ACCIDENT
3
難しい顔をしてドアを開けて中に入ってきた上杉に、おやという顔をしながら小田切裕(おだぎり ゆたか)が楽しそうな視線を向
けた。
「お早いお帰りでしたね。食事に行かれなかったんですか?」
「・・・・・見れば分かるだろーが」
それ以上言うことは無く、上杉は一瞬机に向かいかけて・・・・・思い直したかのようにソファにどっかりと腰を下ろした。
溜め息などつくつもりはないが、知らずにどうしても漏れてしまう。
(あそこにタロが来るとはなあ)
太朗に何も伝えないというつもりは無かった。
全てが綺麗に解決してから順序だてて説明すれば、太朗ならばきっと分かってくれると思っていたのが、それが単に自分の頭の中
での思い込みだったということを痛感してしまう。
「で?」
「ん?」
「太朗君にはちゃんと説明したんですか?」
「・・・・・」
「あなた・・・・・馬鹿ですか」
自分の上司、それもヤクザの世界という上下関係を重んじる世界で、こんな風に堂々と罵声を浴びせてくるのは小田切くらい
かもしれないと、上杉は反論する気も起きなくて黙っていた。
そもそも、大東組という母体組織の幹部クラスであった小田切が、出向という形で自分の下に来てからまだ数年。
しかし、今では羽生会は小田切が居ないと回らないだろうし、小田切も堅苦しく、未だ年功序列というものを撤廃出来ていない
大東組本部に戻るつもりはないようだった。
味方にいれば、この上も無く頼もしい存在なのだが、その性格には少々難がある。
どんな事態でも自分の楽しみを優先する小田切の性格は、さすがの上杉も抑えるのに苦労しているというか・・・・・はっきり言え
ばとても抑えることは出来ないのだが、そんな小田切の性格も込みで、上杉は彼を頼もしい片腕と思っていた。
「面と向かって馬鹿っていうか?」
それでも、さすがに正面きってのその言葉に眉を顰めると、小田切は広げていた書類をまとめながら言葉を続けた。
「普段は呆れるぐらい饒舌なくせに、肝心のことを言わないなんて馬鹿としかいいようがない」
「・・・・・」
「あの子、祐一郎君があなたの子供じゃないって、太朗君に言わなかったんでしょう?」
「・・・・・その可能性があるってことだろう」
「可能性?離婚前からセックスをしなかった旦那が、別れて10カ月後に生まれた子供の父親になる可能性がどれくらいあるん
ですか?それとも、別れてからもセックスは別だと割り切ってしてたんですか?」
「・・・・・」
佑香の浮気現場を押さえる少し前から、上杉は佑香とセックスをしていなかった。
兄貴分達から教わる仕事も多かったし、それ以上に上杉の気持ちが佑香から離れかけていたということもあったからだ。
そして・・・・・佑香の浮気現場に踏み込んだ上杉は、その翌日には佑香に離婚届を差し出した。
「お前は自由になりたかったんだろ?」
「滋郎だって・・・・・私を愛してくれたっていうより・・・・・可愛がってくれていただけでしょ?」
2歳年上の、華やかで綺麗な女。
そんな極上の女を手に入れることが出来て、確かに自分は浮かれてしまっていたかもしれない。
それでも、自分で出来うる限りは佑香を愛していたし、愛されていると・・・・・思っていた。
結局、佑香の言い訳を聞くことも無く、やり直そうとする努力もしないまま、若い2人は別々の道を歩き始めた。
そんな佑香から連絡が来たのは、別れてまだ1年も経たない頃。
驚いたことに、佑香の腕には生まれたばかりの子供が抱かれていた。
「ごめんなさい、今更こんなこと言うのは筋違いだって分かってるけど・・・・・」
上杉と別れてしばらく経ってから、佑香は自分が妊娠していることに気付いたらしい。
上杉とのセックスしていた時期が重なるかどうかの微妙なところだったが、計算するまでも無く、上杉の子供とは違うことを佑香は
自覚していたようだ。
「どうしても産みたかったの」
上杉が知っていた佑香ならば、多分堕胎していたはずだろう。
その心境がどうして変わったのか・・・・・上杉は知る由もなかったが、別れる時は女の顔だった佑香が、今は紛れも無く母親の顔
になっていることに苦笑を漏らした。そうして笑えるほど、上杉にとって佑香の存在は既に過去の存在になっていたのだ。
だが、そんな上杉の穏やかな気持ちは、次の佑香の言葉で更なる驚きに覆された。
「俺の・・・・・子?」
上杉も、そして生んだ佑香も、この子供が間違いなく自分達の間に出来た子ではないという事は確信していたのに、離婚してか
ら10ヶ月未満で生まれてしまった子(早産だったらしい)は、前夫上杉の子となると、法律上は決まっているらしい。
離婚の原因になる相手とは既に別れ、1人で子供を生む覚悟をしていた佑香だったが、既にそんな彼女を支えてくれる相手を
見つけていた。
だが、その相手は佑香よりも30も年上の実業家で、妻帯者で、相手の妻側からは生まれた子供の父親のことを矢のように責め
られていた。
資産家である相手の男の相続の関係だろうが、佑香がどんなに子供が男とは関係ないと言っても妻側は納得せず、前夫上杉
の名前を持ち出して(調べさせたらしい)DNA鑑定をしろと言ってきていた。
「こんな小さい子を、痛い目に遭わせたくないの」
DNA鑑定をした方が早いとは分かっていたが、それでもそんな書類でこの子の全てを晒したくないのだと、佑香は上杉に名前
だけ出してもいいだろうかという許可を取りに来たらしい。
そんな佑香に、上杉は一言で答えた。
「父親は俺だ」
「滋郎っ?」
「認知もするし、養育費も払う」
勢いだけで言ったわけではなかった。
生涯愛すると誓った女を幸せに出来ず手を離してしまった自分に対する、それは必要な枷だと思ったのだ。
最初は上杉の認知を拒んでいた佑香を説得し、上杉は(多分血の繋がらない)子供の親になった。
さすがに養育費を受け取る事は頑強に拒否した佑香の意思を尊重し、上杉は本当に書類上だけの父親だったのだが・・・・・。
「・・・・・どういうつもりなんですか、彼女は」
「さあなあ」
ほぼ、13年ぶりに再会した佑香は、相変わらず綺麗な女だったがやはり母親になっていた。
上杉の子とされた佑一郎の他にもう1人幼い子供を連れて現れた彼女は、少しだけ苦笑しながら上杉に言った。
「頼みごとの時ばかり来てごめんなさい」
再会してから既に二週間近く経つが、未だその理由は聞いていない。気が短い方ではないと思っているが、それでも太朗と会
えない時間が続けばイライラしてくる。
「いい加減、DNA検査してはっきりさせたらどうです?彼ももう中学生でしょう?」
「・・・・・別に、血なんか関係ないって。俺が自分のガキだって認めたんだ、今更違うと言うつもりはない」
それだけは、上杉の気持ちも決まっている。
もしかしたら、いや、可能性で言えば、限りなく浮気相手の子である可能性の高い子供であっても、上杉は差し出された手を振
りほどくつもりは無かった。
ただ、太朗のことを考えると、やはり溜め息しか漏れてこない。
(多分・・・・・今頃色々考えてるだろうな)
送っていく車中でも、ほとんど上杉と話すことがなかった太朗。その頭の中でどんな考えが渦巻いていたのか上杉が知る事は出
来ない。
ただ、上杉はどんなことがあっても太朗を手放すつもりは無かったが。
「全く、上手くいかねえな」
「あなたがそうしてるってこと、自覚した方がよろしいですよ」
小田切の辛辣な言葉に、上杉は言い返す気力も無かった。
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