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 「和沙、旅行に行かないか」


 そう言った瞬間の、和沙の丸く大きな目が更に大きく見開かれたのを見て、沢渡は可愛いなという場違いな思いを抱い
た。
 「・・・・・旅行?」
 「ああ。和沙はもう学校は休みに入ってるだろう?土日を使った1泊2日くらい、時間空けられないかな」
追い詰めないように、しかし、逃げ場がないように、沢渡は言葉を選んで言った。



 沢渡俊也(さわたり としや)が、大学1年生の杉野和沙(すぎの かずさ)と付き合い始めて、そろそろ1年が経とうとし
ていた。
大人しく、引っ込み思案な和沙の歩みに合わせて、今までの自分だったら思わず笑ってしまいそうなほどのゆっくりとした歩
みで付き合っている。
 それが不満というわけではないが、先日、和沙がバレンタインのプレゼントとしてネクタイを贈ってくれた時、沢渡は彼が変
わってきていることを実感した。
今までの和沙なら恥ずかしさが先に立って、どんなに気持ちが動いたとしても結局は行動を取らないはずだった。
それが、数日の間があったとはいえ、自分に対してプレゼントをくれた。
和沙の心の中で、沢渡の存在がそれほど強くなったという証のような気がして、沢渡もそろそろ自分も一歩進んでみること
にしたのだ。
 「何か、考えてる?」
 「え、あ・・・・・」
 途惑っていることは、その表情を見れば分かる。
沢渡は俯く和沙の耳元に唇を寄せた。
 「セックスが怖い?」
 「・・・・・っ」
あからさまな表現を和沙が嫌う事は分かっていたが、思い切ってセックスという言葉を言ってみた。
案の定、まるで少女のように恥ずかしがってしまった和沙の反応は予想通りだ。
 「そのことを、全く考えないこともないけど・・・・・今更無理強いはするつもりはないよ?それだけが、恋人同士の全てじゃ
ないしね」
 まるで、和沙の方に全ての責任があるかのように言う自分の遣り方は卑怯なのだが、人を疑うことをしない和沙はそんな
自分を疑うこともしないだろう。
(悪い、和沙・・・・・)
 「ただ、和沙の全てを欲しいと思っているのも本当だけどね。和沙がどんどん綺麗になってくるから、俺も少し・・・・・焦っ
てる」
沢渡の指先が、テーブルの上でギュッと握り締められた和沙の手の甲をゆっくりと指先でなぞると、和沙はビクッと手を引こう
とする。
そんな和沙の手を、沢渡は少し強引に掴んで引き止めた。
 「返事はゆっくりでいい。これを断わったって、俺達の関係が変わるわけじゃないからね。ただ、和沙に一度、ちゃんと考え
て欲しいと思ってるんだ」



 和沙がどういった答えを出すか、沢渡はじっと待っていた。
和沙がバイトする喫茶店で会った時も、何時もと変わらぬ態度をとった。
自分達の関係が変わらないと言った言葉は嘘ではない。これで和沙がNOと言ったとしても、待つ時間がもう少し長くなっ
たのだと思えるほどには沢渡は大人だった。
しかし、もういいよと言ってやるほど・・・・・優しい男ではない。
(ゆっくり、じっくり考えて、和沙)
 店に訪れるたび、和沙はまるで助けを求めるような視線を向けてくる。
しかし、沢渡はその視線に一切気付いていないかのように、何時もと変わらない態度をとり続けた。



 それが数日続いたある日の早朝。
 「・・・・・?」
既に起きていてコーヒーを入れる準備をしていた沢渡は、突然鳴った携帯電話を手に取った。
こんな早朝に掛かってくるのは仕事のトラブルかと眉を顰めたが、液晶に出た名前は思い掛けなく可愛い恋人、和沙だっ
た。
(こんな朝に?)
気を遣い過ぎるほど遣う和沙が、こんな早朝に連絡を取ってくるとはどういうことだろうと、沢渡は少し心配になりながら電
話に出る。
 「和沙、どうしたんだ?」
 『ご、ごめんなさい、こんなに早く・・・・・』
 「それは全然構わないが・・・・・」
昨夜も店で会ったが、特にこれといった変わったことはなかったと思う。いや・・・・・。
(もしかして・・・・・答えが出たのか?)
 「何かあった?」
 『・・・・・あの、誘ってもらっていた・・・・・旅行の、話・・・・・』
 「ああ、あれ」
(やっぱりそうか)
和沙なりに答えが出たのだと分かった沢渡は、口元に複雑な笑みを浮かべた。
きっと今の自分の顔は、目の前に和沙がいなくて良かったとさえ思える程に情けないほど不安たっぷりな表情になっている
だろう。
 「どうする?」
 ただ、口調だけは何時もと変わらないように努力した。
このまま和沙が断わりの言葉を言っても、その後のフォローをきちんとすることが出来るように、軽く何気ない口調のまま訊ね
てやると、随分長い間を空けた後、和沙は意外にもきっぱりとした口調で言った。
 『連れて行ってください』
 「・・・・・え?」
 一瞬、聞き間違いだろうと思って思わず聞き返した沢渡に、和沙は重ねてはっきりと言う。
 『旅行、連れて行ってください』
 「和沙・・・・・」
 こんな返事が来るとは想像していなかった。
きっと和沙はどんな風に断わろうか、それで悩んで時間が掛かっているのだろうと、期待する気持ちとは裏腹に既に頭の中
では諦めきっていたのだ。
 「・・・・・本当に?」
 『お、遅かったですか?』
 「いやっ、そんな事はない。ただ、きっと駄目だろうと思ってたから・・・・・」
 『・・・・・ごめんなさい、遅くなって・・・・・。でも、僕、ちゃんと考えました』
 「和沙」
それ以上は、今電話口で聞いても信じられない思いの方が強い。
何より、こんなに大切で重要な言葉を電話口で終わらせたくはなかった。
 「今日、店に行く。そこで、ちゃんと顔を見て言ってくれないか?」



 和沙が気を遣ってOKを出したとは思わない。
多分、他のこととは違い、今回のようなことはどんなに和沙が相手に対して譲歩しようとしても、最終的には断わってしまう
話だったはずだ。
 1年、付き合った。
出来るだけ会って、顔を見て、話して。沢渡は少しは和沙の事を理解していると自負している。
だからこそ、嬉しいと思う反面、相当な無理をさせたのではないかと心配にもなった。
 「いらっしゃい」
 「・・・・・ああ」
 夕方、沢渡が店に訪れた時、和沙は何時ものように少しだけ笑んで出迎えてくれた。
 「コーヒーでいいですか?」
 「ああ。マスター、少しいい?」
 「あまり長くは駄目だぞ」
 「はい」
和沙の叔父であるマスターに一応断わり、沢渡はコーヒーを運んできた和沙を自分の前の席に座らせた。
和沙は素直にイスに腰掛け、何時ものように少し俯いている。
 「今朝の電話、本当にいいの?」
 「・・・・・」
 「和沙が本当にそう思ってくれたんならいいけど、もしも無理してるんならいいんだよ?」
 「・・・・・無理じゃ、ないです」
 「和沙」
 「僕、ちゃんと考えました。考えて、沢渡さんと一緒にいたいなって思ったんです」
 和沙は言葉の通り、もう気持ちをちゃんと決めているようだった。
小さい声ながらもはっきりと言い切る和沙に、沢渡は意地悪かもしれないことを言ってみる。
 「何もしないって、約束は出来なくても?」
暗に、抱くかもしれないという意味を含んだ言葉。
それでも・・・・・和沙の気持ちに揺らぎはなかった。
 「それでも、です」
 「和沙・・・・・」
 「前に、進みたいって思いました。僕の事を想って、ずっと待っていてくれた沢渡さんの為にも・・・・・僕自身の為にも、ちゃ
んと考えて・・・・・決めました」
 「・・・・・」
 「こんなことくらいで、こんなに考えて・・・・・返事が遅くなってごめんなさい」



 じわじわと、沢渡の胸の中が熱くなってきた。
自分が思っていた以上に和沙は自分の事を想ってくれていて、自分の想像以上に大人になっている。
その変わっていく瞬間をずっと見ていようと思っていたのに、どうやらその速度に沢渡が付いていっていなかったようだ。
 「・・・・・分かった」
 「沢渡さん」
 「行き先、2人で一緒に決めよう」
 「・・・・・はい」
恥ずかしそうに、しかしそれ以上に嬉しそうに微笑む和沙に、沢渡はこれまで待ってきた時間が全く無駄ではなかったのだ
と思う。
あの長く、甘苦しい時間は、今この瞬間全て浄化された。
 「楽しみだな」
 「・・・・・」
笑いながら言った沢渡の言葉にも、和沙は頷いてくれる。
自分1人の空想でしかなかった旅行がたちまち現実味を帯びてきて、沢渡は年甲斐もなく浮かれてきた自分の気持ちに
苦笑しながら目を瞑った。




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