ACCIDENT



10








 「こんな話をした後で、あんたに外泊許可なんか与えるわけないでしょう?これからずっとなんて言わないから、せめて来週末まで
頭を冷やしなさい。いいわね、タロ」



 母の言葉に、即座に嫌とは言えなかった。
確かに上杉と一緒にいたいと思う気持ちは強いままだが、もう少しだけ冷静になれという言葉は太朗の頭の中にもちゃんと意味を
持って響いてきた。
 ちらっと隣を見れば、上杉も仕方がないというような苦笑を浮かべていた。
きっと、佐緒里の言葉を上杉なりに理解したのだろう、上杉は隣に座る太朗の頭をクシャッと撫でながら言った。
 「約束は、来週にするか」
 「・・・・・そうだね」
(でも、じゃあ・・・・・今からこの人と帰るのかな)
 太朗が上杉と出掛けなければ、このまま上杉は元妻と帰ることになるだろう。もしかしたら・・・・・食事くらいはするかもしれない。
それぐらいは笑って許さないといけないことは分かるが、気持ちの中では割り切れないのも本当で。
しかし、情けなく眉をハの字に下げてしまった太朗に直ぐに気付いてくれた上杉は、母の前だというのにギュッと肩を抱きしめてくれ
ると、はっきりと口に出して言ってくれた。
 「大丈夫だ、タロ。俺はもう、お前以外いないから」



 「・・・・・な〜んて、言ってくれたけど」
 翌日の土曜日、太朗はジローの散歩に出掛けたものの、もう一時間も歩き続けていた。
本当は今頃、上杉のマンションで、上杉と一緒にいたはずだが、思い掛けない元妻の出現ときっぱりとした母の言葉に、その時
間は呆気なく無くなってしまった。
上杉からはその夜電話があり、何も心配するなとは言われたが、知ったことを知らなかったことには出来ず、しかし、子供の自分
に出来ることなど限られているので、太朗は何だかまだ頭の中がすっきりと晴れないままだった。
 「相手の人が言ってるヤクザって・・・・・ジローさん、知ってるのかな?俺が知ってるのは・・・・・海藤さんとー、伊崎さんとー、えっ
と・・・・・あ、能面さん(江坂)だっけ?みんな同じ仲間だって言ってたけど」
 ヤクザの世界の仕組みは太朗には良く分からないが、大まかな理解としては大きな学校が大東組で、その中のクラスが色々分
かれている・・・・・ということだと思っている。
もちろん学校は他にもあるだろうし、クラスも多分かなりあるだろう。
(その中であの人の言ったとこ・・・・・)
 「・・・・・」
 太朗は立ち止まった。
多分、上杉は元妻の言っていた組に何らかの働きかけをするだろうが、危ないことはないのだろうかと急に不安になってしまった。
今までは上杉の仕事に関してそれほどに意識していないつもりだったが、今回は少しだけ太朗の気持ちに変化があるので僅かな
がら不安がある。
(どうしよ・・・・・マコさんや楓にそれとなく聞いたって、海藤さんや伊崎さんからジローさんにバレそうだし)
そもそも、それとなくなどという高等技術など使えそうにない。
 「他に、そっちの事情が分かりそうな人って俺知らないし・・・・・あ」
 ポンッと、頭の中に面影が浮かんだ。
 「・・・・・駄目駄目、ジローさん嫌がるだろうしっ」
(でも、かえって適任・・・・・?)
 「・・・・・」
思い付いてしまった事は消せるはずも無く、太朗はしばらく考えるように唸り続け・・・・・またも不意に呟いた。
 「そっちが駄目でも・・・・・あっちがあったっけ」



 そして、日曜日。
太朗は家から一番近い駅のロータリーにいた。
頭には帽子をかぶり、白いインナーの上から鮮やかなブルーの長袖シャツをはおって、下はジーパン姿の太朗は、少しだけ顔が強
張った状態で立っていた。
 「・・・・・」
チラッと見上げた駅の時計は、そろそろ午後一時を指そうとしている。

 プッ プーッ

 その時、車のクラクションが短く響いた。
その音に顔を上げた太朗は、目の前に止まった黒い車の運転席を見て少しだけ顔を緩めた。
 「こんにちは、湯浅さん」
 「こんにちは」
 「今日はすみません、急に」
 「いいんですよ。どうぞ、乗ってください」
 「あ、はい」
太朗はペコッと頭を下げると、言われるまま助手席に乗った。
革張りのシートのゆったりとした乗り心地はかなり高級だろうとは思うが、車の種類にあまり詳しくない太朗は(犬や猫の種類なら
ばかなり分かるのだが)出来るだけ汚さないようにとシートから少し背を浮かせた状態でシートベルトを締める。
それを見た男は、厳つい顔に優しげな笑みを浮かべた。
 「どこに行きますか?」
 「え、えっと、あんまり遠くは」
 「では、少し行った所にケーキが美味しい店がありますのでそこにしましょうか?」
 「は、はい」
 話が決まると、車はゆっくりと動き出した。
 「苑江君から連絡を貰えるとは思っていなかったですよ」
 「あ、はい、ごめんなさい、急に。でも、湯浅さんしか思い浮かばなくって」
 「もちろん、光栄なんですよ。若が妬きもちをやくでしょうが」
その名に、太朗は少し胸が痛んだ。

 「お前のものにしてくれ、タロ」

大人の男からそんな風に言われたのは初めてで、あまりにびっくりして駄目だということも言えないままだった。
上杉に悪いからと、何度か向こうから来た連絡も無視したし(胃が痛いくらいだった)、自分からも全然連絡を取らなかったが、あ
の寂しい目をした綺麗な人は、今も変わらず無気力な目をしているのだろうか?
 「・・・・・あの、シ・・・・・あんまんっ、元気ですか?」
その人の名前をなかなか言えなくて、太朗は彼に託した猫の様子を聞いてみる。
すると、男は更に笑みを深くして頷いた。
 「とても・・・・・可愛がられていますよ」



 厳つい顔をした男・・・・・彼も、上杉と同じ生業をしている人間だった。
大東組系八葉会(はちようかい)の若頭補佐、湯浅達郎(ゆあさ たつろう)。まだ31歳の彼だが、その老成した性格と厳つい容
貌や背格好から、上杉よりも遥かに年上に見えた。
下っ端から若頭補佐にまでなっただけに相当優秀な男だが、その男が主と仰ぐのは自分よりもまだ年少の、組長の子息だった。

 久世司郎(くぜ しろう)。
現八葉会の組長の息子である久世は、当然次代の組長としてなるべく、その前段階として若頭を襲名した。
27歳・・・・・まだまだ覇気も野心もあるはずの年頃なのに、久世は幼い頃から既にこの世界に、いや、自分が生きている現実に
まで興味をもてない男だった。
命ぜられればそれ以上の結果を出せるほどの力があるのに、自分からは全く動くことは無く、何に対しても無気力な久世を学生
時代から見ていた湯浅は、彼はこの先生きるということにも興味を無くすのではないかと危惧していた。

 仕事でも、女でも、他の何でもいい。とにかく久世に生きている意味を持って欲しいと思っていた時、まるで旋風のようにパッと
目の前に現れたのが太朗だった。
今まで久世の周りにはいなかった、生き生きとした生命力に溢れた元気で素直な少年。
ヤクザという自分達に偏見を持つことも無く、素直に対してくれる彼に自分も好感を持ったが、その時は既に太朗は自分達と同
じ世界に生きる羽生会会長、上杉のものだった。

 一足遅かったと簡単に諦めてしまうには、太朗の存在は久世にとっては大きなものになっていて。
上杉に睨まれても、太朗に断られても、久世は太朗を諦めないと言い切った。
今までには見せたことも無いような表情を見せるようになってきた久世に、何とかもう一度太朗を会わせてやりたいと思っていた時、
本当に偶然、太朗の方から連絡が来た。

これも必然ではないか・・・・・湯浅は運命というものを信じたくなっていた。