前編







 「松原、急いで第一会議室に行ってくれっ」
 「・・・・・はい?」
 まだ入社して2ケ月あまり、仕事も満足に任せられていないはずなのにと、いずみは思わず聞き返してしまった。
 「私ですか?」
 「そうだ」
 「いったい何の?」
 「俺も分からんが、とにかく急いで行け!」
 「はあ」
今だ納得いかないという顔のまま、いずみはとにかく言われた会議室に向かった。



 松原いずみは、今年大学を卒業したばかりの新社会人1年生だ。
一流でもなく、三流でもない、ごく平均的な大学を卒業したいずみが、香西物産(こうさいぶっさん)という超一流企
業に入社出来たのは、今現在も本人自身も全く分からないままだ。
大学在学中に大変世話になったからと、創業者直々に会社案内を送られた時も、てっきり友人の悪戯だと思ったく
らいで、はなから眼中になかったいずみに代わり、念の為と会社まで電話をしてみたのはまだ中学生の弟で、正式に
就職した今、いずみは全く頭が上がらない。
 配属された部署は総務部で、即戦力ではないいずみはよく失敗をして怒られているが、小動物のような可愛さと、
子供のような素直さで、今や部署の癒し系のアイドルとなっていた。



 言われた第一会議室は重役室の並ぶ階にあり、主に役員会などの重要会議に使われている。
滅多に乗らない上層階直通のエレベーターに乗り、開いた扉の向こうに広がっていたのは、広々とした空間。
想像していたような赤ジュウタンは敷いていなかったが、それは華美なことを嫌う新しい重役の指導だろうと、噂だけし
か知らないいずみはぼんやりと思った。
(俺には全っ然関係ないとこだよなあ)
半信半疑のままドアをノックすると、間をおかず中からドアが開く。
 「お足を運ばせまして申し訳ありません」
 「あ、はい、いえ」」
 迎え入れてくれたのは、いずみも見たことのある人物だった。
(尾嶋さんだあ)
 専務秘書、尾嶋和彦は、専務自らヘッドハンティングをしてきた噂の人物だ。
いずみも何度か社内で見かけたことがあったが、背の高い、いかにもエリートといった雰囲気だった。
 「どうぞ」
 「あ、あの」
 「何か?」
 「ホントにお、私でしょうか?」
確認を取るように聞くと、尾嶋は穏やかに微笑みながら頷いた。
 「お呼びしたのは松原いずみさんで間違いないですよ。さあ、お入り下さい」
 「は、はい」
 怖々中に足を踏み入れると、大きな窓ガラスと重厚な円卓のテーブルが目に入った。
 「うわ〜」
 初めて見る高層からの景色に圧倒され、いずみは呆然と視線を向けたままだった。
 「松原君」
 しばらくはそのままいずみの態度を許してくれていた尾嶋だったが、、なかなか視線を戻さないいずみを苦笑交じりに
呼んだ。
 「いいかな?」
 「あ、す、すみません!」
慌てて視線を戻すと、尾嶋はまだ笑みを含んだままだ。
 「仕方ありません。女性でない松原君の視線が、初めて見る外の景色に向けられても」
 「はあ?」
 「うるさい」
 聞き返すいずみの声に、もう一つ別の声が重なった。
慌てて視線を向けた先には、イスに腰掛けている男がいた。
 「か・・・・・」
 「か?」
(カッコイイ・・・・・)
かろうじて口をつぐんだいずみだったが、それでも感嘆の目を向ける事は止められなかった。
外見は上品なエリートという雰囲気の尾嶋と似ているものの、その圧倒的なオーラは男が全く別の世界の人間だと知
らしめるような存在感を持っていた。
どこかで会ったことがあるような気がしたが、どうしても思い出すことが出来ない。
これほど印象的な男を忘れるはずはないのにと首を傾げるいずみに、男はチラリと視線を向けて言った。
 「今から口説くのに、私をおとしめてどうする」
 「そのようなつもりはなかったのですが」
 からかうような口調を止めず、尾嶋は先程から固まったままのいずみに言った。
 「こちらの方はご存知ですね?」
 「あ、あの、見たこと・・・・・は、拝見したことはあるんですけど・・・・・」
 「知らないと?」
 「すみません!」
それがとんでもなく失礼なことだと思い慌てて頭を下げたが、尾嶋は全く気にする様子もなく、かえって面白そうに言った。
 「あの方は我が社の専務、北沢慧(きたざわ さとし)氏です」
 「せ・・・・・んむ?」
 「まだ就任一年だが」
 北沢は立ち上がっていずみの前まで近付いて来た。
 「社内報は見ないのか?」
 「み、見ました。役員の顔写真も載ってましたけど・・・・・」
(もっと老けて見えたし〜)
会長以下、親族がずらりと役員を務める香西物産の若き専務の話はいずみも聞いたことがあった。
国内トップの大学を卒業後、海外の有名な大学をスキップで卒業した御曹司。
頭脳明晰なだけではなく、その類まれなカリスマ性と、強いリーダーシップ、それ以上に、素晴らしい容姿の持ち主の御
曹司は、間違いなく時期社長だといわれ、さらに深い帝王学を学ぶ為にも、31歳という若さで専務に就任したらしい。
 いずみにとってはあまりに遠い存在で、写真の人物と目の前の男がなかなか結びつかなかった。
 「あの、でも、私に何の・・・・・?」
 戸惑ったような視線を向けてくるいずみに、慧はよく響く声で言った。
 「君には私の許婚になってもらうつもりだ」