A nonaggression domain








                                                                
『』は英語です。






 都内の一流と言われるホテルのレストラン。
江坂が美味しいと口にして言っただけあって、出される料理は全て美味しく、静は何時も以上に食べてしまったくらいだ。
 「どうでしたか?」
 「とても美味しかったです」
 本当は食事の感想とか、素晴らしい景色のこととか。もっと言葉を尽くして礼を言いたいのに、こんな時にも言葉数の少ない自
分が少し悔しい。
しかし、江坂はそんな自分の性格も全て分かってくれていて、穏やかに目を細めて笑い掛けてくれた。
 「気に入ってもらって良かった。ここのホテルは初めてですか?」
 「ホテルにはパーティーで父と来たことはあるんですけど、このレストランは初めてです」
 「・・・・・どんなパーティーに?」
 「どこかの会社の会長さんの、喜寿のお祝いだったような・・・・・。でも、大広間で行われたし、俺はその時中学生だったから父
にくっついていただけだし」
 「・・・・・そうですか」
 父は、なぜか静を色んな集まりに連れ出した。
それは小学校4、5年生からで、将来の顔繋ぎのためと言われていたが、静自身はあまり人混みは好きではないのでその時々
の記憶はあまりないのだ。
 「これからは、私が色んな所に連れて行きますから」
 「え?」
 「私とならばいいでしょう?」
 「はい」
 もちろん、大好きな江坂とならばどこに行くのにも一緒に行きたい。
静は笑みを浮かべながら頷くと、最後にと出されたデザートのアイスクリームを食べ始めた。




 目の前で、美味しそうにスプーンを口に運んでいる静を見ながら、江坂はその父親に対してフツフツと怒りを感じていた。
まだ子供である静を連れまわしたのは、明らかにその美貌を利用してのことだと思う。そこにあるのが親としての自慢からか、そ
れとももっと別のものがあったのか・・・・・。
 静のためにもそれが前者であって欲しいと思うものの、一方で江坂はやはり静を守り、愛せるのは自分だけしかいないという思
いが強くなった。
今回のことでも、静の親兄弟は頼りにならない。育ちゆえにおっとりとしているのかもしれないが、そんなことではこの綺麗な静を
守りきることは出来ないはずだ。
(その方がいいがな)
 静のことを守れるのが自分だけだというのは都合がいい。静も自然と自分だけしか見ないだろうし、何時か親兄弟との関係も
今よりも疎遠になるかもしれない。
 いっそ、早々に切り捨ててしまってくれた方がいいのだが、優しい静ではそれは無理だろうということも分かるので、江坂は自然
に静の方から離れていくことを願っていた。
 「静さん」
 「え?」
 「今日はここに泊りませんか?」
 美味しい食事をして、静の楽しそうな笑顔を見て。
しかし、今日の目的は食事だけではなかった。
 「泊るんですか?」
 初めて聞いた静は、少しだけ戸惑ったようだ。僅かに眉を顰めた静に、江坂は滑らかに説明を始める。
 「もちろん、私も自宅であなたとゆっくりしたいのですよ?でも、たまには日常から離れた場所で、ゆっくりとあなたと過ごすのもい
いかなと思いまして」
 「江坂さん・・・・・」
 「丁度スイートが空いていたんです。どうしますか?」
訊ねながら、江坂は静が断るわけが無いと思っていた。静は自分を気遣ってくれるし、なにより彼も、自分と2人きりになれる時
間を厭わないはずだ。
綺麗な眼差しが自分に向けられることに、江坂は身体の芯がゾクッと震える思いがした。




 江坂と外泊するというのは、実はあまりないことだった。
食事はよく外でするのだが、外泊というのはほとんど無い。江坂の立場上、警備の手薄な所やし難い所は避けなければならな
かったし、彼はマンションの方が落ち着くらしかった。
 静自身も、江坂とマンションにいる方が落ち着くが、江坂の誘いを断ることなど考えてもいない。
たまにはいいかもしれない・・・・・家の心配も無くなって、静もその誘いを断るという心境にはならなかった。

 「わあ・・・・・」
 「気に入って頂けたらいいんですけど」
 案内されたスイートルーム。
偶然空いていたという言葉が信じられるほどに、シックながらも豪奢な部屋はとても高そうに見えて、気軽に一泊してもいいもの
かと考えてしまう。
 しかし、無表情の顔の下で戸惑っている静とは反対に江坂は落ち着いていて、備え付けのホームバーに入ってカクテルを作り
始めた。
 手慣れた様子でシェーカーを振るしぐさに、静は自然と視線が吸い寄せられてしまう。
 「凄い、江坂さん」
 「知り合いに、上手な人がいましてね」
 「習ったんですか?」
 「盗んだんです。教えてくれるような人じゃないので」
 「盗んだ・・・・・」
(見て、出来るようなものなのかな・・・・・)
自分ではとても無理だなと思いながら、静はたちまち出来た青いカクテルをじっと見つめていた。
 「どうぞ」
 「ありがとうございます」
 少し口を付けると、甘さを感じる。カクテルはあまり飲んだことは無いが、これはジュースみたいで飲みやすいと言えば言えるか
もしれない。
 「どうですか?」
 「美味しい」
 「口あたりはいいんですが、酔い易いですから。私がいる時だけ飲んでくださいね」
 心配ですからという江坂の言葉がくすぐったい。酒には強い方だと思うが、江坂が言うならそうしようと、静は素直に頷いてグラス
に口を付けた。




 次々と作っていく色とりどりのカクテルを、静は美味しいと言いながら飲んでくれた。
彼が酒に強いことは知っていたし、なかなか酔わないだろうが・・・・・こっそりと入れた薬は、酒の力を借りてよく効くはずだ。
(あいつが用意した薬だから、問題は無いはずだが・・・・・)
 「江坂さんは飲まないんですか?」
 「・・・・・じゃあ、お付き合いさせてもらいましょうか」
 江坂は自分用にプランデーをグラスに注いだ。
 「・・・・・そのままで?」
ストレートで飲むのかと少し驚いたように言った静の隣に座った江坂は、ふっと笑みを浮かべながらグラスを持ち上げた。
 「心配しなくても、これくらいで私は酔いませんよ」
 「え?」
 「ちゃんと、あなたを愛せるくらいには理性を保つつもりです」
 「・・・・・っ」
 耳元で囁けば、静の頬がうっすらと赤く染まった。
酒のせいで赤くならないというのも面白いが、こうして自分の言葉に一喜一憂している様を見るのは心地良く、江坂はそのまま静
の肩を抱き寄せた。
 「・・・・・あの・・・・・」
 「どうしました?」
 「今回のこと、ありがとうございました。父も兄も、江坂さんにくれぐれもよろしくと言っていました」
 「・・・・・話したんですか?」
 「今日の午前中に電話があって。江坂さんのこと、少し誤解していたって言っていました。俺は、前から江坂さんはいい人だって
言ってたのに」
 今更なんだからと苦笑しながら言う静の顔をじっと見つめながら、江坂は内心あの親子にくぎを刺すべきだったと思っていた。
今回は江坂にとっても利益が出るものになったが、それだけではなく、経営者の資質に係わる大きな失態で、江坂は望んで助け
るつもりは無かった。静の血縁だから辛うじて首が繋がっているが、本来なら見捨てていてもいい案件だ。
(それが、のうのうと静に連絡を取ってくるとは・・・・・)
 甘えさせるのは今回限りだ。
次からはこちら側がしっかりと管理し、次に同じような問題が起こった時には、自分の管理下に置くよう手続きを取る。そして、容
易には静と連絡を取らせないようにしなければならないだろう。




 その時、インターホンが鳴った。
 「?」
 「ああ、私が呼んだんですよ」
 「え?」
(呼んだって・・・・・?)
江坂が自分と2人で過ごす夜に誰かを呼ぶのは意外で、静は思わす声を上げてしまう。
そんな静に軽くキスをして立ちあがった江坂はそのまま入口へと消えていき・・・・・しばらく人の気配や声が聞こえていたが、やが
てリビングへと江坂は戻ってきた。
 「あっ」
 戻ってきた江坂は1人ではなかった。
従えるように付いてきたのは大学で会った外国人の男・・・・・今回、父や兄を窮地に陥れたハーマングループの男だ。
 「セ・・・・・オドア、さん?」
 確か、そんな名前だったと口にすれば、江坂は笑みを浮かべたまま訂正してくる。
 「ホッブズ氏ですよ」
 「あ、で、でも、どうして・・・・・」
 「今回、ハーマングループ側には手を引いてもらいましたから、その礼と、これからもよろしくということで」
 「よろしく?」
 「ホッブズ氏には、ハーマングループを退社していただき、私の仕事を手伝ってもらうことにしました。今回は双方の行き違いが引
き起こしてしまった不幸な出来事でしたが、トレーダーとしては優秀な方ですしね。もっとも、アメリカの市場でということなので、日
本に来ることはほとんどないと思いますが」
 「は・・・・・あ」
 初めて聞くことに、静は戸惑った相槌をうつしかなかった。
確か、江坂はハーマングループを、いや、このセオドアという男をあまりよく思っていなかったはずだが、ビジネスはビジネスと割り
切った取引をしようというのだろうか。
 言葉を変えれば、それほど江坂に期待されているというセオドアが羨ましくも思い、静は思わずその顔をじっと見つめてしまう。
 「・・・・・」
すると、セオドアは何か小さく言いながら肩を竦め、江坂が男の身体を遮るように目の前に立った。
 「江坂さん?」
 「・・・・・少しだけ飲んで、直ぐに帰しますから」




 自分が命じてこの部屋に来させたというのに、江坂は静がセオドアに向けた眼差しが不快だった。
自分には無いものを乞うような、羨ましげに細められた眼差し。そんな目で静に見られるのは自分だけでいいはずなのに、こんな
男をどうして・・・・・。
(・・・・・仕方ない)
 本当はこのまま部屋から追い出したいくらいだが、せっかくここまでお膳立てをしたのだ、これからのことを考えれば、この一時の
不快感には目を瞑らなければならないだろう。
 「リョ・・・・・エサカ」
 二度と《リョージ》とは呼ぶなと命じた通り、江坂の姓で声を掛けてくるセオドア。外国人には発音しにくい名前かもしれないが、
セオドアがどんなに苦労しても関係ない。
 「私は、いい?ここ」
 リビングに向かいながら訊ねてくるセオドアに、江坂は短く、静には聞こえないように言った。
 「当たり前だ。私が命じるまでこの場にいろ」
 「OK」
 「・・・・・」
セオドアの様子は、思ったよりも悲痛なものではない。それでも頬が強張っているのは、自分の命運を目の前の男・・・・・江坂が
握っているということが分かっているからだ。

 セオドアは今回の小早川商事の件の不手際の責任をとり、私財を全て没収された上、ハーマングループを解雇になった。
男が一言の文句も言わなかったのは、既に江坂がその身柄を引き受けることを伝えていたからだが、もちろん何の問題も無くとい
うわけではなく、幾つかの条件が付けられていた。
 そのほとんどは、セオドア自身の私生活に及ぶもので、仕事面に対しては江坂は注文をつけてはいない。
そもそも、力が無い者を傍に置くつもりは無い江坂は、仮にセオドアが期待以下の働きだったならば、今度こそ躊躇い無く切り捨
てるということを本人に伝えていた。

 「では、乾杯」
 グラスが合わせられる音が響く。
 「静さん、ほどほどにですよ?」
 「はい、分かってます」
静は笑いながら頷き、その笑顔に江坂は穏やかに微笑み掛けた。
 「・・・・・」
 そして、チラッとセオドアに視線を向ける。気障っぽくグラスを上げて合図を送ってくる男に眉を顰め、江坂はゆっくりとグラスを傾
けた。