後編







(どう考えても俺には無理だし〜)
 どういう理由からか分からないが、自分が選ばれたのは何かの間違いに違いがない。
とにかく考え直して貰おうと思ったが、近寄りがたい慧ではなく尾嶋を振り返って言った。
 「秘書って時間に正確で、英語だってペラペラじゃないと駄目ですよねっ?」
 「駄目ということはありませんね。出来ればそうあった方が望ましいですが」
 突然問いかけられても、尾嶋は律儀に答えてくれた。
 「じゃあ、俺失格!たまに遅刻しちゃうし、英語は全然駄目だし!」
 「全く?」
 「全くです!英語の授業は念仏に聞こえてましたから!」
自信満々に言える事ではないのだが、いずみは早くこの場を立ち去りたくて頷いた。
そんないずみを黙って見下ろしていた慧は、いずみの心境とは反対に次第に面白くなってきた。
専務であり、次期社長でもある御曹司の自分に、今まで媚びたり萎縮してしまう者が多かった。そうでなければ妬み
の感情を抱いているものだが、いずみはそのどれも当てはまらない。
(傍に置いてたら面白いな)
 「松原、これは命令だ」
 「め、命令・・・・・」
 「だな、尾嶋」
 優秀な秘書は一瞬の内に上司の心情を読み取ったようで、直ぐに同意の意を述べた。
 「組織とはそういうものです。松原君も自分の力不足に納得しないで、少しでも多くのスキルを積もうとする意力を
持った方がいいですね」
 「ス、スキル・・・・・」
 聞いたことはあるが意味は良く分からない言葉に、いずみは思わず縋るような視線を向ける。
それを見た慧は思わず眉を顰めた。
目の前にいる自分以外に頼ろうとするのが面白くなく、強引にでも自分の方に視線を向けたくなった。
 「いずみ」
 思わず名前で呼ぶと、いずみは最初ポカンとして、やがて一瞬で真っ赤になった。
(脈はあるのか)
女を口説くように、とは思わないものの、無意識の内にマニュアル通りに身体が動いてしまう。
 「むんんっ・・・・・!」
(・・・・・柔らかい)
 気が付くと、慧は自分より縦も横も一回り小さないずみの身体を抱きしめてキスをしていた。
思わず叫ぼうとしたのか空いたままの口の中に当然のように舌を差し入れ、我が物顔でその口中を蹂躙すると、押し
返そうとしていたいずみの両手に力がなくなってくる。
 いったん唇を離し、再度キスをすると、縋るように両手が肩に伸びてきた。
大学を卒業した社会人のわりに、いずみの反応はぎこちなくて物慣れないようだ。
(まさかまだ・・・・・)
経験がないのかと思ってしまうぐらいだが、面倒だとは思えず、むしろ新しいプロジェクトに取り組む前のようにワクワクし
てくる。
 更にその小さな尻に手を伸ばそうとした時、今まで無言で控えていた尾嶋がぺチッとその手を叩いた。
 「会社でそれ以上は禁止です」
 「お前・・・・・」
 いいところをと文句を言おうと視線を向けると、尾嶋は微笑を浮かべたまま呆然と立ち尽くしているいずみに声を掛
けた。
 「松原君、大丈夫ですか?」
 「ふえ・・・・・?」
 「残念でしょうが、ここで婚前交渉させるわけにはいかないので」
 「こんぜ・・・・・って!」
 やっと我に返ったいずみは慌てて慧から離れた。
手の中の温もりが離れた慧は恨めしそうに尾嶋を睨むが、尾嶋はそれを綺麗に無視すると、羞恥に顔を紅潮させた
ままのいずみに言った。
 「意に沿わぬ行為は、たとえ婚約者が相手だろうと犯罪行為ですから。何か困ったことがあったら私に言ってください
ね」
 「尾嶋っ」
 「紳士に見えて、この人は意外と獣ですから」
 「け、ケダモノ・・・・・」
 「私がきちんと花嫁教育をさせて頂きます。よろしいですね、専務」
 「・・・・・ああ」
 やり手の秘書に丸め込まれた気がしないでもないが、子供っぽく反対するのもみっともないだろう。
なにより忠実な部下は、結局は慧のプラスになることしかしない。そう頭を切り替え、慧は尾嶋の背に隠れるようにいる
いずみを見てニヤッと笑った。
 「しっかり頑張るんだな、許婚殿」
 「うう・・・・・」
今この瞬間、いずみの平凡な日常は幕を閉じた。



                                                                 end