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 横顔に視線が突き刺さる。
その意味がとても気になってしまうが、いずみは出来るだけ平静を装って(キョトキョトと動く視線は全く隠せていないが)
机に向かって仕事をしていた。
 「ねえ、どうして昨日休んだの?」
 そんないずみに、容赦のない質問が飛んでくる。
 「か、風邪を引いてしまって・・・・・」
 「ふ〜ん」
 「確かに、今日は体の動きもぎこちなくって・・・・・熱でも出た?」
 「ね、熱は少しだけ」
 「少しでも出たの?」
 「なに、意外と専務って下手だったりして」
 「!!」
(うわあ〜〜〜!!何てこと言ってるんだよ、この人達は!!)
顔が熱くて仕方がないし、面白そうな視線がますます自分に纏わりついてくるのがたまらなく辛いが、それでも先輩であ
り、口ではとても勝てない秘書課の面々に言い返すことなど出来なくて(更に追い詰められるのは目に見えている)、い
ずみは更に深く机に突っ伏すように俯くしか出来なかった。



 慧のマンションでとうとう初セックスを経験してしまったいずみだが、そのダメージは予想以上に大きいものだった。
翌朝の出勤時間にはとても腰が立たず、休む本当の理由は自分からはとても言えなくて、嬉々として世話を焼いてく
れる慧に全てを頼むしかなかったのだが・・・・・。
(いったい、何て言ったんだろ・・・・・)
 1日経って、それでもまだぎこちない歩き方ではあるものの、慧の制止を振り切って出社したいずみを迎えたのは、秘
書課の同僚達のなんとも言えず楽しそうな顔だった。
面と向かって何かを言われたわけではない。
それでも、やけに機嫌よく、本来は一番下っ端のいずみがすべき仕事まで割り振ってやってくれる彼女達が、いったい
何を理由にしているのか、いずみは聞くのも怖くて朝からずっと仕事に集中していた。
 幸いに、慧は朝から取引先何件かを尾嶋と回ることになっていたので顔は合わせていないが、もしもここに慧がいたと
したら・・・・・。
(絶対、変なこと言われそう・・・・・)
 何時もならば仕事に夢中になれば時間はあっという間に過ぎてしまうが、今日だけは何度時計を見上げても時間は
遅々として進んでくれない。
 「・・・・・はぁ」
何だか早退したい気分になってしまい、いずみは何度めかも分からない溜め息をついた。



 何かを言いたそうな秘書室の面々と。絶対に何も言わないと決めていたいずみと。
均衡が破れたのは午後3時のお茶の時間だった。
 「・・・・・なんですか、これ」
3時のおやつとしていずみの目の前に出されたのは、なぜか・・・・・赤飯だ。
 「ん?お腹が空いてるかなあって思って。お昼もあまり食べていないでしょう?ちょうど梓さんが美味しいお饅頭屋さん
を知ってて、わざわざ買いに行ってくれたのよ、いずみ君の為に」
 「・・・・・俺の為に?」
 「そう、あなたの為に」
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 じっといずみが見つめると、加藤はにっこりと艶やかに笑う。いや、笑っているのは加藤だけではなく、周りにいる先輩
達もだ。
誰も彼も、会社の花と呼ばれる美しい容姿の秘書課の女達。彼女達に見つめられるだけで、いずみはドキドキと緊
張してしまい、とうとう我慢出来なくなって恐る恐る聞いてしまった。
 「何か・・・・・聞いたんですか?」
 「何を?」
 「・・・・・専務から、その・・・・・」
 いずみが慧の名前を言った瞬間だった。
いきなりきゃーっという甲高い歓声がたったかと思うと、一番間近にいた加藤がぎゅうっといずみを抱きしめてきた。
 「か、加藤さんっ?」
 「おめでとう!いずみ君!」
 「え?」
 「とうとう、専務と初エッチ出来たのねっ!私達みんな応援してたのよ!」
 「え・・・・・ええーっ?」



 「いずみに手を出すなよ?ようやく全部私のものにしたんだからな」

 いずみが慧の見合いの翌日に突然の有給をとって休んだ時、加藤達秘書課の面々はもしかしたらと思っていた。
とりわけ加藤はいずみ本人から妬きもちらしきことを聞いていたので、何か大きな出来事があったのではないかと踏ん
でいたのだが、この慧の言葉でそれが決定的となった。
 会社の未来を考えれば、将来のトップになる慧が男と恋人同士になるということはかなり問題になるだろう。
しかし、この会社に限ってはまだ会長も社長も現役で頑張っているし、なにより今は世襲制というものは流行らない。
実力がある者がトップに立てばいいと思っている秘書課の面々は、それまで無節操に(本人はスマートだと思っていた
らしいが)女遊びをしていた慧がこれで落ち着くのだろうということに安堵した。
 ただ、歳若い弟のように思っているいずみがその相手だとは、慧の誠実性を不安に思ってしまうところもあるが、それ
は自分達が慧を見張ればいいだろう。

 「おめでとー!」
 「え、えっと・・・・・」
 「応援するわよ!」
 「・・・・・ど、どうも・・・・・」
 消え入りそうな声で答えたいずみは、顔を真っ赤にしながら目の前の赤飯の握りをじっと見つめるしかない。
(専務の馬鹿あ〜!!)
心の中で全てをばらしてしまった慧を罵倒しながら、いずみは自棄になって赤飯の握りに齧り付いた。





(どんな顔をしてるんだろうな)
 僅かに開けたドアの向こうから聞こえてくる賑やかな声。少し前に出先から戻っていた慧は、その話題の中心になって
いるいずみの顔を想像しながら口元を緩めた。
秘書室の人間に自分達の関係をはっきりと示したのは、これからのいずみとの時間に融通を利かせてもらう為や、社
内でいずみに手を出しそうな人間に気をつけてもらうということもあるが、一番の理由はいずみに早く自分達の関係に
自覚を持ってもらう為だった。
 社内ではどうしても専務と秘書という関係に拘り、プライベートでもなかなかその括りが抜けないいずみに、どんな時
でも自分との関係を忘れないように第三者に関係をバラしたのだ。
(これで、いずみも慣れるだろう)
 いずみを玩具にして楽しんでいる秘書課の面々。いずみにとっては大変だろうが、慧からすればからかいの言葉も大
事な恋愛の要素になるのだ。
 「・・・・・その顔、みっともないですよ」
 呆れたように言う尾嶋の言葉も、今日ばかりは全く気にもならない。それよりもと、慧は尾嶋を振り返ってニヤッと笑
いかけた。
 「先に上手くいって悪いな」
今だ深い関係には至っていない甥っ子との事を言外にからかうと、珍しく尾嶋は不愉快そうな顔になる。
 「私は待つのも楽しんでいるだけです」
 「・・・・・なるほど、ものは言いようだな」
そう言った慧は軽くドアをノックする。振り向いたいずみがどんな顔をするのか、慧はらしくもなく胸を躍らせていた。




                                                                end