愛情の標










 『開成会』を襲った小さな不安の種は、やがて真琴の周辺にも及んできた。
午後の講義が終わってバイトに向かっていた真琴は、海老原に連絡を取ろうと携帯を見ながら歩いていたが、校門を出て
少ししたところで突然呼び止められた。
 「西原真琴さん?」
 「え?」
 「あ、本当に男なんだ」
 「・・・・・あの、どなたですか?」
 声を掛けてきたのは2人組みの男達だった。一見、サラリーマン風の、三十代だろう男達が同時に内ポケットから差し出
したのは、つい最近見たばかりの身分証だ。
 「刑事さん?」
 「これから君に付く事になったから」
 「え?」
 「開成会組長の海藤、君が奴の情婦だということで、身辺警護に付く事になったんだ。ま、我々としても、奴の情婦が男
だとは、実際会うまで信じられなかったが」
名前も女名だしと続く言葉は真琴の耳を通り抜けた。
(警察が俺に・・・・・)
悪いことをしているわけでもないし、海藤とのことを恥じているわけでもないが、実際に警察に身を守ると言われて、真琴は
自分がどんなに不安定な立場にいるのかを自覚してしまった。
 「あの、これって、誰が・・・・・もしかして、宇佐見さんが?」
 「内情は言えない。ただ・・・・・」
 男は言葉を続けようとして、ふと口をつぐんだ。
 「真琴さんっ」
駈け寄ってきた海老原の姿を見て、真琴は彼らが言葉を止めたわけを知った。
気が付くと、手にしていた携帯は繋がったままで、海老原が今までの会話を聞いていたのだろうということは分かった。
 「こちらは?」
 見かけは今風の若者でも、その目付きは鋭く只者ではない雰囲気を醸し出している。
1人の刑事が身分証を見せながら言った。
 「これから西原真琴さんの身辺警護に付くことになった。お前達は余計な手出しをしないでもらいたい」
 「そんな言い方止めて下さい!」
 いかにも見下した言い方に真琴は反発するが、慣れているのか海老原は真琴に軽く頷いて見せると、改まった口調で男
に言った。
 「邪魔はするつもりありませんが、自分も社長から言い付かっている役割を放棄することは出来ないので」
 「社長・・・・・ね」
 ヤクザの組長である海藤が、表の世界では経営コンサルタント会社の若き社長として、その手腕を高く評価されているこ
とは警察内部でも周知のことだ。
表の財界政界の大物とも付き合いがあるとの噂で、そのせいかなかなか警察も手を出しにくいというのが現状だった。
大体、大事件の証人というわけでもないヤクザの情婦に身辺警護が付くなど、普通ならありえない話だ。
 「西原さん」
 「は、はい」
 目の前の怯えた目を向ける青年は、まだまだ子供といってもいいくらいの年恰好で、無理矢理に手を付けられてしまった
に違いないと、刑事達は打って変わって同情的な目を向けた。
 「我々はきちんと訓練を受けたプロです。君を必ず守るから」
 「・・・・・」
 「君の立場もあるだろうから出来るだけ人目に付かないようにするが、何かあったらすぐ私達に知らせて欲しい」
 「バイトの時間なので失礼します」
真琴の代わりに返事をすると、海老原は真琴の腕を引いてすべるように横付けされた車に乗り込んだ。



 運転席にいる筒井は、今だ動揺している様子の真琴を気遣って黙ったまま運転していた。
 「びっくりしました?」
海老原の言葉に、真琴は強張った笑みを向けた。
 「少し」
ちらりと後ろを振り返ると、車の後ろにピッタリと付いてくる黒いセダンがある。先程見た2人の顔をそこに見つけると、真琴は
は慌てて視線を逸らした。
 「なんだか、見張られているみたい・・・・・」
 「奴らは職務という大義名分で、どこまでもズカズカ入り込んできますからね」
 海老原は皮肉そうに口を歪めるが、真琴はもっと別の心配をしていた。
 「海老原さん、もしかして海藤さん、何か危ない目にあってるんじゃないんですか?俺、よく分からないけど、ショバがどうと
か、利権が何とかって、よく映画やテレビで聞くし・・・・・」
真琴の知識はごく浅いもので、海老原や筒井からすれば笑える話でもあるが、真琴が海藤を真剣に心配しているのは分
かるので、海老原は極力何気ない口調で言った。
 「今は抗争もありませんし、第一、社長はきちんとした会社を経営しているんですから、何ら心配することはありませんよ」
 「・・・・・じゃあ、今の人達は・・・・・」
 「別口で依頼があったのかも知れません。倉橋幹部に連絡しておくんで、2、3日の辛抱ですよ」
 「・・・・・うん」
 余り納得していない様子の真琴は、それからは海老原が話しかけても気もそぞろな様子だった。
海老原達も気を遣って黙っていたが、不意に車が路肩に寄せられるのに気付いて真琴は顔を上げた。
 「どうし・・・・・あ!」
車の外に立っていた人物に気付き、真琴の表情はパッと明るくなった。
 「綾辻さん!」
 「お久しぶり♪相変わらず可愛いわね〜。社長によ〜く可愛がってもらってる?」
相変わらずのテンションでウインクしながら言うと、綾辻は海老原に頷いて言った。
 「ご苦労様。まとわり付く蝿は無視していいそうよ」
全て理解しているような綾辻の言葉に、警戒心を解いていなかった海老原もホッとした笑顔を見せた。