ACCIDENT
8
「遅くなったあ〜!」
太朗はスニーカーも半分脱げ掛けたまま、慌てて校門から外に出た。
通常なら午後3時40分には教室を出れるはずだったのに、今日に限って担任の話が長くなってしまい、太朗が焦って教室を出
たのはもう午後4時になろうとしていた頃だった。
きっと、上杉はもう学校の側で待っているに違いない。
もしかしたら30分近くも待たせたかもしれないと思うと、太朗の足は自然と駆け足になってしまった。
「あ!」
そして、学校の正門から100メートルほど離れた路上に、見慣れたごつい車が停まっている。自分が好きだと言った背が高い
車(ランドクルーザー)だと思うと、太朗の頬には自然に笑みが浮かんでしまった。
「あっ!」
ひと時足が止まってしまった太朗は、直ぐに我に返って走り出す。
運転席には、何時もと変わらない悪戯っぽい笑みの上杉が座っていた。
「ジローさん!」
「おお、お疲れ」
バックミラーで走ってくる太朗の姿を見ていた上杉の顔は笑っている。
あんな風に急いで走ってきてくれるのが自分に会いたいからだと思うと、嬉しくないわけがなかった。
「ごめんっ、すっごく待ったっ?」
「いや、そうでもない」
若い頃は待たされることは蔑ろにされているということだと思っていた上杉も、今では待つことを楽しむ余裕も持っている。もちろん
それは相手によるのだが、太朗が相手ならば上杉は多分どんなに待たされても楽しんで待つ自信があった。
「家に行くんだよな?」
「うん、着替えて荷物・・・・・あれ?」
助手席のドアを開けて車に乗り込もうとした太朗は、この車の前にもう1台車が停まっていることに気付いたらしい。
「ジローさん、その車・・・・・」
「ああ、小田切のだな」
「それは、この間も乗っけてもらったから覚えてるけどさ、小田切さんも一緒?」
「ああ」
「もしかして・・・・・仕事?」
太朗の顔が急に暗くなってしまった。
約束を破ること無しにここまで来てくれた上杉だが、もしかしたら今から小田切と共に仕事に行くのかも知れないと思ったのだろう。
「え、えと、仕事なら、俺帰るよ。遊びに行くのはまたに・・・・・」
「バ〜カ」
学生と社会人(ちょっと規格外だが)の時間の重さの差もきちんと理解している太朗は、見た目の腕白小僧ぶりからは見て取
れないほどに細やかな気遣いをする。
上杉からすればもっと我が儘を言ってくれた方が嬉しいくらいなのだが、何度言っても太朗はその態度を改めない。
子供なりのプライドか、それとも同じ男としての気遣いなのか、どちらにせよ、上杉はあまり口煩く言って太朗の気持ちを無にした
くなかった。
ただ、今回は太朗の考えているようなことではないので、上杉は口元に笑みを浮かべたまま素早く太朗の少しぽってりとした唇
にキスをした。
「・・・・・っ」
「あれは、オマケ」
「・・・・・オマケ?」
「お前の母ちゃんに・・・・・ちょっと活を入れて貰おうと思ってな」
「母ちゃんに?」
今しがたの突然のキスで顔を真っ赤にしたまま、太朗は上杉の言葉に不思議そうに首を傾げた。
佑香の話は、多分他の人間が聞けば随分と自分勝手な話だとは思った。
上杉自身、そんなことで自分と太朗が振り回されていたのかと溜め息をつきそうになったが、佑香からすれば今後の自分・・・・・
いや、子供達にとって、今が重要な岐路なのだろう。
それでも、上杉は最低限のことしかしないつもりだった。
何時までも自分を頼って来られても、自分にとって本当に大切な存在が出来た上杉にすれば、差し伸べる手に全ての力を込め
ることは出来ない。
薄情と言われても、上杉は胸を張って言う。
「タロ以外に愛情を分け与えるつもりはない」
ただ・・・・・佑香のことはともかく、2人の子供のことは気にならないわけではなかった。
特に、形だけとはいえ自分の子供でもある佑一郎の行く末は、全く無視することなどは出来ない。
その時、上杉の脳裏に浮かんだのは太朗の母親である佐緒里の顔だった。
とても一般人とは思えないほどの肝が据わった女。
太朗との関係を続けていく為にも大きく困難な存在である佐緒里は、見方を変えればこの上もなく頼もしい存在だ。
他力本願のつもりではないが、子を持つ女同士、佑香に何らかの影響を与えてくれるのではないかと思った。
思いつけば直ぐに実行する上杉は、そのまま太朗の家へと電話をし、丁度家にいた佐緒里に簡単に事情を説明した。
初めはいきなりのことに困惑していたような佐緒里も、とにかく家に連れて来いと言ってくれ、上杉は太朗を迎えに行くついでとして
佑香も連れてきたのだ。
上杉は太朗に簡単に佑香の事情を説明してやった。
もう子供だという言い分けは通用しない太朗に何の隠し事もしないからというつもりだったが、大人の男と女の事情は太朗には少
し難しかったようだった。
「えっと・・・・・とにかく、奥さんが母ちゃんと話をしに来るってことか」
「元」
「あ、うん、そうだった、元奥さんだったよね」
「お前の母ちゃんにこんなことを頼むのは筋違いだって分かってるがな。俺も、女の気持ちを全部理解出来るわけじゃねえし、何
より子供が絡んだら全くお手上げだからな」
「俺んちに行くなら、わざわざ小田切さんの車を出さなくったって・・・・・」
「・・・・・」
「あ」
「ん?」
「な、なんでもない」
言葉を途中で止めて、急に俯いてしまった太朗の横顔を見て、上杉はふっと笑みを深くした。
(ちゃんと気付いたのか・・・・・偉い偉い)
(お、俺の為・・・・・だよな)
上杉のこの車なら、大人4人くらいは楽に乗せられるだろう。
しかし、それをしなくて、わざわざあの女の人を小田切の車に乗せてきたのは、きっと上杉が自分の気持ちを気遣ってなのだろうと
太朗は確信した。
そうでなくても、元妻や子供の存在に動揺してしまった太朗。
よく話し合って分かったつもりでも、佑香が上杉の元妻だということは事実で・・・・・全て納得したつもりの太朗の心のどこかに、僅
かでも引っ掛かることがないように、そんな不安が生まれないように、上杉は多分必要以上に佑香と接触しないつもりなのだろう。
ただ、今回に限っては2人の子供のことだし、同じヤクザも関わっているしと、綺麗に無視することも出来ないので、小田切までが
借り出されてしまった形になった・・・・・多分、そうだ。
(そこまで気を遣ってくれなくていいのに・・・・・)
そう思うものの、もしもこの車の助手席にあの女の人が乗っていたら・・・・・自分はかなりのショックを受けただろう。
「タロ?」
黙ったままの太朗に、上杉が笑いながら声を掛けてくる。
チラッと顔を上げて上杉の顔を見た太朗は・・・・・思わず呟いた。
「ジローさんって、凄いね」
「ん?」
「俺のこと、全部見えてるみたい」
「お前だって凄いぞ」
「え?俺?」
「俺にここまでさせるほど惚れさせてるんだからな」
「へ、変なこと言うなよ!」
「本当のことだ、変じゃないだろ」
「そ、そういう事は滅多に言うもんじゃないって!」
顔を真っ赤にしてそう言っても、上杉は笑ったまま何も言わない。しかし、太朗はこの一幕で、今から自分の家で何があるのか一
瞬忘れることが出来た。
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