愛情の標
13
「あの、どなたですか?」
「私、川辺アンナ。クラブをやっててね、あなたのことは会長からよく聞いてるわ」
「海藤さんから・・・・・ですか?」
「ええ、会ってみたいと思ってたのよ」
真琴は少し違和感を覚えた。
海藤が誰も彼もに真琴の存在を話すとは到底思えなかったからだ。
「あ、あの、俺、連れが来るので」
「あら、いいじゃない」
逃げ腰の真琴の腕を掴むと、アンナは笑いながら身を寄せてくる。柔らかな乳房が触れて、免疫のない真琴は顔を赤く
して動揺したが、距離を置こうと身じろぎした瞬間、腰の辺りにチクッとした痛みが走った。
「?」
(何?)
目線を下に落とすと、アンナのショルダーバックの影から何かが自分の腰に当てられている。
「騒がないでよ?ちょっとだけ付き合ってくれたらいいだけだから」
笑いながら言うアンナの様子は、傍から見れば仲の良い恋人同士に見えるだろう。
真琴は目線だけで外の刑事達を探すが、込み合った本屋の店内からではその姿は見えない。
「そういえば、刑事も付いてるのよね。大事にされてるじゃない」
「あ、あなた、一体どうして・・・・・?」
「ほら、足を動かして」
海老原が着くまで時間稼ぎをしようと思った真琴の考えは読まれているのか、アンナは真琴に何かを突きつけながらたく
みに店内を歩き、なぜか堂々と表に出てきた。
「こういう場合、裏口にも見張りはいるだろうし、堂々としていれば案外疑われないものよ」
そう言うと、ちょうど店の前に止まっていたタクシーに乗り込んだ。
「お待たせ。刑事2人付いてるわよ」
「了解」
親しげに運転手に話しかけるアンナを、真琴は驚いたように見つめる。
「もしかして・・・・・」
「タクシー相手じゃ、警戒もしないでしょう?」
運転手の男は30前後のがっしりとした体格の、男らしく整った顔の男だ。この相手に、真琴が腕力で勝てる可能性はほ
とんどない。
タクシー自体も本物のようで、ドアを開こうにも、後部座席の内側からは開かないようになっていた。
「俺をどうする気ですか?」
出来るだけ強気でいようと思っても、震えてしまう声は誤魔化せない。
反対に度胸がいいらしいアンナは、笑いながら真琴を脅していた包みを開いて見せた。それはナイフではなかったが、長さが
20センチ近くあるアイスピックだった。
「商売道具」
「か、川辺さん・・・・・」
「お願い事があるのよ、会長に」
「会長って・・・・・海藤さんに?」
「前、お店に来た時誘ったんだけどあっさり断られてね。最近お気に入りの愛人を囲っているらしいとは聞いたんだけど、ホ
ントに男の子とは思わなかったわ。彼、ゲイじゃないでしょう?」
脅して連れてきた割には、アンナはあっけらかんと友達のように話し掛けてくる。
やった行為と態度のギャップがあり過ぎて、真琴の戸惑いは大きくなった。
「海藤さんに何を頼みたいんですか?」
「一条会の高橋のことよ。あいつ、どうにかして開成会の海藤に取り入りたいから身体を使えって言ってきてね。私も、
海藤会長はいい男だし、喜んでと思ったんだけど・・・・・振られちゃったでしょう?そうしたら高橋の奴、今まで工面してきた
三千万円一括して返せって言ってきたの。まあ、組が苦しいんだろうけど、そんなの私だって無理だし」
「工面って?」
「私、高橋の女なの。まあ、今は元が付くけど」
「・・・・・」
「相手が海藤会長だったらね〜。愛情だけでも十分かもしれないけど、高橋とはお金で割り切った関係だったのよ?今
更返せなんて、情けない男」
「でも、どうして俺を?」
「会長がそんなに大事にしている子なら、引き換えに軽くお金を出してくれるんじゃないかなって。あと、出来れば高橋に
話もつけて欲しいけど」
あまりにも軽い言葉に、真琴は恐怖心さえ忘れて呆れてしまった。
愛人に貢いだ金を返せと言う方も方だが、その金を工面する為に簡単に大学生の男を誘拐する方も方だ。
他の組の人間に狙われているかもしれないと、警戒してくれている海藤や周りの人々に申し訳なささえ感じてしまう。
切迫した命の危険を感じなくなった真琴は、少し眉を顰めてアンナを見た。
「海藤さんがお金を出すなんてわかりませんよ?」
「大丈夫」
「大丈夫って・・・・・」
アンナはなぜか自信満々で、そのまま運転手に話し掛ける。
「ねえ、刑事撒けた?」
「簡単。この辺の裏道は知ってるし」
「さすがお兄ちゃん」
「お、お兄ちゃん?」
「そ。私の本当の兄よ。両親が離婚して苗字が変わったけど。元レーサーだから、運転もバッチリ」
バックミラー越しに運転している男を見ると、男もチラッと目線を上げて真琴と目を合わせた。
こんな犯罪まがいなことをするとは思えないほど誠実な目をしている。
「悪いが、もう少し付き合ってくれ、真琴君」
「でも、運転手さん」
「俺の名前は弘中禎久(ひろなか よしひさ)」
「は、はあ」
律儀に名前を教えてくれた弘中に、真琴は流されるまま頷いていた。
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