ACCIDENT











 太朗はほっとしていた。
考えて決めた決意。自分ではそれが精一杯の答えだと思ったし、車の中で小田切にそれを伝えた時、彼が笑みを浮かべてくれた
ことでも、少しは安心していた。
しかし、自分の出した答えに上杉がどんな反応を示すか・・・・・それが一番心配だったが、どうやら一生懸命考えた答えは上杉に
とっても間違いではなかったようだった。
(良かったあ・・・・・)
 もちろん、太朗も口で言うほどに既に割り切っているわけではない。
上杉の子供(先ほどの話ではその可能性がない方が強いようだが)を好きになれると言ったが、面と向かって笑顔を向けられるか
と言えばまだ自信がないし、それが元妻相手ならば尚更だ。
それでも、自分で口に出し、上杉にもきちんと伝えたことによって、そうしようという気持ちの後押しにはなった。
 「・・・・・おい」
 太朗がそんな風につらつら考えていると、頭上の上杉が口を開いた。
 「はいはい、分かってますよ」
 「そういうのは勘がいいな」
 「え?なに?」
 「お前はこれから俺のマンションに直行」
 「え?」
 「行き違った恋人同士が分かり合えたんだ、することは一つだろう」
 「はあ〜?」
(いきなりそこに飛ぶ?)
喧嘩という言葉を使わなかったのは嬉しいが、それとこれとは話が別だった。
もちろん、太朗もずいぶん長い間上杉とゆっくり話す時間がなく、触れ合うことも出来なかったことを寂しくは思っていたが、さすが
に上杉のように直ぐにそっちの方(はっきり言いたくはないが・・・・・身体の関係だ)には頭が行かなかった。
 「タ〜ロ?」
 「・・・・・っ」
(へ、変な声で呼ぶなってば〜!)
 全く考えてはいなかったが、それでも大好きな声が耳元で囁くとドキドキしてしまう。
太朗は慌てて上杉の身体を両手で押しのけた。
 「駄目!」
 「どうして」
 「お、俺、明日も学校だし!遅くなったら母ちゃんに叱られるよ!」
 「・・・・・あ〜、今日は木曜か」
 「残念でしたね」
唸るような上杉の言葉に、小田切がくすくす笑う。
 「学生の本分は勉強。太朗君は偉いですね」
まるで小学生を褒めるような言葉遣いに情けなくなってしまうが、ここは小田切にも味方になってもらわないことには太朗1人で上
杉に対抗出来ないだろう。
 「そ、そう、学校は大事なんだよ!」
 「タロ」
 「だ、だから、えっと・・・・・」
 太朗はチラッと小田切を見たが、その小田切が笑みを湛えながらも視線を逸らしてくれないことが分かると、仕方がないと思い
切って言った。
 「あ、明日っ、泊まるから!」
 「明日?」
 「ちゃんと、母ちゃんに言って、泊まる用意もしてくる。それでいいよね?」
 「・・・・・二泊か。色々楽しめそうだな」
 「い、一泊だけだって!」
既に上杉の術中に嵌ってしまったことにも気付かず、太朗は顔を真っ赤にしながらもそう叫んだ。



 「・・・・・」
 「そんなにじっと見たって時間は進みませんよ。今は午後1時20分。太朗君の授業が終わるのは午後3時30分。ここを出る
のはまだ早いです」
 「分かってる」
(ただ、待ちきれないだけだって)
 昨日。
せっかく太朗から訪ねて来てくれたというのに、泊まらせることも出来なくて、せめて送る時にキスでも掠め取ろうとしたのだが、不意
に掛かってきた自分宛の電話に出ている間に、さっさと小田切が太朗を連れ出してしまった。
まあ考えれば、あのまま一緒にいれば、どんなに太朗が拒もうともそのままマンションに連れ込みそうだったし、そうなれば太朗はい
いとして(太朗の文句は多分に照れ隠しの意味合いも強い)、あの母親まで敵に回すのは得策ではないだろう。
 あの後戻ってきた小田切に散々愚痴を零して少しはすっきりとした上杉は、今は早く時計の針が3時にならないかと朝からうず
うずしていた。
 「・・・・・みっともない」
 「欲望に忠実なだけだ」
 「それでもですねえ」
 言い掛けた小田切は、不意に鳴った電話を取った。
 「何だ」
 「・・・・・」
小田切の眉が潜まったのを見て、上杉は何らかのトラブルが発生したのだろうと見当を付ける。
だが、今のところ小田切が顔色を変えるような難題はなかったように思う。
(また面倒なことじゃねーだろーな)
せっかく今から太朗とデートというのに、時間が掛かるような問題ならばパスしたいところだった。
 「会長」
 「・・・・・」
 やがて、小田切が電話を切らないままこちらを向いた。
 「お客様がいらっしゃったようですが」
 「客?」
 「池永佑香さんです」
 「・・・・・」
(佑香が?)
上杉は目を眇めて小田切の顔を見つめたが、その表情に僅かな動きも見えない。
(いったい・・・・・)
昨日、突然太朗が現れたことで、結局佑香の話は聞けず仕舞だった。いや、太朗が来ることはもちろん悪いことではなく、佑香
達の方がイレギュラーな存在なのは間違いがないのだが。
 「どうしますか?」
 小田切は今日太朗が来ることを知っている。その上でどちらを選ぶかと問い詰められて、上杉は迷いなく言った。
 「会う」
 「・・・・・」
 「いつまでもだらだらしてたら話が進まない。タロも踏み出してくれたんだ、俺もいい加減覚悟を決めないとな」
小田切はそう言う上杉の顔をじっと見つめていたが、やがて手に持っている受話器に向かって言った。
 「会長室に案内を」





 別れた時、まだ20代前半だった男は、全身で、言葉で、自分を嵐のように愛してくれた。
それに文句があるはずもなく、それほどに愛してもらえてもちろん嬉しかったが、その時は自身も若かった佑香はまだ見ぬ最上の相
手を求めてしまった。
愛情だけでなく、セックスだけでなく。
金も地位もある、全てが揃った完璧な相手。
もちろんそんな男が、若いだけで中身の無い自分に本物の愛情を向けてくれるわけはなく、手に入らないものを求めてもがいて、
結局は自分を愛してくれた男の手を離してしまった。
 その時は、自分が後悔するとはとても思えず、子供を産み、思い掛けなく生まれた母性本能に途惑いながらも浸って・・・・・。
だが、自分が誰かに対して与えた苦痛は、必ず自分にも跳ね返ってくるらしい。
佑香は今までの自分の生き方を全て後悔してしまう問題に直面してしまった。
 2人の子供は可愛い。
その、可愛い子供にとっても重要な問題。
1人ではとても考えられなくて、考えて考えて・・・・・佑香はかつて自分を壊すほどに愛してくれた男の存在を思い出した。
あの頃はまだ20代だった男も、もう30も半ばのはずだ。きっと頼りがいのある強い男になっているだろう。
 そう思うとたまらなくて、佑香は2人の子供の手を取って、かつて夫とも呼んだ男の前に立った。
想像以上にいい男になっていた男を見て、佑香の心の中に遥か昔の苦くて甘い思いが漣立つ。

 しかし。

男の見つめる自分は既に過去の存在で。
男の前には新たな愛しい存在がいて、佑香は取り戻すことなど出来ない時間を、ただ胸に痛く思うしかなかった。