赤い鎖










 倉橋はちらっと綾辻を見た。
片手を口元にあて、何かを考え込むように目を閉じているその姿は、まるでモデルのポーズのように綺麗に見える。
(この人はこういう世界にいなかったら良かったのに・・・・・)
日の当たる世界でも十分人気も地位も得られたはずなのにと思ってしまう。
 「・・・・・克己」
 「・・・・・はい」
 やがて、綾辻は少し身を乗り出すようにして口を開いた。
 「お前は怖いと言ったな?駄目になった時のことを考えて」
 「はい」
 「じゃあ、このまま変わらないとしたら、お前は俺のものになるのか?」
 「え?」
綾辻の言葉の真意が分からず、倉橋は思わず聞き返してしまった。
 「変わらないのなら、あなたのものになることもないでしょう?」
 「バ〜カ。頭のいい奴は考えが硬過ぎ」
思わずといったふうに零れた綾辻の笑いに、倉橋は一瞬胸の鼓動が早くなったのが分かった。
(私は何を・・・・・)
自分の変化に戸惑っている倉橋に気付いているのかどうか、綾辻の表情からは読み取ることは出来なかった。
しかし、こういう場面に慣れているはずの綾辻ならば、今倉橋がどんな気持ちになっているのか分かっているのかもしれない。
 「試しでいいからさ、抱かせてくれよ、克己」
 「あ、綾辻さん?」
 「それから決めればいいじゃないか。俺を恋人に出来るかどうか」
 「・・・・・簡単に言わないで下さい。そういう行為自体が怖いといってるんですよ?」
 「だから、全部俺に任せて、全部俺のせいにすればいい。こういうことになってしまったのも、もし、仮にこれで2人関係が悪い
方に変わってしまったとしても、悪いのは全部俺のせいだって」
 「そんなこと・・・・・」
 「俺はお前を抱きたい。お前は抱かれた後の変化が怖い。だったら、お前自身は何も変わらなくていい。俺との事も、犬に噛
まれたと思うぐらいでいい。克己、一歩でいい、そこから踏み出してくれ」



 綾辻の言葉を真に受けたつもりは無かった。
しかし、今倉橋は都内のホテルのツインの部屋で、シャワーを浴びている綾辻を待っている。

 「先にシャワー浴びさせてもらう。ゆっくり入るけど、逃げるなよ?」

 そう言ったわりに、綾辻は何の策も労していない。
部屋の鍵は掛かっていない。
拘束されているわけでもない。
それでも倉橋は窓際に立ったまま、眩しいくらいの夜景を見つめていた。
 「・・・・・いたか」
 どの位経ったのか・・・・・倉橋は不意に頬を撫でられ、ビクッと首を竦めた。
気付くと、窓ガラスにバスローブ姿の綾辻の姿が映っていた。
 「どうする?このままがいいか?俺は構わないが」
 「・・・・・シャワーを浴びてきます」
 「いってらっしゃい」
 何かに追い立てられるようにバスルームに入った倉橋は、その中が思ったよりも温まっていないことに気付いた。いや・・・・・。
(さっきの手も・・・・・)
頬に触れた綾辻の手は冷たくなっていた。シャワーを浴びてから随分時間が経っていたのだろう。
こんなところが、憎らしいほど優しい男なのだ。
 「・・・・・」
どのくらい自分を見つめていたのか・・・・・見つめられていたのか、倉橋は全く気付かなかった自分の鈍感さに思わず苦笑を洩
らしてしまった。
(逃げれたはずだ・・・・・)
それでもここに残った。
一歩踏み出して欲しいといった綾辻の言葉を馬鹿みたいに守ろうとしている自分が滑稽だった。
 「・・・・・」
 鏡に映っている自分の顔は、まるで初めてのことに不安がいっぱいな子供のようだ。
眼鏡を外すと、視界がぼんやりと揺れている。
逃げ出したい・・・・・そう思いながら、倉橋はシャツのボタンをゆっくり外し始めた。
(そういえば・・・・・こんなふうに自分から服を脱ぐことはなかったな・・・・・)
 性的に淡白な性質なのか、倉橋の私生活は驚くほど清らかだ。
時折どうしても断れない接待で女を抱くことはあったが、好きでもない相手と素肌を触れ合わせることはせず、何時も必要最
小限しか服を乱さない。
 「・・・・・綾辻さんは・・・・・」
 一度、女を抱く綾辻を見たことがある。
全裸とまでは行かないが、見た目以上に逞しい身体で相手を翻弄し、まるで恋人同士のように楽しそうに抱き合っていた。
あの腕が、今日は自分を抱きしめるのだろうか・・・・・。
 「・・・・・信じられないな」
 女を始めて抱いたのは、高校2年生の時だった。
何となく家に帰りたくなくて、ぼんやりと街中を歩いていたら声を掛けられた。
相手は多分OLで、初めてだという倉橋の代わりにすべての準備をしてくれた。
コンドームを着けるのも、挿入するのも女が主導で、倉橋は自分の上で動く女を冷めた目で見つめ、最後に生理的な刺激
で射精した。
容姿からストイックだと思われている自分は、単に感情が希薄なのだろうとずっと思っていた。
セックスぐらいで鼓動が高鳴ることなど、自分にはありえないと・・・・・。



 何を着ていいのか分からず、結局綾辻と同じようにバスローブをまとう。
その下にはもちろん下着はつけた。
 「・・・・・」
 薄暗く照明を落とした部屋の中、綾辻は窓際のベットに腰掛けていた。
(今から・・・・・)
今から身体を触れ合わせるのがあの男だと思うと、倉橋の心臓がトクンと大きく動いた気がする。
同性で、身長もさほど変わらない、そして同じ地位にいるあの男が、今から自分を組み敷くのだと思うと、このままここから逃げ
出したいような気分になった。
しかし、その前に気配を感じたのか、煙草を咥えたままの綾辻が振り向いた。
 「・・・・・」
バスローブ姿の倉橋を見て、その目が嬉しそうに笑んだのが分かった。
 「覚悟は出来たか?」
 「・・・・・出来ていません」
 「克己」
 「でも、全て綾辻さんが責任を取ってくれるんですよね?」
精一杯の倉橋の強がりに、綾辻はニヤッと笑う。
悪い男の笑みだった。