
予想外だったというのは、自分が思っていた以上に恋愛に慣れてなかったということだ。
身体だけの関係や、駆け引きのような恋愛は数をこなしてきたくせに、キスをするのさえ罪悪感を感じるほどに相手に対し
て気を遣うという自分を初めて知った。
そのせいで、予想以上に時間が掛かってしまったが、ようやく臆病な和沙が自分の為に一歩を踏み出してくれ、今沢渡
はこうして・・・・・和沙の隣にいた。
「那須高原にしよう」
旅行に行くとは返事をしたものの、その行くへは和沙が返事をしてから決めた。
車で行ける静かな場所・・・・・そんな所を選んでくれたのは自分に気遣ってくれたのだと分かる。電車などで行くほどに遠く
ではなく、車で行き来が出来るということは、多分、和沙が帰りたいと言えば直ぐに帰れる為だろう。
幾つかの候補の前で悩んでいた和沙に、一つ一つ場所の説明をしてくれた沢渡に、一番の条件は何かと聞かれ、
「静かな場所」
と、答えた。
その結果が那須高原だ。
避暑地で有名なそこは、3月の今は人出もそれ程多くはないらしい。
それを聞いた時ホッとしたのも事実だが、反面こうも気を遣われていいのかとも思った。
(そんなに、危なかしいのかな)
いくら和沙でも、ここまで来てやっぱり止めたと言う気はない。もしも言いたくなったとしても、唇を噛み締めて言わないと誓
える。
和沙だって、これ以上沢渡を待たせたくないのだ。
「観光したい所、ある?」
「観光、ですか」
和沙は足元に置いたカバンの中からガイドブックを取り出す。行き先が決まってから自分で買った本だ。
「・・・・・」
そんな自分を沢渡がどんな目で見ているのか全く気付かないまま、和沙は家で何度も読んでチェックしておいたページを開
いた。
「牧場が多いんですよね」
「なに、乳絞りしたい?」
「そ、そんなんじゃないですけど、アイスとか食べてみたいなって」
「そうだな、美味そうだ」
「後は、沢渡さんの行きたい場所でいいです」
「俺かあ」
運転をしている沢渡は当然だが前を向いていて、和沙の方へは時々視線を流すくらいだ。
それをいいことに・・・・・というと誤解があるかもしれないが、和沙は何時もより躊躇うこともなく沢渡の横顔を見つめることが
出来ていた。
「俺も、特にはないんだけど」
「どこも?」
「和沙と一緒にのんびりしたいだけなんだが・・・・・はは、俺も歳かな」
「そんなこと・・・・・」
直ぐに打ち消そうとして口を開きかけた和沙だが、何と言ったらいいのか分からなくて結局は口を噤んでしまった。
自分の口下手は幼い頃にからかわれてから、半ば諦めていたのだが・・・・・沢渡と知り合ってからはそれをもどかしいと思うよ
うになっていた。
自分の思いを直ぐに伝えたいのに、言葉に出来ないことが悔しい。
(沢渡さん、歳なんかじゃないのに)
今年33になる沢渡は、見掛けももちろんだが雰囲気も若々しい。それでいて、軽さなど見せずに大人の余裕もある、和
沙にとってはこうなりたいという理想のような人なのだ。
(な、なんて言ったらいいんだろ・・・・・)
和沙の焦りを肌に感じて、沢渡の笑みはますます深くなった。
こんな風に、実際に言葉が出てこなくても、和沙が自分の事を考えてくれているのがよく分かるからだ。
(いい傾向だな)
旅行に行くと決めてから、和沙は少しずつだが沢渡にもっと近付こうと努力をしてくれている。
見詰め合う回数とか。
手が触れる頻度とか。
キスの長さ・・・・・とか。
それまでの和沙からすれば驚くほどの進歩で、今までの1年間とこの数日の時間が同じくらいの長さにさえ思えるほどだ。
「和沙」
「え?」
信号待ちで止まったのを理由に、沢渡は左手で和沙の手を握った。
ここが街中でなかったら、キスしたいくらいに今の自分は上機嫌だ。
「・・・・・っ」
「落ち着いた?」
「え・・・・・あ、はい」
「焦らなくていいよ、俺は待ってるのも楽しんでるって言ったろう?」
「・・・・・はい」
「よし。まだもう少し掛かるから寝ていても良いよ」
「・・・・・」
(眠るなんて、出来るわけないよ)
そうでなくても、運転免許を持っていない自分は沢渡と交代することも出来ないのだ。ちゃんと起きて話し相手に(その役割
も出来ていないかもしれないが)なっていたい。
それに、寝顔を沢渡に見られるのは・・・・・恥ずかしい。
「・・・・・」
「・・・・・」
沢渡が手を伸ばしてラジオをつけた。今まで静かだった車内に、FMラジオの洋楽が流れ始める。
(・・・・・もしかして、僕の為、かな)
今までラジオや音楽を流さなかったのは、そうでなくても小さな声の和沙の言葉をきちんと聞き取ってくれる為ではないだろう
か?
そんな風に思うと、沢渡の言動の全てが、自分を想ってくれているのだと感じて、申し訳ないと思う以上に喜んでしまう自分
がいる。
「・・・・・」
自然と頬が緩みそうな気がして、和沙は慌てたように沢渡に背を向けて寝たふりをした。後少しだけ・・・・・この笑みを抑
えることが出来る時間だけ、こうして目を閉じていようと思う。
(ごめんなさい、沢渡さん)
「・・・・・」
「・・・・・」
少しして、また信号に捕まったのか車が止まる。そして、
「・・・・・っ」
不意に、優しく髪を撫でられて、寝たふりをしているというのに和沙は大きく身体を揺らしてしまった。
「・・・・・」
頭上で、沢渡が笑う気配を感じる。それが、寝たふりをしている和沙を笑ったのかどうかは分からないが、和沙はますます顔
を上げるタイミングを逃してしまった。
(う・・・・・どうしよう・・・・・)
2人きりの旅は、まだ始まったばかりだった。
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