A nonaggression domain








                                                                
『』は英語です。






 静との甘い時間を堪能した江坂だったが、翌日オフィスに着き、玄関ロビーに足を踏み入れた瞬間、秀麗な眉を顰めた。
 「どういうことだ」
それは、後ろにいる橘に言った言葉だ。
 橘も江坂と同じ方向に視線を向け、珍しく困ったような表情をしている。しかし、直ぐに申し訳ありませんと謝罪の言葉を口に
し、深く頭を下げた。
 しかし、江坂は謝罪の言葉を聞きたいわけでは無かった。
 『ハイ、リョージ』
 『・・・・・ミスター、本日は約束はしていなかったと思いますが?』
 『昨日は2人だけではなかったし、こちらの思いを全て伝えることが出来なかったからね。限られた滞在期間の中でお互いが良
く分かり合うためには、濃密な話し合いが必要だと思ったんだよ』
朝っぱらから何を考えているのか、ウインクしながら歩み寄ってくるのはハーマングループのSVP、セオドア・ホッブズだ。
 江坂はもう直接この男と会うことは無いと思っていなかったが、どうやらアクティブな男は直ぐに次の手段を考えていたらしく、ア
ポイントメントも取らずに会社に乗り込んできたようだ。
 彼の顔はまだ日本で知られていないようだが、それでも早朝からロビーに外国人の客がいるのは目立つ。それも、この会社の
社長である江坂に親しげに話しかけてくるのだ、いったい何者なのだろうと様子を窺う視線を四方から感じた。
(・・・・・煩わしい)
 本来はここで追い払いたいところだが、さすがに人の目がある。
江坂は目を眇め、チラッとセオドアを見て・・・・・言った。
 『どうぞ』
 『いいのかい?』
 『帰れと言っても、帰らないでしょう?』
 『美人の顔を朝から堪能したいからね』
セオドアは声を潜めずにそう言うので、江坂はますます眉間の皺を深くしてしまった。




 表向きは一般の企業であるが、内実は広域指定暴力団、大東組と深い繋がりのある会社だ。
普通ならば簡単に危険人物は建物内に入れるはずが無く、セオドアも門前で追い帰すことは不可能ではないはずだった。
 男の持っている肩書きと外見に誤魔化されたのかもしれないが、警備の人間は即刻首にしなければならない。それは、江坂が
口にしなくても、橘はこの後直ぐにでも新しい警備の人間を手配するだろう。
 『どうぞ』
 『ありがとう』
 美しい秘書がコーヒーを出すと、セオドアは愛嬌たっぷりに笑みを向ける。
もちろん、江坂の傍で働く女達は徹底的に教育を受けているので、儀礼的な笑みを浮かべて静かに会議室を辞して行った。
 『ここは美人揃いだ』
 『・・・・・』
 『でも、リョージが一番美人だけどね』
それ以外の言葉はないのかと、江坂は無表情でセオドアを見つめる。
 『つまらない冗談は結構。何の用です?』
 『何?もう話をしなくちゃいけない?』
 『元々約束したわけではないのでね』
 言外に、さっさと帰れという意味を込めて言ったのだが、セオドアは肩を竦めて苦笑を浮かべるだけだ。
当然、今回の自分の行動がずいぶん乱暴なものだということは分かっているだろうが、それを感じさせないほどに言動は自信たっ
ぷりでスマートだ。
 これまでの交渉もこんな風に行い、若くして今の地位になったのだろうか。個人のやり方をどうこう言うつもりはないし、それぞれ
の資質を生かしたやり方をしてもいいとは思うものの、それを自分に向けられるのは止めてもらいたい。
 『ミスター』
 まだ、はっきりとセオドアの背景を掴んでいないこちら側が今は不利だという自覚がある江坂は、さっさとこの会見を終わらせよう
と言葉に力を込めた。
 『用件は?』
 『昨日、あれから君のことも調べてみたんだ』
 『・・・・・私のことを?』
 『ビジネスの手腕ももちろんだが、もう1つの顔の方もかなりやり手なんだね。日本のマフィアはDVDで見たことがあるよ。ファン
タスティックで、クレイジーで、でも君のような美人は出てこなかった』
 『フィクションと現実は違いますから』
(私の背後を調べたのか)
 あれからと言っていたが、もちろんその前から多少の経歴は洗い出しているはずだ。
隠蔽し、後で発覚する方が後々問題が大きくなるだろうと、江坂は自分の経歴を意識的に隠してはいない。
 それで、手を引く相手とは始めから組まない方が良いし、昨今の経済状況の中、たとえヤクザ相手でも能力のある者で、適正
な取引ならば躊躇う相手は少なかった。
 『それで?』
そのことで自分を脅そうとしても無駄だと、江坂は無表情のままセオドアに先を促した。




(全く動揺は無しか)
 昨日会った時点でその人となりは多少予想はついたものの、改めてこうして江坂個人と会うと、その度胸の据わり方に感心して
しまった。
 昨日、小早川親子と共にいた時は、まだ本来の牙を隠していたのだろうか。
自分達から見ればかなりの優男なのだが、江坂のその神経は驚くほど図太そうだ。
 『方向転換してもいいかと思って』
 『方向転換?』
 『リョージは、ハーマングループが小早川商事から手を引いて欲しいと思っているんだろう?』
 『・・・・・条件によりますね』
 簡単に話に乗らない。これも、駆け引きを熟知しているやり方だ。
もちろん、セオドアも駆け引きのやり方を知っているつもりだった。
 『君とのパートナー契約』
 『パートナー?』
 『そう』
(ふふ、さすがに驚いているみたいだな)
 大きな爆弾をぶつけ、相手の興味を引く。
少しでも心が揺れた様子を見せたのならば、そこから強引にでも入り込むことは出来ると、セオドアはじっと江坂の綺麗な顔を見
つめていた。




 セオドアの口から出てきた思い掛けない言葉に、江坂は思わず声に出して確認してしまった。それは、驚いたというわけではな
く、呆れての言葉だった。
(この私に手を組もうというのか?)
 さすがに面と向かって江坂にそう言ってきたのはセオドアが初めてで、江坂はその真意を素早く頭の中で考えた。
(・・・・・小早川より、こちらの方がうま味があるということか)
企業としては小早川商事は国内での信用はあるし、名前も大きい。
しかし、資金的なことを考えると、遥かに江坂の会社の方が潤沢なのは調べれば直ぐに分かることだった。
 この会社自体投資ファンドという形なので、外国の同系会社と手を組むことは無理なことではない。ただ、江坂から見てハーマ
ングループと提携するうま味はあまり感じない。
何より、静を不安な気持ちにさせた相手などと仕事をする気になれなかった。
 『どう?』
 『ミスター』
 『テディでいいよ』
 『・・・・・ミスター』
 江坂はにっこりと笑い、セオドアの言葉を真っ向から否定する。
 『申し訳ありませんが、私は御社と取引する気はありません』
 『リョージ、今答えを出さなくてもいいんだよ』
 『考えたとしても、出す答えは同じですから』
そう言って江坂は立ち上がった。
セオドアが、小早川商事から自分の会社に興味を移したのならばそれで良い。どちらにせよ、あの仮契約書を破棄するために自
分は動くつもりだし、その間にこの男もさっさと母国に帰ってもらうようにするつもりだ。
(お前の目に私がどう映っているのかは知らないが、私はゲイではないからな)
 江坂の性愛の対象はあくまで女だ。
ただ、初めて愛してしまったのが静で、言葉は陳腐だが・・・・・たまたま男だったというだけだ。
その静以外の男を抱く気はもちろん、抱かれる気なんて全くない。この図体だけが大きな男を抹殺することなど、江坂の力からす
れば無理なことではなかった。
 「橘、お客様のお帰りだ」
 「リョージ!」
 『ミスター、これでも私は忙しい身体でしてね。朝のミーティングの時間を割いて話を聞いて差し上げただけでもよろしいでしょう』
 『ボッブズ様、下までお送りいたします』
 恭しく頭を下げながら言う橘と江坂の顔を交互に見つめたセオドアは、わざとらしく大きな溜め息をついてイスから立ち上がった。
 『今日は帰るよ』
 『・・・・・』
(また来る気か?)
これだけ言ってもまだ懲りないのかと、その厚顔無恥な神経には頭が下がる思いだ。
そんな江坂に向かい、セオドアは片眉を上げてウインクをしてきた。




 会議室から大きな男の姿が消えると、江坂は珍しく口の中で舌を打った。
(全く・・・・・頭の空っぽな男は・・・・・)
日本語が通じないのはもちろんだが、人間の言葉も通じない相手とは、どう会話をしても仕方がない。後は強制的に排除をする
だけだが・・・・・。
 「橘」
 「はい」
 「ハーマンの内情は?」
 「こちらに」
 既に橘もハーマングループとセオドアのことは調査を進めていたようで、直ぐに書類が目の前に差し出された。
本来は会社に来て直ぐに報告をするつもりだったのだろうが、その前に招かざる客が来てしまったということだろう。
 「・・・・・」
 素早くそれに目を通した江坂は、内ポケットに入れてあった万年筆を取り出し、素早く数字を書き込んでいく。そして、後ろから
自分の手元を見つめていた橘に向かい、分かったかと聞いた。
 「今日から仕掛けてよろしいですね」
 「ああ、さっさと手を切りたい」
 橘の返事を聞いた江坂は近くの灰皿を引き寄せ、側に置いてあったライターで書類に火を付けて燃やし始める。
 「全て消しておけ」
たち上がる炎を見つめながら端的に言えば、
 「はい」
橘も言葉少なに答えた。
パソコンの中の記憶も、全て消し、証拠を残さないようにする。万が一のことを考え、江坂は用心してし過ぎることはないと思って
いた。




 「あ、静!もう帰るのかっ?」
 「うん、今日の講義だけは出たかったから。でも、明日からは休むよ」
 「え〜、いいなあ」
 ブーブーと子供のように言う友人、永江基紀(ながえ もとき)を見て頬を緩めた静は、自分の腕時計を見て時間を確認した。
(もう直ぐ3時か)
今日は久しぶりに一緒に夕食を作ろうと言われているので、その材料を買って帰れば午後5時頃にはマンションに着くはずだ。

 「少し、早めの冬休みをとってもらえませんか?」

(・・・・・江坂さんの言うとおりにした方がいいとは思うけど・・・・・)
 今朝、朝食をとる時に江坂に言われた言葉。
どうして突然そんなことを言ったのか・・・・・静はなんとなくだがその理由が分かるような気がした。多分、父の会社のことで、まだ
色々と問題があるのだろう。
(でも、俺だけ何もしなくてもいいんだろうか・・・・・)
 自分の家のことなのに、江坂にだけ任せているのが心苦しい。ただ、自分が動けば、余計に江坂が気を遣うだろうということも分
かるので、静は納得出来ない思いを抱きながらも彼の言うとおりに行動しようと思っていた。

 後もう1つ講義が残っているという基紀と別れ、静はキャンパスを横切って迎えの待つ校門へと急ぐ。すると、
 「シズカ?」
微妙なイントネーションで自分の名前を呼ばれた静は立ち止り、振り向いた。
(・・・・・誰?)
そこに立っていたのは全く見知らぬ相手だ。いや、どう見ても、学生には見えない相手だった。
 「シズカ・コバヤカワ?」
 「・・・・・はい」
 「ああ、写真で見た以上に、アジアンビューティーだ」
 「・・・・・はあ?」
 聞き慣れない言葉に眉を顰めるものの、相手にとってはそんな静の表情さえも好ましいのか、楽しそうに笑って手を差し出して
きた。
しかし、さすがに手を出すのを躊躇っていると、その相手は怪しい者じゃありませんと、日本人のようなことを言う。
 「私はセオドア・ホッブズ。ハーマングループのSVPです」
 「ハーマングループの?」
思わずその名前を繰り返した静の表情を目を細めて見つめたセオドアは、
 「会えてうれしいです、シズ」
と、自ら手を伸ばして静の手を強く握りしめた。