赤い鎖










(失敗したか・・・・・)
 目の前で真琴と話している倉橋を見つめながら、綾辻はそう思って内心溜め息をついた。



 温泉旅行から帰って、2人の間が何か変わったのかといえば、変わったことはほとんどなかった。
いや、以前より明らかに倉橋は綾辻を避けるようになり、事務所にいる時は絶対にというほど2人きりにはならないようにし、日
中は海藤の傍についている倉橋と会話を交わすこともほとんど無くなった。
それを寂しいと感じるのも本当だが、裏を返せばそれだけ倉橋が綾辻を意識しているということだ。
綾辻は自分にそう言い聞かせながら、このじれったい時間を一ヶ月以上やり過ごしていた。
 「え?今日は一緒に行けないんですか?」
 「申し訳ありません。これから別の仕事で出掛けなければならないんですよ」
真琴の食事の誘いに、倉橋は丁寧に断わりを入れた。
 「そうですか・・・・・残念だな」
 「また今度の機会に」
 「今度はきっとですよ?」
 「はい」
 「・・・・・」
(嘘つき)
 倉橋のスケジュールは把握している綾辻は、これから別件の用など入っていないことが分かっている。
海藤に真琴と2人きりの時間を過ごさせる為の言い訳なのだろうと思うと、それ程倉橋に気を遣ってもらっている海藤の事が
羨ましく感じてしまった。
(あー・・・・・重症だな)



 もう待たないと言った宣言通り、どんどん倉橋を追い詰めるのは簡単だった。
(実際、何度かキスも仕掛けたけど・・・・・)
旅先でのあんな濃厚なキスではないものの、不意打ちを狙った軽いものは何度かした。
そのたびに倉橋は身を堅くし、直ぐに綾辻の身体を押しのけてしまう。
(・・・・・こんなにウブとはなあ)
確かにあまり遊んではいない方だろうが、それにしてもその態度は・・・・・。想像以上に堅い倉橋のガードに、さすがの綾辻も
溜め息を零す日が続く。
 あの温泉旅行の時のように、無理矢理しようと思えば出来ないことはないだろう。身長こそほとんど同じだが、体格も力も実
際は綾辻の方が上だ。
しかし、自分でも笑ってしまうが、綾辻は倉橋からも求められたいと思っていた。
奪うのは簡単だが、与えられるのは容易ではない。
(でもなあ・・・・・与えてばっかじゃ、俺の方が干からびちまうし)
こんなに長い間時間を掛けてきたのも、それが1つの大きな要因でもある。
 「・・・・・仕掛けるか」
思わず口から洩れた言葉は、倉橋には聞こえなかったようだった。



 その帰り、海藤はとうに真琴と帰り、事務所の中も閑散としている。
一度帰ると見せ掛けて事務所から出た綾辻は、1時間後再び戻ってきて上の階に向かった。
倉橋はまだ残っているはずだ。
 「・・・・・」
 明々と照明は点いてはいるが、廊下にも部屋にも人の気配はない。
綾辻はそのまま倉橋の部屋に足を向け、軽くドアを押してみた。
(開いてる・・・・・)
 「誰だ」
 人の入ってくる気配は感じたのだろうが、入口に背を向けて戸棚に書類をしまい込んでいる倉橋は、始めそれが誰かは気付
かなかったようだ。
 「だ・・・・・!」
しかし、次の瞬間、戸棚のガラスに映った綾辻の姿に気付き、パッと振り向いて警戒するように視線をきつくした。
 「・・・・・何の用です?」
 「・・・・・今までは用が無くても遊びに来てたでしょ?」
 「・・・・・そうですね」
 きっと、綾辻の言葉を無かったことにしたい倉橋は、そこで以前とは違うとは言いにくいだろう。
そんな倉橋の性格を把握している綾辻は、そのまま堂々と中に入ってきてソファに座った。
 「・・・・・仕事中なんですが」
 「続けていいわよ。ここで見てるから」
 「気が散ります」
 「克己は繊細ね。でも、見るぐらいタダでしょう?」
 「・・・・・」
 倉橋はしばらく探るような視線を向けてきたが、やがて深い溜め息をつくとゆっくりとこちらに向かい、綾辻の向かいのソファに腰
を下ろした。
しばらくの沈黙の後、倉橋が静かに言った。
 「あなたは私に何を望んでいるのですか?」
 「直球ね。克己らしいけど」
 綾辻は苦笑した。
 「克己が欲しい。前から言ってるだろ?」
言葉のトーンを意識して変えてみせると、倉橋の眉間の皴はますます深くなってしまった。
 「それは、身体を・・・・・と、いうことですか?」
 「身体も、だ」
 「・・・・・」
 「俺のキスは嫌だったか?」
 「・・・・・」
 「克己」
 「・・・・嫌だったら、こんなに警戒はしませんね」
自嘲するように呟くと、倉橋は真っ直ぐに綾辻を見つめた。
 「今更男同士がどうのとは言いません。でも、私はあなたのように簡単にそれを乗り越えることは出来ませんし、何より・・・・・
恐いんですよ」
 「何が恐い?セックスか?」
 「今の関係を失うことが、です」
 「今の?」
 「私はこれでもあなたを尊敬している。人あしらいの下手な私にとっては、あなたの広い交友関係は凄いと思うし、仕事をさ
ばく能力も高い。実際、言ったことは全て実行されていますしね」
 「・・・・・」
 「そんなあなたと身体の関係を持ったとして・・・・・もし、別れるようになったとしたらどうするんです?以前のように何でも言い
合える関係ではなくなってしまう・・・・・そうは思いませんか?」
 真剣に言葉を継ぐ倉橋を見つめながら、綾辻はやはり失敗をしたと思った。
手を出したことではない。
倉橋にそこまで考える時間を与えてしまったことに対してだ。
 「そんなことが大事か?」
 「私にとっては、そんなことではないんですよ」