TRAP













 太朗は早足で長い廊下を歩いていた。本当は今にも走りたいところだが、まだ廊下には大勢の学生の姿があって、あまり目立
つことはしたくなかった。
それに、腰に響く鈍痛のせいで、どうしても行動が鈍くなる。これはもう、原因が何なのかわかり過ぎるほどわかっていた。
(もうっ、ジローさんのせいだぞ!)
 昨夜は本当に気が遠くなってしまうまで抱かれてしまった。ここのところ大学が忙しくて上杉とゆっくりする時間がとれなかった
とはいえ、あんなにも上杉がサカるとは・・・・・予想外だ。
 いや、こんなふうに上杉にだけ責任を押し付けるのは良くないということもわかっている。上杉が暴走したと言っても、それを拒絶
しないですべて受け入れた自分だって共犯のはずだった。
(お、俺の方が煽っちゃったとこもあるし・・・・・)
 ただし、そのせいで今朝は大幅に寝坊し、どうしても家に置いてある資料が授業に必要だったので上杉に送ってもらい・・・・・運
の悪いことに、夜勤明けの父と顔を合わせてしまった。
 上杉との関係を今は暗黙のうちに認めてくれている父も、あからさまに腰を庇いつつ歩く太朗を見てさすがに額に青筋を浮き出し
て怒っていた。あの父を前に、余裕の笑みを浮かべられるなんて上杉くらいしかいないだろう。
 どちらにせよ、今日は帰ったら絶対に父の小言が待っている。自業自得とは言え、身体の疲労と寝不足が重なっている時に頭
が痛いと溜め息が漏れた。
 「苑江君」
 その時だ。
急に名前を呼ばれ、太朗は立ち止った。
振り向いた瞬間に眉間に皺が寄りそうになるのを何とか我慢し、太朗は緊張したまま相手の名前を呼んだ。
 「染谷、さん」
 「名前、覚えてくれてたんだ」
 嬉しそうに笑う女には少しも怪しい所は見られない。好きな相手に会って無邪気に喜んでいるという様子を見せ付けられ、太朗
は自分の方が戸惑ってしまう。
栗色のクルクルの巻き毛と、前回と同じようなワンピース。初めて会った時は緊張して、ドキドキと落ち着かなかったのに、さすが
に今日は太朗も違った視線を向けることが出来た。
(嘘、ついてたんだよな)
 それがどういった理由からかはわからないが、太朗に対して本人が大きな壁を作ってしまった。あの壁をぶち壊すのはなかなか
容易ではない。
 「あの」
 そのことをどう訊ねようかと躊躇すると、女の方から話が切り出された。
 「今日は時間ある?」
 「じ、時間?」
 「もっと、苑江君のことが知りたいの」
 「・・・・・」
その言葉が本心からなのかどうか、どうしても疑ってしまう自分がいる。
目の前の女が同じ大学の学生では無いということは上杉の言葉でも確信していた。彼の言葉に嘘はないことは信じられたし、何
気ない友人の言葉も。
(俺が本当のことを知っているって・・・・・知らないんだよな)
 だからこそ、もう一度目の前に現れたのだろう。
太朗は一度唇を噛みしめると、真正面から由梨を見た。
 「染谷さん」
 「なに?」
 首を傾げ、可愛らしく応えてくれる由梨。それが芝居なのか、それとも太朗の考え過ぎなのか、太朗は思い切って訊ねることに
した。
 「うちの大学の学生じゃないよな?」
 「え?」
 「ゼミのコンパに参加したって言ってたけど、その時一緒に行っていた俺の友達は君を見ていないって言ってる。あいつが嘘を言
う理由なんてないし、だったら・・・・・」
 「待って!」
 「・・・・・何?」
 太朗の言葉を遮った由梨は、泣きそうな顔で胸にしがみついてくる。
突然の行動にどうしたらいいのかわからず、太朗は両腕を宙に上げたまま由梨の言葉を聞くしかなかった。
 「私っ、ここの学生って言ってない!」
 「・・・・・え?」
 「ゼミに友達がいるって言ったのは本当よっ。私が通っているの女子大だから、友達が彼氏を作るのに協力してくれて何度か遊
びに来てて・・・・・苑江君に一目惚れしたって言ったら、友達がコンパに誘ってくれたの!」
まったく考えてもいなかったことに、太朗は目を丸くしてしまった。

(こ、こんなことしていいのか・・・・・?)
 太朗は運ばれてきたコーラを飲みながら、ちらっと前に座っている相手に視線を向けた。
校舎内でいきなり半泣き状態で抱きつかれ、周りからジロジロと視線を向けられた太朗はいたたまれずに学食まで由梨を連れて
行った。
 まだ昼には間があるので人影もまばらでちょうど良かったと一安心する。ここで友人達に見付かれば、あることないことひやかさ
れることに間違いないからだ。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 由梨はもう泣いていないが、目が赤くなったままだ。その様子を見ると、由梨に悪意など無いとしか思えない。
 「あの」
 恋愛問題は苦手だ。上杉という恋人がいる太朗は他によそ見をするつもりはないし、かといって冷たい態度を取り続けるのも自
信がない。
 「苑江君」
 「あ、はい」
 「友達からじゃ・・・・・駄目、かな」
 震える声で、やっと押しだしたという感じの声。自分が泣かしているつもりはないが、傍から見ればどう見てもこちらが不利なん
じゃないかと思った。
だいたい、周りの友人も男がほとんどの太朗は、どうしても女の子に対してどう接していいのかわからなくて困る。
 たとえばここにいるのが上杉だったとしたら。多分彼は上手く由梨を諦めさせることが出来ただろう。もしかしたら、もっと惚れさ
せてしまうかもしれないが、それでもこの場を治めることは絶対に出来るはずだ。
 「友、達」
 「時々会って、ご飯食べたり、遊んだりする間係・・・・・お願い」
 「お、お願いって・・・・・」
(それって、付き合ってるって言わないのか?)
 「苑江君!」
 「え、えっと、あの・・・・・」
(ジ、ジローさん〜っ)
こんな時ばかり助けを求めてしまうが、それでも太朗は心の中で上杉の名前を叫ばずにはいられなかった。




 上杉が事務所に来た時、小田切の姿はまだなかった。
 「小田切は?」
出迎えに出てきた幹部、楢崎久司(ならざき ひさし)は苦笑しながら言う。
 「連絡はありません」
 「・・・・・ったく」
 これが上下関係に厳しい他の組ならもう少し問題になるかもしれないが、あいにく羽生会はトップの上杉自体があまりそういっ
たことを気にしない性質だった。
 その上、相手は癖のある小田切だ。古臭いしきたりに縛って後でこっぴどいしっぺ返しを食うよりも、好きなように泳がせ、時折
その才能を利用した方が利口というものだろう。
 上杉は自身の部屋に向かうと、早速たまったメールやファックスの処理を始めた。
本当は太朗のことが気になり、言い寄った女の素性を直ぐに調べたかったが、組織の長としてやらなければならないことがある。
それをやって、文句を言われないで動こうと思っていた上杉は、しばらく集中して仕事を続けていた。

 それから、どのくらい経っただろうか。
 「入れ」
トントンと軽くノックする音がしたので顔を上げないまま答えれば、おはようございますと聞き慣れた声と共に人が入ってくる気配
がした。顔を上げれば、案の定待ち人の姿があった。
わざと昨日と同じネクタイをしているのは、多分昨夜何があったのか言葉にしなくても周りに知らせるためだ。
 チラッと目線を移して掛け時計を見れば、そろそろ昼になる頃。
その時間まで集中して仕事をしてた自分に感心する半面、少々遅刻が過ぎる小田切にわざとニヤッと笑って言ってやった。
 「どうした、あの駄犬が離さなかったのか?」
 小田切の実質恋人である男のことをからかえば、小田切は綺麗な顔にゆったりとした微笑を浮かべる。
 「餌が美味し過ぎるんでしょう」
 「・・・・・自分で言うか?」
 「本当のことですから」
優雅に歩み寄ってきた小田切は、身を屈めて上杉の顔を覗きこみながら言葉を続けた。
 「あなたは随分早かったようですね」
 「当たり前だ、仕事があるからな」
 「そうでしたか。私はてっきりもうお歳で、腰の酷使は出来ないのかと思いましたよ」
 「あのなあ」
 仕事面はともかく、人のセックス事情まで踏み込むなと声を大にして言いたいところだが、今回そのプライベートな問題で動か
せているという自覚があるので一応口を噤む。
きっと言い返せばその倍、いや、10倍にはなって戻ってくるだけだ。
 「で?」
 「え?」
 「まだわからないのか?」
昨夜、わざわざ電話をして言ったのだ、何の成果も無いまま遅れてくるわけがない。
案の定、上杉の言葉を聞いた小田切はさらに笑みを深めた。
 「私も万能ではないんですがね」
 「小田切」
 「はいはい」
 ちょっとどいて下さいと言いながら上杉のデスクに座った小田切は、そのままパソコンを弄り始める。
 「さすがにまだ裏をとっている最中ですが、多分これで間違いはないかと思います」
言葉と同時に、パソコン上に写真が出てきた。
小田切の背後から覗き込むようにしていた上杉は、その相手を見た瞬間顔を顰めた。
 「こいつか?」
 「多分」
 「・・・・・」
 「旧知の方ですよね?」
 「・・・・・そんないいもんじゃねえな」
 上杉自身はこの相手に対し何の含みも無い。と、いうか、上杉にとってその相手は毒にも薬にもなりえない、いわゆるどうでも
いい相手だった。
 ただ、相手からすれば、上杉に対して言いたいことは山ほどあるだろう。勝手にライバル視し、勝負を挑んでくるたびに鼻っ柱
を折られることを繰り返す学習能力の無い相手だが、今回に限り上杉の視界の真ん中に入ってきた。
(この野郎・・・・・タロに目をつけるなんざ、殺してくれって言ってるよーなもんだ)
 「虫相手に本気を出す気ですか?」
 そんな上杉の考えを読みとったのか、小田切が冗談めかして聞いてくる。その小田切に視線を向けた上杉は、当たり前だろう
と口角を上げた。
 「害虫の駆除は徹底的に、な」




 由梨と向かい合ったまま、15分は経っただろうか。
相手から何も言われないまま、それでもじっと視線の攻撃を受け続けた太朗は、とうとう諦めたように大きな溜め息をついた。
 「・・・・・わかった」
 「え?」
 「別に、女の子の友達は作らないってわけじゃないし」
 自然と周りは野郎どもが集まっているだけで、そこに妙な拘りがあるというものでもない。それでも、自分に対し好意を抱いてく
れているという相手に、太朗は始めにちゃんと言っておかなければならないと思った。
 「染谷さん、俺、付き合っている人いるんだ」
 「付き合ってる、人・・・・・」
 「もう、結構長い付き合いになるけど、俺はその人以外に恋愛は出来ないと思う」
 好意を持たれているのは嬉しいが、それには絶対に応えられないと知っていて欲しい。なんだか自分らしくない、モテる人間の
言い訳のような感じだが、それでも太朗はほんの僅かでも上杉を裏切りたくはなかった。
(俺のこと、本当に大切にしてくれて・・・・・好きでいてくれるんだもんな)
恋人の愛情に胡坐をかくつもりはない。
 「本当に友達にしかなれないよ」
 きっぱりと言えば、由梨は視線を逸らすように俯いた。酷い言い方をしたかもしれないと、太朗の胸もツキンと痛むような気がす
る。
 「・・・・・いいわ。それでもいいから、友達になって、苑江君」
由梨の固い声に、太朗はうんと頷いた。
(ジローさんにもちゃんと言っておかないといけないな)