愛情の標
12
「海藤さんのお父さん?」
必然的に、それは目の前の宇佐見の父のことだ。
自分の実の父親に対して、今宇佐見がどういう思いを抱いているのか分からない。兄である海藤に対してはかなり敵対心
があるようだが、父親に対しては違うのかもしれない。
「・・・・・会った事はありません」
「話は?」
「この間、宇佐見さんと会った時に聞いたことだけ、です」
海藤は仕事のことはもちろんだが、自分の家族のことを話したことはない。父母のことも、幼い頃から引き取って育ててく
れた伯父のことも、真琴は言葉の端ですら聞いたことはなかった。
それは真琴を信用していないというわけではなく、真琴に負担を掛けさせたくない配慮からだろう。
「覚悟はしているんだろうな?」
「覚悟って・・・・・」
「仮にもあいつは1つの組を率いている。このままいけば、大東組でも重要な地位まで上るだろう。そうなったら、何が必要
になると思う?」
思わせぶりに言葉を切り、宇佐見は戸惑っている真琴をじっと見つめた。
「分からないか?・・・・・女だ。組をまとめる意味でも、跡継ぎをつくる意味でも、姐さんって奴が必要になる」
「女・・・・・子供って、海藤さんが結婚するってことですか?」
「結婚までしなくても、な。お前だって、いずれ結婚するつもりだろう?」
「俺は・・・・・」
(海藤さんが結婚・・・・・)
まだ大学に入ったばかりの真琴にとって、結婚や子供といったことは現実味がなく、海藤と付き合い始めてからは漠然と結
婚はしないんだろうなと思うくらいだった。
しかし、海藤はもう30を越えた歳で、何時結婚してもおかしくはない。あれ程いい男なのだし、表の仕事も持っており、ヤ
クザということは海藤にはネックではないだろう。
(海藤さんが結婚して、子供が出来ちゃったりしたら・・・・・俺はどうなるんだろう・・・・・)
真琴にとっては不本意に始まった関係だが、今の自分はその関係をきちんと受け止めている。
初めて恋した相手が同性だというのはあまりないことかもしれないし、初体験が同性だということもそうないだろうが、真琴
は結局それで良かったのだと信じている。
ただ、海藤はどうだろうか?
海藤の気持ちを疑うわけではないが、海藤のいる世界では上下関係というものは厳しいはずだ。
それは海藤と他の組員達の関係を見ていても分かるくらいで、もしも海藤が自分より上の立場の人間に命令されたら・・・
・・切り離せない柵というものの中で、不本意ながら頷くかもしれない。
結婚という形を残せない自分達に、確かな約束など出来るのだろうか。
(別れるなんて・・・・・想像出来ないよ・・・・・)
「今のうちだぞ」
泣きそうに顔を歪める真琴に、宇佐見は重ねて言った。
「今ならまだお前はあいつと縁を切れる。そうした方が、絶対いい」
「宇佐見さん・・・・・」
「俺が力になるから」
口先だけで言っている言葉ではないことを感じるが、真琴は頷くことは出来ない。
2人はしばらくの間、ただ黙ってそこに座っていた。
「あ、真琴です。今終わったから・・・・・はい、何時ものところで」
講義が終わり、何時ものように海老原に連絡を取った真琴は、何時も待ち合わせている校門から100メートルほど先
の本屋に向かって歩き始めた。
不特定多数の人間が出入りする本屋は、意外と人は人に無関心になるからだ。
出来るだけ真琴に普通の学生生活を送らせてやりたい海藤は、極力ヤクザとの関係が連想されることはないようにと気を
遣ってくれている。
(それだけ大事にされているのは分かるけど・・・・・)
昼間の宇佐見の言葉が頭から離れなかった。
「・・・・・」
溜め息を付いた真琴は、何時の間にか本屋に着いていた。
「まだ・・・・・みたい」
何時もの車はまだ見えない。
チラッと視線を変えると、宇佐見の手配した刑事が2人、真琴から少し距離を置いて立っていた。
「刑事さんがいるんだから心配ないか」
少し立ち読みでもしようと中に入った真琴は、少し考えて料理本の棚に向かった。
今だ料理はほとんど海藤がこなしていて、真琴は包丁さえ満足に握っていない。
(俺だって練習すれば・・・・・)
想像上の海藤の結婚相手に対抗するわけではないが、何か一つでも海藤の為に出来ることはしたかった。
「卵焼きくらいは・・・・・でも、海藤さんの、美味しいし・・・・・」
本当に、ヤクザという肩書き以外は完璧な男だ。
(そのヤクザってとこだって・・・・・女の人は危険な男が好きだって言うし・・・・・)
子供っぽい性格と、優しげな容貌のせいか、真琴は何時も友達止まりで、女の子達から好意を向けられていたという記
憶は全くなかった。
ページを捲りながらブツブツ呟いていると、
「ねえ、ちょっといい?」
「え?」
声を掛けてきたのは見知らぬ女だ。
真琴より年上の、赤い口紅が印象的な色っぽい女は、振り返った真琴ににっこり笑い掛けた。
「あなた、海藤会長の知り合いでしょう?」
いきなり海藤の名前を出され、真琴は戸惑った視線を向けた。
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