A nonaggression domain
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『』は英語です。
迎えに来た車に乗り込んだ江坂は、早々に橘に言った。
「現状は?」
自分もパソコンで確認したが、それから静と少しスキンシップをしたので30分ほどの空白の時間が出来た。
たった30分といえども、市場の回転はめまぐるしく変化しているので、自分が確認した以降の情報をいち早く取り込むつもりだっ
た。
「こちらです」
橘の取り出した紙は数枚。
アメリカ、EU、東アジアなど。世界中の市場という市場から持ち込まれた数字が並んでいる。それに黙って目を通していた江坂
は、自分の命令を待つ橘に視線を向けた。
「思った以上に動いたな」
「最近は市場も金を持っている者に弱いらしいですね。現金をチラつかせるとかなり優位な取引が出来ました」
「・・・・・」
確かに、金の力は大きい。世界的な景気低迷のせいで、資金を持っている者が強いというのは万国共通だが、江坂はそれ程
大金を使わずにして相手を窮地に陥れた。
要は、頭だ。金にも増して頭を使えば、資金など最低限で十分足りる。
「これで、ハーマングループの総資産は3分の2以下になったろう」
「一夜の成果にしては十分ではありませんか?」
「・・・・・奴のしたことからすれば、全てを失わせても足りないがな」
出来れば半分ほどにしてやりたかったが、さすがにハーマングループの底力はあり、中近東方面では金額など関係ないという
相手も多くて、なかなか思うように株が動かせなかった。
それでも、これであの男は暢気に自分達にちょっかいを掛けてくる余裕は無くなっただろう。いや、個人資産全てを差し出したと
しても足りないはずだ。
「向こうのCEOはどう動いた?」
「早速当社の現地支社にアポが入りました。今日の午前10時、電話があります。こちら次第では、来日することも考えている
そうですよ」
「・・・・・腰が軽いな」
最高経営責任者(チーフ・エグゼクティブ・オフィサー (Chief Executive Officer)。
ようは、アメリカ型の株式会社における会社経営のトップの責任者である役員のことだ。
会社経営に関して全面的な権限を持つとされるその人物が自ら連絡を取ってきたということは、あらゆる市場で自分の会社が
持つ株の暴落や買取に気付き、時差もあるというのにこちらに合わせて、即座に対応してきたのだろう。
(そのために、わざとこちらの名前も隠さなかったがな)
見えない相手との勝負。だからこそハッタリは重要で、江坂は自分の持つ力以上のものを相手に見せつけ、恐怖を感じさせた。
それが成功した時点で、今回は江坂の勝ちなのだ。
通常よりもかなり早くオフィスビルに着いた江坂は、まだまばらな人影の中に一際目立つ人物の姿を見つけた。
「どうしますか」
暗に、排除するかと聞いてきた橘に、江坂は短くいやと答える。そして、そのまま入口へと向かっていると、その姿に気付いたらし
い男が、
「リョージ!」
大きな声で江坂の名前を呼んで来た。
昨日までの余裕に満ちた表情とは違う、青褪めて真剣な顔。たった一夜で人の顔はここまで変わるのかとさえ思う。
(全て、自業自得だがな)
『リョージ!どうか私の話を聞いて欲しい!私は、君と敵対するために日本に来たわけじゃないんだ!』
「・・・・・」
『むしろ、友好的なパートナーになれると信じて会いにきた!君は私のフレンドリーな態度を誤解していたのかもしれないけど、
でも私は・・・・・っ』
『黙れ』
『・・・・・リョージ?』
張り上げたわけでもなく、恫喝したわけでもなく、ただ、短く遮っただけの江坂の声に、セオドアが目を見開いた。
『今の私の交渉相手はハーマングループのCEOだ。それ以下の相手に話す言葉はない』
それだけで、もうお前には価値がないのだと伝える。わざわざこうして言ってやるだけ、自分も寛大になったものだ。
(以前なら、問答無用で排除しているが)
しかし、江坂のミスで静はこの男と顔を合わせてしまった。この時点で、セオドアを闇に葬ることは不可能になってしまった。
それならば、もう二度と日本に足を踏み入れないようにするだけだ。
『・・・・・』
江坂は眼鏡の奥から鋭い眼差しを向け、そのまますっと視線を逸らして歩き始めた。もう、この男に何の価値なども無く、話をす
ることさえ無駄だというように・・・・・。
セオドアは呆然と江坂の背を見つめた。
やり手の男だということは事前の調査でも分かっていたことだし、ジャパニーズマフィアの一員である男は優美な外見に似合わず
に怖いだろうとも予想がついていた。
それでも、昨日は、確かに自分の方が優勢だった。
年上であるはずの江坂の方が、自分に対して気遣った物言いをしていた。
それが、昨日の今日・・・・・昨日は自分の行動にあれ程押されていた様子だった江坂が、一夜のうちにこれほど強烈な巻き返
しを図ってくるとはとても想像が出来なかった。
ビジネスの世界で地位も財力も手に入れたセオドアにとって、殺されることよりも身ぐるみ剥がされて放り出されることの方が辛
い。マネーゲームといって、笑って億単位の金を動かしている自分が・・・・・。
(私が・・・・・どうして?)
今以上の地位を望んで何が悪い。
目を惹く美しいものを手に入れようとして何が悪い。
自分は紳士的に話し合いをしようと、こうしてわざわざ日本にまで来たのだ。
『リョージ!待ってくれ!』
このまま帰ることは出来なかった。いや、このままではハーマングループは破格の損害賠償を自分に突きつけてくるはずだ。
全ての原因はセオドアにあると、自分達が暗黙のうちに了解したことは棚に上げて。
(そんなことは許さないっ!)
『リョージ!』
入口の自動ドアをくぐった江坂の腕を掴もうと手を伸ばしたセオドア。自分よりも細い江坂は、必ず足を止めるはずだと思った。
しかし、
(・・・・・え?)
綺麗な黒い瞳が自分に向けられたかと思うと、
ガタッ
視界が回転し、一瞬のうちにセオドアの身体はロビーの大理石の床の上に仰向けになって倒れていた。
『・・・・・』
(今の、リョージ、が?)
数人の警備の男達に押さえつけられながら、セオドアは必死に顔を上げて江坂を見つめる。綺麗な男は、凍えるような冷たい
眼差しを向けてきた。
『力だけで全てが解決するとは思うな』
『リョ・・・・・』
『柔能く剛を制す・・・・・今の私ならば、お前など片手で十分だ』
言葉短くそう言うと、江坂は数人の部下らしい男達に囲まれながらエレベーターへと乗り込む。
セオドアはもう、起き上がる力さえ無くなってしまった。
「驚いていましたね」
エレベーターのドアが閉まると、橘が少しだけ笑みを含んだ声で言った。
「あなたがあんなことをするなんて思ってもみなかったんでしょう」
江坂が柔道の黒帯ということまでは調べはついていなかったのかもしれないが、江坂自身そんなことを吹聴することもなく、実は
有段者ということを知っている人間は数少ない。
江坂は頭しか使えない人間だと、大東組内の古い考え方の武闘派の者は嘲笑していたが、多分その男と手合わせをしても
簡単に負けることは無いはずだった。
「それで、あれはどうしますか?」
エレベーターに乗り込んだ途端に聞いてきた橘に、江坂はしばらく無言のままだった。
あのままセオドアを切り捨てることは容易い。今のあの男は自分の力に絶望しているし、守る立場のハーマングループもあの男
を見捨てるだろう。
「・・・・・」
ただ、江坂の頭の中には、橘の出した資料があった。
それに書かれていたのは男の性格ではなく、それまでの市場での戦績だ。個人的な感情で切り捨てるには、確かに惜しい能力
だった。
「あの性格が無ければな」
「粛清は出来るんではないですか?」
「・・・・・」
「・・・・・」
そのまま自分のオフィスに入った江坂は橘を振り向いた。
「向こうのCEOとの話し合い次第だな。それまであの男から目を離すな」
「はい」
一礼して部屋を出た橘を見送ることもせず、江坂は直ぐにパソコンを開いて今の現状を確認する。目は数字を忙しく追うが、そ
の頭の中では今の出来事を回想していた。
セオドアのやり方は確かに間違っていた。
そもそも、目をつけた企業が悪かったし、そこから自分にコンタクトをとってきたということも、だ。
慣れ慣れしく自分の名前を呼び、静の手を握っていた(報告は受けた)セオドアを簡単には許すつもりはないが、江坂はこみ上げ
る感情のままには動かない。そこまで、江坂は子供ではなかった。
(あの男・・・・・利用次第では道具になる)
釘をさせば静に手を出すことは無いだろうが、何ならペニスを切り落としたらいい。男としての機能が無くなれば、馬鹿な劣情を
抱くこともないだろう。
静に不快な思いをさせたことは許せないことだが、それなりの尻拭いを自分自身でさせなけれな・・・・・江坂はそう思いながらパ
ソコンの画面を見つめていた。
それから5日後・・・・・。
静はマンションに帰ってきた江坂を玄関で出迎えると、ふわっと優しく抱きしめられ、額に口づけられた。
「お帰りなさい」
「ただいま、全て終わりましたよ」
そう言いながら江坂が取りだしたのは、見覚えのある書類。英文で書かれたあの仮契約書だ。
「これ・・・・・」
「先日、ハーマングループのCEOが来ましたね。きちんと話をして分かって頂いて、この仮契約は破棄していただきました。これ
がその書類です」
指し示されたもう1つの書類の束は2日前の日付で、父と江坂のサイン、そして外国名の名前が並んで書かれていた。
簡単な文句の所だけで見れば、前の契約書の内容が羅列され、それを双方合意の元破棄するとある。
「あ・・・・・ありがとう、ございます」
静は江坂を見上げ、ありがとうと呟いた。多分、こんな言葉ではとても江坂の労力とは比べ物にならないだろうが、それでも感謝
の思いを込めて言う。
「いいえ、あなたも、そしてあなたの家族にも何も無くて良かった」
「・・・・・」
「どうしました?」
「・・・・・江坂さんて・・・・・どうしてそんなに優しいんですか?」
「私が?」
意外な言葉を聞いたかのように江坂は聞き返してくるが、静はこんなにも誰かのために動く人間は知らない。
こんなにも優しい人が自分を想ってくれている。それは奇跡のような幸せだと思った。
自分に抱きついてくる静の身体に腕を回し、江坂は小さな笑みを口元に浮かべていた。
静には契約破棄の書類しか見せていないが、江坂は来日したハーマングループのCEO相手に、新しい、もちろんこちらが優位
になる契約を交わした。
今回の江坂の素早い対応と緻密な戦略に、切迫する思いを抱いていたらしいハーマングループ側は、江坂の申し出を検討す
る余裕さえ無かっただろう。
今回は不愉快なこともあったが、アメリカでの良い手先が出来たと思えば、多少は気も晴れる。何より、静は喜んでくれた。
後は・・・・・。
「静さん、明日、時間を作ってください」
「え?」
「全てが穏便に始末が付いた祝いをしましょう」
静に異論は無いらしく、直ぐに頷きが返ってきたが、それには他の意味もある。
「どこに行くんですか?」
「美味しいイタリア料理の店を見付けたんですよ。ホテルの中にあるんですが・・・・・あなたも今回のことでは神経を遣ったでしょ
う?ゆっくりと過ごしませんか」
「はい」
快諾する静の反応に頷き、江坂は目を細める。
今回の仕上げをするのに、後もう少し。あの男にとってはもっとも残酷な方法で、今回の自分の愚かさを後悔させなければならな
かった、
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