A nonaggression domain








                                                                
『』は英語です。






 ハーマングループ側が指定してきたらしい場所は、料亭などではなく、都内のホテルの一室だった。
そのホテルが、ハーマングループに最近買収されたことは午前中の資料に書いてあったので江坂も予備知識があり、相手が食
事をしながら和やかに話をするのではなく、ビジネスに徹して対応するのだなということが想像出来た。
 もちろん、江坂としてもその方がやりやすい。自分よりも年下という相手に舐められるわけにはいかないと、目的の階で開いた
エレベーターから降りながら考えていた。
 「・・・・・」
(スイートか)
 特別なフロアなので他に人影はない。
江坂は先に案内する副支配人の背中を見つめて声を掛けた。
 「ホッブズ氏は1人?」
 「今からご案内するお部屋にはお1人で滞在しておられます」
 「・・・・・」
(では、他の部屋に連れがいるということか)
 一流ホテルマンは客のプライベートな情報は流さない。それでもその短い言葉からそう連想したのは間違いではないはずだ。
大企業の役員がSPを付けずに動けるはずも無く、それは考えれば当然のことで、江坂はもう聞くことはないと口を噤んで足を進
めた。
 「こちらです」
 やがて、副支配人はそう言って立ち止まり、部屋のベルを押す。
しばらくして、ドアが僅かに開かれた。
 『ホッブズ様、お客様をお連れ致しました』
 『ありがとう』
そう言いながら大きく開かれたドアの向こうを見ながら、江坂は後ろにいた小早川とさりげなく位置を変えた。




 「ようこそ、ミスターコバヤカワ」
 思いがけず流暢な日本語を話す男は、典型的なアメリカ人の容姿だった。
ブルネットの髪の色に、緑がかった青い瞳。手足は長く、180を越す長身の江坂よりも数センチ身長も高い。
容貌は歳の割には大人びた、優男というよりは男らしい容貌で、浮かべる微笑にも溢れる自信が見えていた。
(この男が・・・・・)
 ハーマングループのSVP、セオドア・ホッブズ。
この歳でそれ程の地位にあるのだ、見掛けで判断してはならないだろう。
 江坂達が確かにセオドアが招いた客だと確信した副支配人は丁寧に頭を下げながらその場から立ち去り、残った江坂達にセ
オドアは笑みを浮かべながら視線を中にやった。
 「どうぞ」
 「ミスター」
 その前に、小早川が江坂を振り向いた。
 「私達の他に、同行者がいるのですが」
 「そちらの?」
 『初めまして、ミスター。リョージ・エサカです、よろしく』
江坂がわざと日本語ではなく英語、それもクイーンズイングリッシュと呼ばれる発音で自己紹介すると、セオドアは一瞬目を細め
た後、苦笑らしい笑みを浮かべて手を差し出してきた。
 『美しい言葉ですね、私はセオドア・ホッブズ。お会い出来て光栄です』
 『こちらこそ』
(私の正体を知っている、な)
 本来、契約上の極秘な会談に、社外の人間を連れてくること自体が異例なことで、セオドア側が拒絶しても当たり前だという
いうのに、そんな雰囲気は欠片もない。
 小早川の会社に目を付けた段階で、筆頭株主である江坂の存在に気付いていてもおかしくは無く、だからこそ現れても当然
という気持ちでいたのかもしれない。
 『私のことは、テッドでも、テディでも、お好きなように呼んでください』
しっかりと握り締めてくる手は、自分のものよりも大きく分厚い。
男である以上、自分よりも体格的に大きな相手、それが外国人でもあまり面白くは無く、江坂は貼り付けたような笑みでよろし
くと言うと、さっさと自分から握手を解いた。
 「小早川さん」
 「あ、はい」
 それまでただ呆然とこの光景を見ていたらしい小早川に、江坂は入らせてもらいましょうと促す。
(大体、今日の主役は自分だということを忘れてもらっては困る)
 「では、失礼します」
 「失礼します」
江坂の後に小早川、駿一と続いて、スイートルームへと足を踏み入れた。




 このホテルのスイートには江坂も泊まったことがあり、間取りはよく分かっていた。
幾つかある部屋を主が見ている前で見て回ることは出来ないが、自分達以外の者がいる気配はしなかった。一応、こちら側を話
をする相手だと認めているのかもしれない。
 「どーぞ。コーヒーで?」
 『ミスター、英語で構いませんよ。その方があなたも自分の意志をこちらに伝えることが出来るでしょう。小早川氏には私の方が
伝えますので』
 『・・・・・まあ、私が話すべきなのはあなたかもしれないしね』
 『・・・・・』
 江坂は小早川を振り返った。
 「ここからは英語で話します。あなた方も多少は聞き取れるでしょうが、私が通訳しますのでご心配なさらず。もちろんこちら側
の言いたいことも伝えますから」
 「分かりました」
 セオドアが慣れた手付きでコーヒーを4人分入れている。少しもぶれることのない手は彼の落ち着きを示していて、江坂はこち
らも腹をくくって話さなければならないと気持ちを切り替えた。

 『そちらとの仮契約の書類と、今回の争点をまとめた書類、どちらも拝見させていただきました。私が改めて言うこともないと思
いますが、今回の契約は問題点が多々あるようです』
 『それはどういうことでしょう?』
 江坂は目の前に座ったセオドアに、淡々と書類上の問題点を指摘していった。あくまでも、小早川側が持っていた資料だけし
か手持ちにはないものの、ディベートで負けたことのない江坂の口調に少しの乱れもない。
 そもそも、ハーマングループ側があまりにも強引な手を使ってきているので、場所がアメリカという地ならば問題だったが、今回
は中国という第三国での話で、こちらの方が優位だと主張した。
 『今までのところで問題は?』
 『ないですね』
 テーブルに片肘を付き、その手の上に顎を乗せてじっと江坂を見つめていたセオドアは鷹揚に頷く。歳に似合わないその態度
に内心眉を顰めるものの、江坂はどんどんと話を進めた。
 『ここからはざっくばらんに聞きましょう。そちらの目的は?小早川商事ののっとりですか?それとも、巨額の違約金?』
 『どちらも、あまりいい響きじゃないな』
 『それでも、外れているとは思いませんが』
 『・・・・・確かに、このまま裁判に持っていっても、こちら側の勝率は低い。ただし、ゼロではないでしょう』
 『・・・・・』
 『小早川商事は、それ程大きくはないが良条件の対象物ですよ。日本が外資に対して偏見が強いので、足掛かりになればい
いと思っていたし、調査で見た写真を見て興味が湧きましてね』
 写真・・・・・その言葉に、江坂の眼差しが急速に冷え、纏っている空気も緊迫したものになる。
この男がどんな写真を見たのか、聞かなくても容易に想像出来るような気がしていた。




(この男が出てくるとは・・・・・)
 日本進出のターゲットとしてセオドアが選んだ小早川商事。大手ゼネコンではあるが、海外での知名度はまだ低く、ハーマング
ループにとっては格好のマリオネットになりそうな存在だった。
 セオドアがその話を上に進言した時、今の時代に危険な賭けはあまり歓迎しないという雰囲気だったが、小早川商事の半分
以上の株をたった1人の個人が握っているという事実は好材料となった。取引を持ちかける相手が少人数なほどに話はしやすい
からだ。
 そして、資料を集めている時に目が留まったのが、小早川商事の次男の存在だった。
まだ学生であるその青年は、経営自体に携わってはいないものの、荒い写真からでも分かるほどに整った容貌・・・・・アジアン
ビューティーと言ってもいいほどに美しく、それも利用価値があると思えた。
 内通者からの情報で、小早川商事が中国での公共事業に参加すると聞き、違法ギリギリのトラップを仕掛け、それは予想以
上に効果的に働いて。
 最後の詰めをするために、セオドア自身が来日したのだが、こちらからコンタクトを取る前に向こうから接触をしてきた。
これがチャンスと言わないでなんだろうか。
(それが、こんなにも美人だったとはね)
 名前と歳は調査済みだったが、その容姿は分からないままだった。
それが、こんなクールビューティーだったとは。
(交渉も楽しいというものだ)
小早川商事の次男の、日本人形のような美しさもいいが、目の前の男のように冷然とした雰囲気もいい。
(どちらにしても、私には楽しいし)




 江坂は一通り、小早川側の言い分を代弁した。
セオドアは黙って聞いていたが、それは言葉の内容を熟考しているというよりも・・・・・。
(私の顔を見ている?)
 その熱っぽい視線の意味を江坂はあまり考えたくなかったが・・・・・まだ中学生の頃、同じような視線を向けられたことがあるこ
とを思い出してしまった。
今では細身ながらそれなりの身長があるものの、昔はまだ背が低く、容貌も愛らしい方だった江坂は、何人もの上級生から告白
を受けた。そのどれもが男からだったというのは、静には絶対に知られたくない。
 もちろん、その当時は男に全く興味の無かった江坂は、自分で出来うる限りの方法で相手を退け、何時しか外見だけでは判
断されなくなり、やがて容姿も成長して・・・・・。
(まさか、今頃こんな目で見られるとはな)
 『ミスターホッブズ』
 『テディでいいですよ』
 『ミスター』
 全く声の調子を変えずに言うと、セオドアは苦笑しながら聞き返してくる。
 『何ですか、リョージ』
 『・・・・・』
名前を呼び捨てにしてもらうために名乗ったわけではないものの、一々このくらいで注意していると話は進まないと思い、江坂は
一度わざと大きな溜め息をついて言った。
 『こちら側の主張は分かってもらえましたか?』
 『ええ、十分に』
 『それでは、ハーマングループ上層部に報告を上げて、早々にそちらの態度を示して頂きましょうか』
 そこまで一気に話した江坂は立ち上がった。
 「小早川さん、失礼しましょうか」
 「え?」
早口の2人の英語の応酬をただ黙って見守ることしか出来なかっただろう男。静の父親でなければどんなに無能かと冷淡な態
度を取るのだが、江坂は辛うじて静かな口調で言う。
 「もう話は終わりました」
 「え、あ、ですが」
 「これ以上話すことはありませんから」
 この男には伝えることはもう言った。結果が出なければ、今度はこの男以上の地位の人間に会えばいいだろう。
取りあえす、同じ空間にはいたくないと思った江坂は、
 『では、失礼します』
淡々と言うと、一度も振り返らず、握手もしないまま、振り向かずに入口へと向かった。




(・・・・・不愉快だな)
 ホテルの地下駐車場で小早川達と別れると、江坂は乗り込んだ車のシートに深く背を預けた。
元々面白くない時間だろうと予想していたものの、違った面で江坂にとってあの男は鬼門になりうる存在のようだ。
 「・・・・・あまり良い話にならなかったんですか?」
 江坂の不機嫌な空気に支配された車の中で、橘が静かに問いかけて来た。もしもそうなら、この先の手を考えなければならな
いと思ったのだろう。
 「・・・・・あの男」
 「男?」
 「ホッブズ、あの男の身辺を早急に調べておけ」
 「はい」
 仮に、あの男がゲイだとして、自分に対して馬鹿馬鹿しい考えを持っていたとしても、江坂は絶対にあの男を撃退出来ると言
い切れる。
しかし、もしも静に手を出してきたら・・・・・。
(あの男は確かに静を知っていた。どういう意味からかはまだ判断出来ないが、力があるだけに厄介だ)
 小早川商事とハーマングループの問題は確実に解消出来るものの、それでも今日明日というわけにはいかない。後数日は用
心しておかなければ、何時どんな形で静に手を出されるか分からないと思った。
 「・・・・・」
(・・・・・大学は休ませるか)
 どうせもう少ししたら冬休みになる。少し早めの冬休みと称して、どこかに旅行に連れ出してもいい。
江坂は出来ればあの男セオドアに、今後自身が接触しないようにした方がいいと思えたし、それくらいの処理は部下達でも十分
出来ると考えた。
(本当に・・・・・理解出来ない男だったな)