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もう直ぐ入社1年、先日は今春の新入社員の社内見学にも立ち会った松原いずみは、目の前で腕組をしながら
難しい顔をしている男をじっと見つめた。
(お、怒ってるよ・・・・・)
秘書として男の下について、ようやく7ケ月目。男が上機嫌か不機嫌かの顔色は分かるくらいには側にいるいずみは、
この心臓が凍りそうなほどの緊張感をどうしたらいいのかと、内心泣きそうになりながら自分の隣に立つ直属の上司に
助けを求める視線を向けるが、上司は何時もの涼やかな表情のまま、
「もう決定したことですから」
そう、更に重い石を投げつけた。
「・・・・・」
(お、俺、ここから逃げちゃ駄目なのかな・・・・・っ)
ごく平凡な容姿性格だと自覚していたいずみが、なぜか去年の春に就職出来たのは超一流の企業、香西(こうざ
い)物産だった。
その理由は、今は会社の会長にあたる人物が、学生時代のいずみに世話になったからという《鶴の恩返し》的な不思
議な話だったが、話はそこで終わらなかった。
いずみのことをかなり気に入ったらしい会長が、今は会社で専務という立場の自分の孫の許婚にいずみをと強引に
決めたのだ。
国内トップの大学を卒業後、海外の有名な大学をスキップで卒業した御曹司。 頭脳明晰なだけではなく、その類ま
れなカリスマ性と、強いリーダーシップ、それ以上に、素晴らしい容姿の持ち主の彼は、間違いなく時期社長だといわ
れ、さらに深い帝王学を学ぶ為にと、31歳という若さで専務に就任した。
もちろん、女のような名前であってもいずみは男で、日本で男同士の結婚が認められているという事実はなく、それは
本当にお互いの気持ち次第なのだが・・・・・。
男は平凡ないずみのどこを気に入ったのか、かなりあからさまな言葉でいずみを欲しいと言ってくる。
いずみ自身は男同士という大前提と、あまりにも育ちが違うという事で初めは確かに逃げ腰だったのだが、何時しか男
の情熱に流されるようにキスをし、それよりももう少し先にまで進んでしまった。
男同士なのに、好きかもしれないと思い始めた相手。上司以上恋人未満の不安定な時間が過ぎていく中で、い
ずみと男には思い掛けない問題が突然持ち上がった。
(この私に見合いだと?いったい何を考えてるんだ、尾嶋はっ)
若干32歳、親族会社とはいえこの若さで大企業の中枢である専務という立場の北沢慧(きたざわ さとし)は、秘
書室長と専務秘書の肩書きを持つ悪友、尾嶋和彦(おじま かずひこ)を遠慮無しに睨んだ。
しかし、お互いの悪行も苦労も知っている男は、そんな視線など少しも脅威ではないらしい。
「私も丁寧なお断りを何度も入れたんですが、あちらが一度会うだけでも構わないと強くおっしゃられたので。どうやら
どこぞのクラブであなたをお見掛けしたそうですよ」
「クラブ?」
(そんな所で?)
確かに以前はかなり遊んでいた。けして褒められた私生活ではなかったが、いずみと知り合った初夏頃からはそんな
遊びからはいっさい足を洗い、身体だけの関係を続けてきた女達とも別れた。
それがこんなに間を空けて、まるで罰ゲームのように自分に報いが襲ってきたということなのか?
「一ヶ月ほど前、お付き合いで行かれたクラブに偶然居合わされたとか」
「一ヶ月ぅ?最近じゃないかっ」
「私は別に以前のお遊びの相手とは言っておりません」
「・・・・・っ」
口では到底尾嶋には勝てないと、慧は視線をいずみに向けた。
先程からの自分と尾嶋の会話を可哀想なほどオロオロしながら聞いていたようだったが、慧からすれば自分の恋人に
見合いの日時を知らせてくるいずみの気持ちの方が分からない。
もちろんそれは尾嶋の命令だろうが、本当に嫌だったら投げ出しても構わないのだ。
「いずみ」
「・・・・・っ」
名前を呼ぶと、いずみは慌てて顔を上げた。
視線が合った途端、いずみの方が俯いてしまう。
「いずみ」
「は、はい」
「お前はいいのか?私が女と見合いをしても」
少しはいずみの方も自分を好きなのではないだろうか。いや、時間が掛かっても振り向かせてみせると強気に思っては
いたものの、こんな風に誰かとの仲を取り持つようなことをされてしまうとさすがに慧も少しめげる。
たとえ、それが仕事であってもだ。
「お、俺・・・・・」
いずみはなかなか答えることが出来ないようだ。
慧はその態度に深い溜め息を付いた。
「・・・・・っ」
(呆れてる・・・・・っ)
面前でこれ見よがしな大きな溜め息をつかれ、いずみは本当に泣きそうな気分になってしまった。
尾嶋が言うには、慧ほどの地位にいる人間ならば見合いさえも仕事の内で、今回のことも一度会えば何とか理由付
けをして断るつもりだと聞いた。
それならばと・・・・・本当はとても気が進まなかったけれども、一つの仕事として慧に見合いの話をしたのだが、今視線
に入る慧の傷付いたような表情を見ると自分のしたことが間違いだったという事がよく分かった。
(どうしよう・・・・・)
怒って、傷付いた慧に、何と答えていいのか分からない。
そんないずみをしばらく見ていた慧は、低い声できっぱりと言い切った。
「分かった」
「専務」
「詳しい場所と時間は後から聞く。後・・・・・相手のこともな」
全く見知らぬ相手と見合いをする事がどんなに虚しいものなのか、いずみはとても想像が出来なかった。
「尾嶋さん!」
専務室を出た途端、いずみは尾嶋を仰ぎ見た。
「あのっ、このお見合い、どうしてもしなくちゃいけないんですかっ?」
今更かもしれないが、もしも断ることが出来るのならばと思った。
しかし、尾嶋はいずみを見下ろしながら何時もの口調で静かに言った。
「既に決められてしまったことを今更白紙にすることなど出来ない。・・・・・それに」
尾嶋の口元に皮肉気な笑みが浮かぶ。
「本当に嫌だと思ったのなら、もっと早く反対するものだ。後悔先に立たずと言うだろう」
「・・・・・」
「これから忙しくなるぞ。一度自分が引き受けた仕事は最後まで完璧にしなさい」
厳しく、頼りになる上司はそう言うと、先に秘書室の方へと歩き始める。いずみは思わず専務室の扉を振り返ったが
開ける勇気は出ず、そのまま重い足取りで尾嶋の後に付いて行くしかなかった。
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