愛情の標



10






 「お疲れ様でした」
 午後11時を15分も早く、真琴は裏口から店を出た。
何時もより注文が少なく、配達要員のバイトが数人残っていた為、掃除を免除して早めに帰してくれたのだ。
真琴の事を気遣い、何時も店の周辺で待つことはせずに就業時間に合わせて車を付けてくれている筒井は、定時より早
いこの時間にはもちろんいない。
連絡を取ろうと携帯を出した真琴は、近付いてくる足音に顔を上げ、その姿を見つけて眉を顰めた。
 「今から迎えを呼ぶなら、送っていく」
 「いいえ」
 真琴にしてはきっぱりと断る。
 「知らない人の車には乗れませんから」
 「自己紹介したと思うが?」
 「・・・・・でも、知らない人です」
 「警察を信用出来ない?」
 「そんなことはないですけど・・・・・」
真琴に付いているという警護の刑事は親切で言ってくれているのだろうが、真琴としてはそれを簡単に受け入れることは出
来ない。
 「さあ」
 「い、いえ、ホントに俺は・・・・・」
 刑事相手では強く手を振りほどくことも躊躇われ、真琴がどうしようかと視線を彷徨わせた時、まるでタイミングを図ったよ
うに黒塗りのベンツが横付けに止まった。
 「!」
真琴が気付くより先に、刑事は中にいる人物に見当が付いたらしく、たちまち痛いような緊張感をまとった。
 「あっ」
 助手席から出てきたのは倉橋で、倉橋は真琴に向かって丁寧に頭を下げた後後部座席のドアを開けた。
降りてきたのは、圧倒的な存在感を持つ海藤だ。
 「海藤さん!」
 思わず叫んだ真琴は、パッと海藤の傍に駈け寄る。
 「どうしたんですか?」
 「久しぶりに迎えに来ようと思ってな」
真琴に向かって僅かに笑みを浮かべて言うと、海藤はチラッと立ち尽くす刑事達に視線を向けた。
 「真琴の警護に付いてると聞いたが・・・・・」
 「海藤・・・・・貴士」
 「呼び捨てか?」
 「・・・・・っ」
 自分達とそう歳は変わらないはずなのに、悔しいが明らかに迫力負けをしている。
海藤貴士という名は、裏の世界ではもちろん、警察内でも特別な意味を持つ名前だった。
今までの暴力団なら簡単にあしらうことが出来ても、海藤は全くといっていいほど尻尾を掴まえることが出来なかった。
薬はやらず、表立つ恐喝やたかりもしない。合法的にかなりの金を生み出しているので、手の出しようが無いのだ。
その上政・経済界に太いパイプを持っているという噂もあり、捕らえることは不可能だろうとさえ言われている。
 こうして間近で見ると、際立って整った容貌に知的な雰囲気をまとう、一見高級官僚にさえ見える海藤だが、肌を突き
刺すような存在感は、確かに海藤が裏の世界の人間だということを知らしめていた。
 そんな、あらゆる意味で大物の海藤が、わざわざ愛人のバイト先に迎えに来るとは直ぐには信じられず、刑事達は気合
負けしないように足を踏ん張って海藤に対した。
 「『開成会』の組長であるあんたが、わざわざお迎えに来たのか?」
 「それが?」
海藤は真琴の身体を抱き寄せ、その首筋にキスをした。
 「海藤さんっ?」
 人前での行為に真琴は慌てたが、刑事達も毒気に当てられたように目を見張る。
 「この通り、こいつにぞっこんなんでな」
 「!」
 「帰るぞ」
海藤は先に真琴を車に乗せ、射るような眼差しを刑事達に向けた。
 「守るなら、命張って守れ・・・・・口だけじゃないならな」



 後部座席に海藤と並んで座った真琴は、ホッとしたような、困ったような笑みを向けた。
 「海藤さん、無理して来てくれたんでしょう?俺が落ち込んでいると思って」
 「ただ早く会いたかったからとは思えないか?」
 「・・・・・ちょっと、似合わないかも」
海藤は笑って、ポンポンと真琴の頭を優しく叩く。
 「ただの牽制だ。俺の自己満足だから気にするな」
どんな刑事達が真琴に付いているのか、実際に自分の目で確かめておこうと思ったのだが、自分に歯向かおうとした根性
は多少評価してもいいかもしれない。
(盾くらいにはなるだろう)
 「真琴、明日からしばらくバイト休めないか?」
 「え?」
 「そんなに長い時間じゃないが・・・・・」
 「それ、絶対?」
 「出来れば、だ」
命令するのではなく、真琴の意思を尊重してくれるのが分かり、真琴は真っ直ぐな視線を向けた。
 「理由、教えてくれませんか?俺に関係があることなら、知っておきたいんです」
 「・・・・・組のことでも?」
 「何も知らないままじゃかえって怖いし・・・・・海藤さんのことも心配だから」