プロローグ







 「みんな!用意は出来たのか!」

 低くない、それでいて硬質な綺麗な声が響き渡る。

 「はいっ」

それに答える複数の声は、どう聞いても野太い、男の声ばかりだ。
 「よし、じゃあ、運転手さん、よろしくお願いしますね」
にっこりと笑みを向けた、この世の物とも思えないほどの綺麗で穢れの無い微笑みに、一瞬ぼうっと見惚れてしまった運転手だっ
たが。
 「さっさと動かせっ!」
 「は、はいっ」
 「おい、運転手を脅すなよ。なんたって俺達の命を預けるんだからな」
笑いながら、それでいて少しも笑えない台詞を吐く男に怯えながら、バスはゆっくりと走り出す。
 「よし、楽しむぞ!」
高らかに宣言した楓に、厳つい男達の視線が優しく細められた。



 日向楓(ひゅうが かえで)は、今年の春高校3年生になった少年だ。
本来ならば大人の男になりかけているはずなのだが、彼はそんな男臭さとは無縁の存在だった。
切れ長の目に、通った鼻筋、丸みを少し残した頬に、小さめの赤い唇。肌の色は真珠のようで、身体付きも華奢ながらしなや
かだ。
頭の上から足の爪先までが全て完璧な楓は、自分のその魅力を十分利用し、学校では天使のように清らかで愛らしい彼は、
普通の高校生とは少し違った家庭環境にあった。
それは、実家が『日向組』というヤクザの組だということで、楓はそこの次男である。
兄である雅行(まさゆき)が新しい組長を襲名し、父親は相談役として後ろに退いた。
普通ならば煙たがれ、避けられる立場にあるはずだったが、かなり昔から地元で地域と共存してきた日向組を悪く言う者は少
なく、その上、楓自身の魅力が否が応でも人を惹きつけた。
学校では天使に、夜の街では冷たく我儘な小悪魔に、その立場によって、楓は様々に顔を変化させていた。

 そんな楓が唯一敵わない存在が、恋人である伊崎恭祐(いさき きょうすけ)だ。
日向組の若頭でもある彼は、楓がまだ小学校の頃から世話係として仕えてくれていた。
本来はかなり家柄のいい生まれの伊崎だが、一目惚れといってもいい感情をまだ幼い楓に抱き、普通の生活を切り捨ててこ
の極道の世界へと飛び込んできた。
 楓に対して、深い愛情を与えてくれる彼に、楓も独占欲から愛情へと感情が変化し、今ではかなり年齢差があるものの、熱
い恋人同士だった。

 ただ、日向組の息子である楓と、若頭である伊崎の関係は今のところ家族や組の人間には秘密だ。
もしかしたら気付いている人間もいるかも知れないが、どんなに楓が甘い雰囲気を作ろうとしていても伊崎の方が主従のけじめ
を忘れないので(時折思い切り踏み出してしまうことがあるが)、確信を持っている者はほとんどいないかもしれなかった。

 そんな楓と伊崎だったが、この春思い掛けない危機が訪れた。
チャイニーズマフィアが楓の美貌に目を付け、そのまま連れ去ろうとしたのだ。
結局、たくさんの人々の手を使ってそれは阻止され、日向組として力を借りた開成会の海藤や羽生会の上杉には、その恋人
も含めて礼はした。
 ただ、楓は組員達に気持ちが返せないのを心苦しく思っていたし、そんな楓の気持ちを伊崎も、そして兄の雅行も気付いて
いたので、少し時間が空いてしまったが、楓の夏休みを待って二泊三日の温泉慰安旅行を決定したのだ。
 ヤクザの慰安旅行・・・・・それは少々問題がある一行だったが、計画を知った楓が大東組の重鎮におねだりして、なんと山の
中の豪華な温泉旅館を手配することが出来た。
貸切は無理だが、それでもホテルなどとは違い、皆のんびりと出来るだろう。
 日向組の組員は、約50名ほどだ。
その中で、都合が悪い者や、幼い子がいる者には旅行代わりに金一封を手渡し、元組長で現日向組の相談役である父も
家でのんびりとするということで、今回は組長以下、楓も合わせて36人の団体になっていた。



 「何時もご苦労様」
 「ああ、坊ちゃん、ありがとうございます」
 老舗のヤクザの組である日向組の約半数は既に50歳以上の者が多い。
彼らは楓が生まれた時から知っているので、他の人間のように楓を欲望や崇拝の対象ではなく、守らなくてはならない子供とい
う認識が強い。
そういう彼らの前では、楓も何時もの対外的な作った笑みではなく、本当に嬉しそうな笑みを向けるのだ。
 「これからも頼むね」
 「ええ、生きている限りお世話になりますよ」
 「じゃあ、150歳くらいまで生きてもらわないと」
 「そりゃ、ちょっと無理でしょう」
 「頑張れば出来るかもしれないって」
 組員達にビールの缶を渡しながら、1人1人に労いの言葉を掛けていく楓を、伊崎は微笑ましく見つめていた。
何時もは常に楓の周囲に目を配っていなければならないが、今はそんな気を遣うことも無い。
伊崎は楓から視線を逸らすと、隣に座る雅行にビールを渡した。
 「ああ、すまんな」
 「今回は組長もゆっくりされてください」
 「ああ、そうさせてもらうつもりだが・・・・・」
雅行はチラッと楓を見る。
 「あいつがいるからなあ、気が休まらない」
 「・・・・・」
ブラコンな雅行の言葉に、伊崎は相好を崩した。
 「皆、同じことを言ってますよ」
 「仕方ない、あいつが目立ってしまうのは昔からだからな」
 「御本人もちゃんと自覚されています。昔ほどには心配をしなくてもよくなっていますよ」
 今も輝くほどに美しい美貌を誇る楓だが、小学校の頃は本当に生きた天使のように愛らしい子供だった。
そのあまりの可愛らしさに、誘拐されかかった事も一度や二度ではない。そんな輩は楓の家がヤクザでも全く関係なく、その対応
に雅行も伊崎も苦慮したものだった。
今も昔も気が強く、引くということを嫌う楓は自ら災難を呼ぶことも多い。
そんな楓を守ってきて17年、雅行と楓の17年という時間が、伊崎には少し羨ましかった。
(俺も、十分長く傍にいるんだがな)
 それでも、全然足りない。
誰よりも傍にいたい。
楓にはそう思わせてしまう十二分な魅力があった。



 楓は、一番後ろの席に座っている津山勇司(つやま ゆうじ)の隣に腰を下ろした。
 「楽しくないのか?」
 「・・・・・そう見えますか?」
 「顔が笑っていない」
少し唇を尖らせるようにして言い、その後ににっこりと笑った楓は、津山にもビールの缶を渡した。
 「嘘。何時もと変わらない方がお前らしい」
 伊崎が若頭に就任して、楓の世話係の位置が空いてしまった。その楓の新しい世話係に伊崎が選んだのが津山だった。
始めはまるで機械のように笑いもせず、動揺もしなかった津山だが、楓といるうちに無いはずの感情が生まれた。
それが恋愛感情に繋がったのは伊崎も想像はしていなかっただろうが、今ではその命に代えても楓を守ってくれているだろうと信
頼するまでにはなっていた。
 「温泉、津山は初めて?」
 「・・・・・これから行くような立派な所は初めてです」
 「実は俺も。家がこんなだから、なかなか旅行なんか行けなくってさ。でも、今回はみんな一緒に行けるからすっごく楽しみにし
てるんだ。津山も楽しめよ?」
 「はい」
微かに頬を緩ませる津山を見て、楓も笑う。
 「よ〜し!誰かカラオケする奴!」
 「坊ちゃん、俺が一曲!」
 「いや、俺が先だ!」
 「喧嘩なんかするんじゃないぞ!年功序列!年上から順番だ!」
 楽しそうに叫びながら、楓はバスの先頭へと歩いていく。
その後ろ姿を見送った津山は、渡されたビールをじっと見下ろし・・・・・そのままプルトップを開けて一口口にした。