A nonaggression domain
6
『』は英語です。
(この人が・・・・・)
欧米人らしい大げさなリアクションに立派な体躯。
身長は江坂より少し高いくらいなのに、縦と同時に横の体格もがっしりとしているので、かなり大きな人物という印象を感じた。
それと同時に、この男が父や兄に無理難題を吹っかけ、そのせいで江坂の手まで煩わせているのだと思うと、暢気に握手をし
返す気にはならず、静は僅かに眉を寄せたまま黙って手を引いた。
「シズ?」
「何の用でしょうか」
「ヨウ?」
「俺・・・・・私は、家の仕事には一切タッチしていないので、あなたと話すことは何もないんですが」
日本語で言って意味が分かるかなと思ったが、苦笑して自分を見るセオドアの顔を見たら、十分自分の意図が伝わったことは
分かった。
(俺に何を言っても仕方ないことだし)
もちろん、出来れば父達の力になりたかったが、今の自分の力では無理なことは分かりきっている。それならば、言質を取られ
ないように一切語らず、このまま立ち去るのが一番良い方法に思えた。
「それでは」
校門近くに立っている自分達は、セオドアが外国人なだけに随分と目立っているようで、先程からチラチラと興味深そうな視線
を向けられている。これ以上ここにいると余計な騒ぎになりそうで、静は軽く頭を下げ、そのまま隣を通り抜けようとした。
『待って』
「・・・・・」
大きな手が静の細い腕を掴む。
『ビジネスの話じゃない。君の顔が見たかったんだよ』
『俺の、顔?』
『資料で見た時から、とても美しいと思っていてね。ねえ、シズ、少し私に時間をくれないか?君とはゆっくりと話をしたいんだ。
出来ればディナーを一緒にどうかな』
明らかに拒絶している態度を取っているのに、どうもこの男には分からないらしい。
もっとはっきりとした言葉を伝える必要があるのかもしれないと思った静は、自分の手を掴む相手の手を振り払おうと動きかけた。
すると、
『・・・・・っ』
「あっ」
静が動こうとする前に、男の腕は横から伸びてきた手によって簡単に引き離され、その腕を後ろ手にされて押さえ込まれている。
慌てて視線を向けた静は、そこにいる男達を見て目を瞬かせた。
(・・・・・誰?)
男の腕を掴んでいる者と、もう1人。
シャツにジーンズ、羽織っているのはジャンパーやジャケット。一貫性はないものの、ごく普通の学生のスタイルだったし、容姿も
今時の、金髪やらピアスやらをしている、傍から見れば本当に学生そのものだった。
しかし、その眼差しは一様に酷く冷静で、今も静を暴漢から救うという興奮などは微塵も見えず、まるで淡々と仕事をするよう
に見えて・・・・・。
(あ・・・・・っ)
そこまで考えて、ようやく静は判った気がした。彼らは江坂が自分に付けてくれた、構内の護衛役の男達ではないのか。
「あの」
「大丈夫?小早川」
「あ・・・・・」
「変な人間がいるって、さっき学校の方にも伝えたから。学校側の警備もどうなってるんだろうなあ」
「・・・・・」
静は全く顔を知らないのに、目の前の2人はまるで友人のように話し掛けてきた。多分、自分もそれに合わせなければならない
と思うのに、なかなか声が出てこない。
(こんな人達も付いていたんだ・・・・・)
学校の送り迎えも含め、自分に何人かの護衛を付けていることは江坂の口から聞いていたものの、学校の中、それも、どう見
ても学生にしか見えない護衛までいるとは思わなかった。
それほど江坂が自分のことを大切にしてくれているのだと思えば嬉しいものの、自分などにそんなにも多くの手を煩わせてしま
うのは申し訳ない。
静は小さな声ですみませんと言うと、男達に向かって頭を下げた。
(ここにまでガードを付けているとは・・・・・)
何のメリットがあって江坂が小早川商事に融資をしているのか、探らせても分からなかったそれを、セオドアは静に直接会って
聞いてみたかった。
写真で見た以上に日本人形のように綺麗な静を見て少々対応を間違えてしまったようだが、彼に手を出した途端に現れた男
達の様子を見て、その答えは予想外な思考から出てきた。
(リョージはシズがターゲットなのか)
学費の援助という名目で同居もしているらしいが、江坂の真の目的はこの静自身だろう。
秀麗な江坂と、優美な静。
(ん〜、並べて鑑賞したいなあ)
きっと、綺麗な組み合わせだと思う。そして、そうなればセオドアの欲望の成就も、あながち不可能ではないかもしれない。
男に対する恋愛感情を抱くならば、受け入れることもまた、可能ではないか。
『・・・・・このまま黙って立ち去るか、口が聞けなくなるような場所に行くか、今すぐ選んでもらおう』
若い男は静には聞こえないような小さな声で淡々と言う。
セオドアは肩を竦めて苦笑した。
『私だって命は惜しいよ』
買い物を終えて、午後5時前にマンションに辿り着いた静は、まるでタイミングを合わせたかのように帰ってきた江坂と地下駐
車場で顔を合わせた。
「江坂さん」
「お帰りなさい、静さん」
江坂の頬には何時もと変わらない優しい笑みが浮かんでいる。
静はじっとその顔を見上げてから、ありがとうございますと頭を下げた。
「静さん?」
「今日、学校で助けてもらいました」
「・・・・・」
江坂の表情が少しだけ変わる。気遣わしそうに静を見つめ、そっと手を伸ばして頬に触れてきた。
周りの人間は江坂を怖い人と思っているらしいし、父や兄もそれとなく彼の非情な面を伝えてきたが、静はそんな言葉を信じる
ことは出来なかった。
いや、もしかしたら誰かに見せる顔の一面はそうなのかもしれないが、少なくとも、自分に向けてくれる愛情はとても温かく、優
しい。
(指だって、冷たいよ)
手が冷たい人間は心が温かい。それは静自身がよく分かっていることだ。
「大丈夫ですか?」
「はい」
「直ぐに駆けつけられなくて・・・・・」
「側にいてくれましたよ?」
何時だって、江坂は自分の隣にいる。その気配を感じる。江坂が謝ることは全然無いのだと言うと、静は自分から江坂の腰に
手を回して抱きついた。
「着替えてきますから」
「じゃあ、先に用意してますね」
ドアを開けてリビングに向かった江坂は、夕食の買い物の袋をキッチンのテーブルの上に置きながら言う。静は疑うことも無く頷
くと、置いてあったエプロンを身に着けながら腕まくりをした。
「張り切って怪我などしないでくださいね」
「大丈夫ですよ、野菜切るだけだから」
エレベーターの中で、今日は蟹鍋だと言っていた。本当は牡蠣が安かったので牡蠣鍋にしようとしたらしいが、江坂があの見た
目が苦手なことを思い出して止めてくれたらしい。
その気遣いに笑みを浮かべた江坂が自分の部屋に向かうと、丁度携帯が鳴った。番号は橘だ。
「始めたか?」
前置きの無い言葉に相手が答える。
その言葉を聞きながら江坂は時計を見た。午後5時5分だ。
「明日、こちらの取引が始まる直前まで、世界中の市場で動け。そうだ、相手が一番打撃を被るだろう銘柄でな」
それだけを言うと、江坂は電話を切った。
(あいつ・・・・・)
セオドア・ホッブズ。
人の話を聞かない、馬鹿な人間だと思ったが、そのままならば問題を解決すれば日本から追い出して無視するつもりだった。
損にも得にもならない相手に、労力を惜しむからだ。
しかし、セオドアは大きなミスを犯した。それは、静の前にその姿を現したことだ。大人しくしていれば億単位の損だけで済むは
ずだったが、愚かな真似をしたあの男は、それ以上に、死ぬ以上に苦しい思いをしなければならない。
心が鋼鉄で出来ているといわれている自分も、たった1人のためには熱くなれる。江坂は、自分の大切な者に手を出されて笑っ
ているような間抜けな男ではなかった。
『はい〜?まだ夜だよ〜』
枕元で鳴り続ける携帯。
始めは無視していたが、一向に鳴り止む気配がないので、セオドアは仕方なく手を伸ばした。裸で眠っているので、その拍子に
上半身が剥き出しになったが、快適に保たれている温度のせいで肌寒さは感じなかった。
『あ〜、なんだ、ピーター?時差を考えてくれよ、日本はまだ夜が明けて・・・・・えっ?』
半分寝たままだった頭の中が、相手の怒鳴るような声でクリアになる。いや、声の大きさなどではなく、その内容にセオドアは衝
撃を受けたのだ。
『本当に?』
何度も確認し、その答えが変わらないと分かった時、セオドアは広いベッドから起き上がると、足早にリビングに置いてあったノ
ートパソコンを開く。
『・・・・・よし、今開いた。順に言ってくれ』
流れるパソコンの画面をじっと見つめるセオドアの瞳は、次第に焦りと驚愕に光を失ってしまった。
「・・・・・」
パソコンの画面を見つめていた江坂の口元に笑みが浮かんだ。
自分の意図をくんだ橘に抜かりはないとは思っていたが、実際に自分の目で確かめるのは当然のことだ。
(これなら、案外今日中に決着がつくかもしれないな)
パソコンを消し、江坂はその足を寝室へと向けた。
大きなベッドには、まだ愛しい者が眠っている。目覚めの良い恋人は江坂の気配に敏感なはずなのだが・・・・・無理もない、時刻
はまだ午前7時少し前だ。
「・・・・・」
このまま寝かせてやりたいが、知らない間に出掛けるというのも寂しいと、江坂は恋人の耳元に唇を寄せた。
「静さん」
小さな声で、一度だけ呼んだ名前。しかし、目覚めの良い恋人はぱちりと大きな目を覗かせてくれた。
「・・・・・江坂さん?」
「おはようございます」
「お、はよう、ございます?」
既にスーツに着替えている江坂を見て、自分の方が寝坊したと思ったのだろう、静の瞳がせわしなく時計を探している様子を見
て、江坂は笑いながら前髪をかきあげてやる。
「まだ早いですよ」
「え・・・・・でも」
「私は急用でもう出なくてはならないんですが、今日も一番にあなたと話したくて無理矢理起こしたんです」
「出掛けるんですか?」
「ええ、今日は少し忙しくなりそうですから。その代わり、帰宅は早い時間になるので、今日は外に食事に行きましょうか?何が
食べたいか、考えておいてくださいね」
「食事・・・・・」
起きぬけにそんなことを言われてもピンと来ないのだろう、静はただ江坂の言葉をなぞるように呟いた。この反応は当然予想出
来たものだし、後で改めて電話で聞けばいい話だ。
「では、行ってきます」
江坂は静の唇に触れるだけのキスをし、そのまま寝室から出ていった。
「おはようございます」
玄関を出ると、既にそこには3人の護衛がいて、恭しく頭を下げて挨拶をしてきた。
それに軽く頷くだけで答えにした江坂は、地下駐車場に続くエレベーターに乗りながら訊ねる。
「橘は?」
「昨日から事務所の方につめています」
「・・・・・」
それだけで、江坂は全てのことが分かった。橘は忠実に江坂の言葉を実行しているようで、その結果が先程見たパソコンの画
面が映してくれたものだ。
(社に行くまでに、もう少し動いているだろうしな)
江坂は腕時計に視線を落とす。
日本の市場が動くまではもう少し先だが、今日は始まった早々少し荒れるだろうことが予想出来た。昨日からの時間外取引で
動かしたものは、それほどに多量だからだ。
(さて・・・・・奴はどう動くか)
自分がしでかしたことへの見返りはどういったものなのか。あの軽い頭の中でも考えることが出来るのだろうかと、江坂の口元
の笑みは皮肉気なものになっていた。
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