赤い鎖
4
久し振りの贅沢でゆったりとした時間。
海藤の伯父でもある、元開成会会長、菱沼辰雄の還暦の祝いに軽井沢を訪れた帰りの、箱根への温泉旅行。
真琴を喜ばす為にと、海藤から指示を受けて取った宿は、最上級のもてなしをしてくれた。
何時もは海藤の前ではほとんど酒を口にしない倉橋も、今日ばかりはと海藤や真琴、綾辻にも勧められ、したたかに酔ってし
まい、海藤が真琴を連れて部屋に戻るのを見送ると、自分も早々に部屋に戻ることにした。
「・・・・・私も、これで」
「あ、送るわよ」
「大丈夫ですよ」
「足ふらついてるわよ。あ、先に寝てていいからね」
見送る弘中にそう言うと、綾辻は戸惑う倉橋の腕を取ってさっさと歩き始めた。
「あ、綾辻さん」
「克己とはほとんど身長同じだから、同じ目線で話せるわね」
「・・・・・え?」
「克己は何時もはっきりものを言ってくれるから・・・・・大事ね、そんな存在は」
(綾辻さん?)
綾辻がなぜ突然そんなことを言い出したのか分からず、倉橋は困惑してしまった。
(・・・・・困るな・・・・・)
こんな風に、綾辻は時折倉橋に対して意味深な言葉を向ける。その意味を深く考えるのが怖くて、倉橋は何時も先手を打っ
て綾辻に対していたが、今のように不意をつかれてしまうと言葉が出せなくなってしまうのだ。
「・・・・・」
(私は・・・・・何を・・・・・)
綾辻が言葉の端々に覗かせるニュアンスが、チクチク剥き出しの首筋に突き刺さる感じがして、倉橋は無意識にそっと手を
当ててしまう。
すると、綾辻は今まで支えていた腕から手を離すと、俯き加減の倉橋のうなじにそっと手を触れてきた。
「!」
反射的にパッと身を離すと、綾辻はまじまじと自分の手を見ている。
「あ、綾辻さん?」
「克己、うなじ細いわね〜。私の片手でその首絞めれそう」
「・・・・・馬鹿な事を言わないで下さい」
心臓の鼓動が煩かった。
倉橋の泊まる離れに着くと、綾辻は何も言わずにじっと視線を向けてくる。
このままドアを閉めるのは簡単だが・・・・・倉橋は溜め息をついて言った。
「お茶だけ・・・・・飲んで行かれますか?」
「・・・・・ありがと」
その言葉を当然のように笑って受け止めた綾辻は、そのまま部屋に上がると竹林を望める座敷に向かう。
「あ〜・・・・・ここもいいわね」
「ええ、静かで落ち着きます」
お茶を入れながら、倉橋はチラッと窓際に立つ綾辻の姿を見た。
(黙っていればいいのに・・・・・)
服装や話し方、人の良い笑みなどで、綾辻は一見ノリのいい今風な男に見られがちだが、実際は誰よりも義理堅く、男っぽ
い硬派な一面を持っている。
こうして普段見慣れない浴衣姿は、着痩せして見える綾辻が実際には鍛えた逞しい身体の持ち主で、身長は変わらないも
のの自分より一回り近く大きいということがよく分かった。
「・・・・・」
倉橋は自分の身体を見下ろし、そっと浴衣の襟を深く合わせ直した。
「・・・・・お茶、どうぞ」
「ああ、サンキュー」
綾辻は座敷に戻り、倉橋の横に腰を下ろした。
「どうして隣に座るんですか」
「ん?だって、隣に座らないと・・・・・」
「!」
いきなり胸元の浴衣の合わせ目から手を入れられ、倉橋は息をつめる。
余りの衝撃に、その手を振り払うことも立ち上がることも出来ずに、ただ硬直したようにその手を見下ろすしか出来なかった。
「和服は簡単に脱がせられるな」
「あ・・・・・」
「心臓の鼓動が早い。緊張してる?」
「わ・・・・・私は・・・・・」
「この間、久し振りに男を抱いたけど、あんまり女と変わらない」
生々しい告白に、倉橋の顔が強張った。
そんな倉橋の表情をじっと見つめながら、綾辻は胸元に差し入れた手を引き出し、そのままその手で倉橋の頭を引き寄せると、
薄い唇に深いキスを仕掛けてきた。
「・・・・・んっ・・・・・ふ・・・・・ぅ・・・・・っ」
さすがに遊び慣れているのか、綾辻のキスはそれだけで愛撫のようだ。
抵抗出来ない倉橋の口中に堂々と入り込み、その口腔内を我が物顔に支配し、舌を絡め、歯の裏側までも舐めてくる。
互いの唾液が互いの口腔内を行き来し、綾辻は躊躇い無く飲み下したが、倉橋は呆然としたままで何も出来ず、唇の端か
ら唾液が零れてしまった。
「勿体無い」
キスを解いた綾辻が、当然のように倉橋の零した唾液を舐め取ってしまう。
その舌がだんだんと下に下り、剥き出しの鎖骨を舐めた時、倉橋はやっと弱々しい力で綾辻の胸を押し返した。
「なあ、克己。男とか女とか、そんなこだわりは無くしてもいいんじゃないか?用は、自分にとって必要か、必要でないか」
荒い息をついていると、綾辻の視線が唇に向けられているのを感じる。
そこが互いの唾液で濡れ光っているのだろうと気付き、倉橋はグイッと手の甲で乱暴に唇をぬぐった。
「逃げるな、克己」
「・・・・・」
「俺がお前をどう思ってるか、もう気付いてもいい頃だろう?」
「あ・・・・・綾辻さ・・・・・」
「理性を閉じ込めていた部屋の鍵は壊れた。これからは遠慮しない」
そう言って立ち上がった綾辻を、倉橋は座ったまま呆然と見上げる。
「お前は誰にも渡さない。女にも、男にも、もちろん海藤貴士にも」
「・・・・・そ・・・・・」
「今日はここまで。次は止められるかどうか分からないわよ」
何時もの笑みを向けて、綾辻はそのまま部屋を出て行く。
ドアが閉まる音がし、足音が遠ざかって行って、ただ竹林のざわめきだけが部屋の中に響くようになるまで、倉橋は全く動くこと
が出来なかった。
「・・・・・」
(分かっていたんだ・・・・・)
倉橋がワザと目を背け、意識的に考えないようにしていたことを、聡い綾辻はとうに気付いていたのだろう。
そして、そんな狡さはもう通用しないと、正面きって宣言したのだ。
「・・・・・どうしよう・・・・・」
男とか女とか、倉橋にとってはあまり関係が無い。確かに男同士というのは異質な感じがしたが、そんな性別以上に、誰かを
受け入れるということ自体が怖くて仕方がないのだ。
「どうする・・・・・どうすれば・・・・・」
倉橋は目をギュッと閉じる。
とにかく今は何も考えたくはなかった。
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