愛情の標
16
ゆったりとした間取りのアンナの店は、彼女の性格とは正反対のシックで落ち着いた雰囲気だった。
まだ20代前半のアンナがこれだけの店を構えることが出来たのは、やはり誰か強力なパトロンがいたからだろう。
「ちょっと、店のもの壊さないでよねっ」
真琴と並んでソファに座らせられたアンナは男達に言った。これから先のことに不安を抱いているだろうに、それでもなお強
烈なバイタリティーを失わないのに感心してしまう。
「・・・・・」
視線を感じて顔を上げた真琴は、自分達の向かいに腰を下ろしている高橋と目が合った。
勝手に持ち出したボトルの酒をストレートで飲みながら、高橋はじっと真琴を見ている。
「まさかあの海藤がなあ。まあ、そこらの男よりは多少可愛い顔立ちだが、女に比べたら・・・・・」
「!」
不意に伸ばされた手で顎を掴まれ、真琴は薄気味悪さにゾクッと身体を震わせる。
「はっ、離して下さいっ」
「・・・・・この目元のホクロ・・・・・妙に色っぽいな」
「やめ・・・・・っ」
「会長、海藤が来たようです」
高橋の目の中に僅かに生まれた欲情は、部下の知らせにたちまち消え失せた。
「ボディーチェックしてから入れろ。供は1人だけだ」
「はい」
部下の姿が外に消えると、高橋はアンナを立たせて自分が真琴の隣に腰を下ろした。
今この世界でもっとも名前が知られ、その実力も伴っている海藤だ。少しの油断も出来ないと、高橋は内ポケットにしのば
せた自分の唯一の武器に手を当てた。
店の前まで来た海藤は、その時になって初めて一度だけ来た事があるのを思い出した。
(確か、高橋が案内したんだったな)
接待に自分の女の店を使うことはよくあることだったが、高橋に注意を向けた時点でこの店のことまで頭が回らなかったこと
を今更ながら後悔した。
3台連なった車の真ん中の車両から降り立った海藤の姿を見て、店の前に見張りで立っていたらしい男が携帯で連絡
を取っている。
「倉橋、手筈通りだ」
「はい」
視線を向けないまま言うと、倉橋は全てを心得たように頷く。
やがて指示を受けたらしい男が言った。
「海藤会長と、連れは1人で」
「1人?」
低い声で繰り返すと、その圧倒的な威圧感に目の前の男は見る間に青ざめた。
「そ、そうです」
「・・・・・綾辻、ついて来い」
「は〜い。克己、留守番よろしく」
自分が選ばれたことに綾辻は弾んだ声で言い、そんな見た目とのギャップに呆気に取られている目の前の男に笑いながら
言う。
「ふふ、楽しみ」
「・・・・・案内しろ」
その人選に口を出すことも出来ない男は、目に見えてビクつきながら2人をビルの中に連れて行く。
残された倉橋は、一緒に来た部下に言った。
「ここから誰1人生きて出すな」
「あ・・・・・!」
男に連れられて店の中に入ってきた海藤の姿を見た時、真琴は突然涙が溢れてしまった。
自分でも知らないうちに気を張っていたのだろうが、その緊張が海藤の姿を見た瞬間途切れてしまったのだ。
高橋の姿を見ても驚かないということは、弘中が連絡してくれたのだろう。真琴は心配が幾分減ってほうっと溜め息を洩ら
した。
自分の姿を見た瞬間涙を流した真琴をしばらく見つめていた海藤は、やがてその隣に腰を下ろしている高橋に視線を移した
途端、凄まじい殺気を隠そうともせずに言った。
「随分なめた真似してくれたな」
「・・・・・」
「俺のものに手を出すことがどういうことか、その空っぽの頭じゃ想像も出来なかったらしい」
海藤の挑発するような物言いに、緊張していた高橋もさすがにムッとしたらしかった。
「あなたがなかなか私の話を聞いてくれないからですよ、海藤会長。それにしても、どんな女でも選び放題のあなたが、た
かがこんな男に入れあげてるなんて、噂っていうのは案外真実もあるんですね」
「たかがとは聞き捨てならんな」
「随分ご執心のようで。こんなところに会長自身が来るとは、正直半信半疑でしたがね」
「・・・・・」
「私がここにいるのを見ても少しも驚かない。知らなかったとしたら随分度胸がいいというか・・・・・知っていたとしたらその
情報収集力を見習いたいものですよ」
「お前には無理だな」
2人の会話は喧嘩腰ではないだけにかえって恐ろしく、真琴はハラハラした気分で見ているしかない。
その視線がふと海藤の向こうに行った時、そこにもう1人の味方を見つけて真琴の涙で潤んだ目は丸くなった。
(綾辻さん?)
こういう場面で海藤の傍にいるのは倉橋だと無意識に思い込んでいた真琴は、思いがけない綾辻の登場にただ驚くしか
ない。
「・・・・・」
真琴の視線に気付いた綾辻は、その場の緊張とはまるで程遠いようににっこり笑うと、ヒラヒラと手を振ってきた。
「・・・・・」
(だ、大丈夫なのかな、綾辻さん)
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