目の前の建物を見て、和沙が固まってしまったのが分かった。
和沙の手から旅行用の少し大きめのカバンを受け取りながら、沢渡は出来るだけ軽い口調で言う。
 「知り合いの別荘だって言ったろ?」
 「き、聞きましたけど・・・・・」
こんなに立派だなんて思わなかったという呟きが聞こえる。もちろん、沢渡はその和沙の反応が予想済みだったので慌てず
にその背を押して促した。
 「せっかくの和沙との旅行だし、これくらい男の面子としては当然だ」
 「沢渡さん・・・・・」
まだ迷っているらしい和沙に、沢渡は更に言葉を足した。
 「ほら、早く荷物を置いて買い物に行かないと、今日の夕食は無しになるぞ」

 和沙の要望を聞いて場所を決めた沢渡が、次にしたことは宿泊場所決めだった。
そうでなくても引っ込み思案な和沙を、不特定多数の人間が出入りするホテルに泊めることは出来ない。男同士だとか、
分不相応だとか、気にしなくてもいい事を気にするのは目に見えていた。
それならばと、幸い避暑地でもある那須高原には別荘も多く、その中の貸し別荘を一軒借りることにする。旅行シーズンで
はないので格安に借りることが出来た。
 ・・・・・と、いうのは、和沙に説明したことで、本当は少し違う。
この別荘は第三者の別荘を借りたわけではなく、実際は沢渡の伯父の持ち物だった。
沢渡は自身も外資系の企業に勤めているが、実家もそれなりの家柄だ。父はいわゆる企業オーナーで、本来沢渡は働か
なくても十分生活出来る立場だった。
親に反抗して自立をしたといえば聞こえはいいが、単に沢渡は外の空気を吸ってみたかっただけで、父や家族の生き方を
否定するつもりは無い。

 和沙の家は、叔父であるマスターに聞けばごく普通らしい。
父親はサラリーマンで、母親はパートで。貧しいわけではないが、飛び抜けて裕福でもないと聞き、沢渡は自分の身内のこ
とはしばらく伏せておくことにした。
もう少し、和沙が自分のことを好きになってくれるまで、その心だけではなく身体まで全て自分のものになるまで、和沙が怯
えて離れていかないように、沢渡は全てを明かす前に和沙を絡め取るつもりだった。



(な、なんか、想像よりも凄い所・・・・・)
 沢渡に背を押されて一歩別荘の中に足を踏み入れた和沙は、ここがとてもリーズナブルな値段の貸し別荘だとは思えな
かった。
何も知らない和沙から見ても、高そうな家具や装飾品が、嫌味なく上品に納まっている。
(こんな所に泊まっていいのかな)
もしかしたら、沢渡にかなり散財させてしまったかもしれないと思うと申し訳なくてたまらない。和沙には1円も出させないと言
われたが、今からでも少し受け取ってくれないかなとも思ってしまった。
 「和沙」
 リビングの手前で立ち止まったままの和沙は、名前を呼ばれて慌てて振り向く。
 「は、はい」
 「部屋はどうする?」
 「え?」
 「幾つかあるんだが・・・・・それとも、俺と一緒でもいい?」
 「えっ?」
振り向いた和沙は、沢渡の姿を見て目を奪われた。
何時もは和沙がバイトをしている喫茶店でのデートが多いので、沢渡は大抵スーツ姿だった。吊り物ではないオーダーらし
いスーツはとても高そうなもので、いかにもデキる大人の男といった感じだ。
しかし、今目の前にいる沢渡は珍しくVネックのニットにジャケット、ジーンズという普段着で、髪も軽くセットしているだけなの
でかなり若く見えた。
 「・・・・・」
 見慣れない雰囲気の沢渡には、今日会った瞬間もドキドキしてたまらなかったが、もう慣れたかと思った今でもかなり緊
張してしまう。
 「和沙?」
 「あ」
ぼうっと沢渡に見惚れていた和沙は、もう一度名前を呼ばれて慌てて我に返った。
視線を向けた先の沢渡は、なぜか苦笑を浮かべたまま自分を見ている。和沙は微妙に視線を背けながら何ですかと聞い
てみた。
 「聞いてなかった?部屋はどうするかって。俺と一緒でもいい?」
 「・・・・・」
(部屋・・・・・)
 それがどういう意味を含んだ言葉か、この旅行に来るまで相当考えた和沙にはちゃんと分かっている。
本当は即座に別の部屋にと言いたい所だったし、多分沢渡はそんな和沙の意見を尊重してくれるだろうが、それでは今日
何の為に自分はここまで来たのか分からない。
(家族とか、友達と一緒の旅行じゃ・・・・・ないし)
 「・・・・・一緒で、いいです」
小さな声で、それでもはっきりと言った和沙は、頬に当たる視線が更に強くなったような気がした。



 「うわ〜、結構大きいんですね」
 「この辺りの別荘を持つ人間が来るようだしね」
 「凄い、果物とかチーズとかの種類もたくさん・・・・・」
 物珍しく陳列棚に視線を向ける和沙の後ろからカートを押して付いていく沢渡は、何度かこの高級スーパーに来たことが
あるので珍しいという気持ちにはならない。
ただ、控えめながら楽しそうな和沙の様子を見ているのは楽しかった。
(それでも、まさかOKするなんて・・・・・な)

 「・・・・・一緒で、いいです」

 部屋はどうするかと言った自分の問いに、和沙はそう答えた。
きっと、違う部屋を希望するだろうと思っていた沢渡は、その答えにらしくも無く動揺してしまったくらいだ。
 「・・・・・」
友人同士の旅行とは違う、恋人同士の旅行だ。部屋が一緒でいいと言ったその言葉の向こうに和沙が何を考えているの
か沢渡も分からないはずがなかった。
(怖がらせないようにしないと、な)
全てが初めてのはずの和沙を、絶対怖がらせることなく抱こうと思う。
そう、沢渡はもう和沙を抱くことを躊躇はしなかった。



 最初は豊富な食材に目が行っていた和沙だったが、次にその値段を見て驚いてしまった。ゆうに、何時も和沙が買い物
をする店の3倍の値段だ。
いくら別荘地にある店とはいえ、ここはかなりグレードが高い方だろう。
(・・・・・沢渡さん、普通の顔してるし・・・・・)
 内心、安い物をと探し続けている和沙とは違い、沢渡は値段を見ることも無くカートに食材を乗せていっている。
 「さ、沢渡さん」
 「ん?」
 「あの、お肉、こっちの方が・・・・・」
国産の半分以下の輸入物の肉のパックを指差したが、沢渡は笑いながら首を横に振って言った。
 「店で食うより安いものだよ」
 「で、でも」
 「せっかく和沙と一緒にいるんだから、少しくらい贅沢したっていいだろ。ほら、あっちにはケーキ屋があるみたいだぞ?和沙
の好きなイチゴのショート、買って行こうか」
 「・・・・・」
(そんなに甘やかさなくていいのに・・・・・)
 沢渡が優しくしてくれればくれるだけ、恥ずかしさと共に申し訳ないと思ってしまう。
立派な社会人である沢渡に、大学生の自分が敵わないのは当然だが、沢渡はその当然以上に和沙を甘やかしてくれる
のだ。何も返せない自分が申し訳なくてたまらないが、きっと沢渡はそんな和沙の気持ちも全て分かっているだろう。
(全部、読まれている感じ・・・・・)
 「和沙?」
 「・・・・・沢渡さんが好きなチーズケーキもありますよ」
 「じゃあ、2つ、買って帰ろうか」
 「はい」
今の和沙に出来ることは、沢渡に甘えることだ。それこそが和沙にとっては苦手なことなのだが・・・・・それでも、勿体無いと
言う言葉を何とか口の中で押し殺した。



 男2人の夕食。
和沙は料理が出来ないわけではないようだが、自分のペースでないと慌てて失敗するタイプだった。
それとは違い、沢渡は何でも器用にこなせる。料理も一時期凝った時があったその名残なのだが、今日は自分1人でさっ
さと作ってしまうのではなく、和沙と一緒にキッチンに立って話しながら楽しんで手を動かしていた。
 「手、切らないように」
 「大丈夫ですよ。僕だってジャガイモの皮くらい剥けます」
 子ども扱いしないようにと少しだけ頬を膨らませた和沙は、ゆっくりと、慎重に包丁を動かしている。
それを横目で見ながら、沢渡は手早くスパゲッティのトマトソースを作り、片手間にカボチャのポタージュも作った。段取りさえ
頭に入れておけばそれ程難しくないものだが、和沙にとってその手の動きはとても不思議なものに映っているようだ。
 「沢渡さん、凄い」
 「ん?」
 「僕、そんなに手が動かなくて・・・・・」
 「和沙は丁寧にしているじゃないか。俺のなんて、よく見たら手抜きが激しいんだよ」
 真面目な性格の和沙は、ジャガイモの皮を少しも残さず、芽の部分も綺麗にくり抜いている。その丁寧さで時間は掛かっ
てしまうが、沢渡は全く気にならなかった。
むしろ、こうして肩がくっ付くほどに側にいても、和沙が少しも緊張していないことが感じとれてくすぐったく思ってしまう。
何かに夢中になると、和沙は恥ずかしさを忘れてしまうのだ。
 「和沙、次はニンジン」
 「ニンジン?何に使うんですか?」
 「もちろん、あれ」
沢渡が目線で差したのは、先程買ってきた少し高めの国産牛ステーキ肉。
 「あれは、下手な手間は掛けずに焼こうと思って」
 「美味しそう」
 「美味いよ」
(俺達2人で作ってるんだから)
 フライパンで野菜を炒める音や、湯を沸かしている音に、包丁を使う音。
そして、時折訊ねてくる和沙の柔らかな小さい声。
普段都会で暮らす自分の耳にはもっと色んな音が溢れているが、こんなにも心が穏やかになる音など無かったように思う。
静かな静かな、2人だけの時間だ。
 「和沙、気をつけて」
 「・・・・・はい」
 親のように何度も気遣う言葉を掛けてしまう沢渡に、和沙も根負けしたかのように苦笑を零す。
窓の外の日は、もう完全に落ちてしまっていた。