指先の魔法



プロローグ






 「お待ちどうさまです!ピザ《森の熊さん》です!」
 インターホンに向かってマニュアル通りのセリフを言うと、少し時間を置いてから反応があった。
 「・・・・・君は男だな?」
 「は・・・・・あ?」
響きのよい声は、なぜだか不思議な事を言う。反応に困っていると、オートロックが開く音がした。
 「どうぞ、306です」


 西原真琴(にしはら まこと)は2週間前に大学生になったばかりの18歳の男だ。
合格が決まってから探したピザ屋のバイトもやっと慣れたところだった。
地方出身者の(それでも関東だが)真琴は厨房専門スタッフだったが、今日に限って配達のバイトが二人休んでしまい、
分かりやすい地域だけと決められて、慣れない配達を始めていた。
 車の免許は春休みの間に取っていたが、バイクに乗るのは初めてだ。自転車に乗れるのなら大丈夫だという、店長の根
拠のない太鼓判についその気になった自分が恨めしい。コケはしないものの慎重になりすぎて、時間が通常の1.5倍近く
掛かっている。
しかし、どの客も怒りはしなかった。それは多分に真琴の容姿にもよるだろう。
170センチを少し過ぎた身長に、細すぎな体躯。少し長めの黒髪はサラサラで、切れ長の一重の目は少しきつい印象を
与えるようだ。美形・・・・・ではないものの、左目じりのホクロが妙に色っぽく、どこか誘っているように見られるのかよく痴漢
に遭っていた。
そんな真琴が申し訳なさそうに頭を下げて謝ると、たいていの客は笑いながら許してくれていた。中には『目の保養だ』とい
う中年の男性客もいたくらいだ。
(変な人じゃなかったらいいんだけど・・・・・)
 今はもう午後10時を回っている。今日の配達はここが最後だった。
 不安に思いながらもオートロックの扉を抜けてエレベーターに乗り込むと、1階にあったエレベーターは直ぐに目的の階に着
いた。
 「・・・・・28分」
(間に合った)
 慣れない運転で両手は強張って、気を抜くとピザの入っているケースを落としそうになる。真琴が慎重にケースを抱え直し
て顔を上げると、ある部屋の前に数人の男が立っているのが見えた。
どうやら302号室の前で、いずれもガッチリとした体躯の、見るからに人相の悪い3人は、近付いてきた真琴を胡散臭そう
に睨む。
反射的にビクッと体を強張らせた真琴とは反対に、男達は真琴の手にしているものを見て直ぐに納得したのか、体をずらせ
て道をあけてくれた。
 「あ、あの、も、森の・・・・・」
 「入れ」
 『嫌です』と言いそうになって慌ててペコリと頭を下げると、早く用を済ませたいとインターフォンを鳴らして早口に言った。
 「あの、〈森の熊さん〉です!」
 返答はなく、少し間をおいてドアが開いた。
 「森の・・・・・」
 「何度も言わなくても分かっている」
 「は、はい、すみません」
(こ、怖い・・・・・)
出てきたのは長身の男だった。
夜の10時を過ぎた時間だというのにきっちりと背広を着込み、綺麗に撫で付けられた髪とフレームレスの眼鏡が、男を一
瞬エリートサラリーマンのように見せた。
しかし、眼鏡の奥の瞳は冷たく、ゾクッとする光がある。到底一般人には見えなかった。
真琴は男を一瞬見ただけで視線を逸らし、慌ててケースの中からピザを取り出した。
 「ご注文の品は・・・・・」
注文が間違えではないか、一つ一つ繰り返す。3人前を5ケースとは多いなと思っていたが、きっと外にいた男達も一緒に
食べるのだろう。
心の中で目の前の男はいい人だと繰り返すものの、じっと見られているようで落ち着かなかった。
 「以上、お間違えないでしょうか?」
 「ああ」
 「消費税込みで12,000円になります」
とにかく早く立ち去りたかった真琴は、何時でもおつりを渡せるように財布を取り出す。
 しかし、男は真琴を見つめたまま言った。
 「それだけを運ぶのは重いな」
 「・・・・・は?」
 「私には到底無理だ。申し訳ないが中まで運んでくれないか」
 「お、重い・・・・・ですか?」
見るからに非力な真琴がここまで運んで来た物を、スレンダーだが明らかに真琴より力の有りそうな目の前の男が持てない
とは考えにくい。
手でも怪我をしているのならば分かるが、胸の前で組んでいる両手はどう見ても無傷だ。
(部屋に上がったら・・・・・そ、想像したくない〜)
今日二度目の『嫌だ』を口の中で噛み殺すと、真琴は引きつった笑みを頬に貼り付けて頷いた。