蒼の光   外伝




蒼の引力




23

                                                           ※ここでの『』の言葉は日本語です






 蒼は抱いている赤ん坊に顔を近づけた。
ミルクの匂いがする柔らかくて小さなその存在をもう一度確かめるように抱きしめると、蒼は目の前にいるコンティに用心深く赤ん坊
を返した。
 「こんど会う時は、すっごくおっきくなるだろーなー」
 「あまり成長しない間に、また遊びにいらしてくださいね?」
 「うん!こんどは干し肉の作り方をマスターして帰りたいし!」
 「マスタア?」
 コンティが不思議そうに自分の言葉を繰り返す。
蒼はハッとした。自分の中では、意味も使い方も周知のことである言葉だが、こちらの世界では使わないのだ。きちんと分かるよう
にして言い換えておいた方がいいだろう。
 「え・・・・・と、上手くできるように、べんきょーすること」
 「それならば、かなり長い滞在になるかもしれませんね。・・・・・どうなされます?」
 笑みを含んだコンティの眼差しは、蒼の後ろに立つ兄のシエンに向けられている。
 「いーよな?」
蒼が勉強したいということには積極的に協力してくれるシエンならば、きっと賛成して頷いてくれるはずだ。
そう思って蒼も振り返ったが、シエンはなぜか困ったような微笑を浮かべており、そのまま蒼が見つめていると、ゆっくり口を開いた。
 「その時は絶対に、私も同行させてもらいますよ」
 「シエンも?・・・・・うん、そのほーが楽しそうっ」
 どこに行くのにもシエンが一緒ならば楽しいだろうと蒼は直ぐに頷くが、シエンが自分の髪を撫でながら小さな声で言った言葉に
は気付くことが出来なかった。
 「出来れば、国の外には出したくないくらいなんですが」




 コンティへ別れの挨拶を告げると、シエンは蒼を連れて謁見の間へと向かった。
蒼には言ってはいないが、実は内々に、王から蒼だけを、しばらくこの国に滞在させてはどうだろうかという打診があったのだ。
(ソウがこの国に興味を持っているらしいからと、それらしいことを言っていたが・・・・・)

 「我が国はそちらとは縁戚関係。安心してお預けいただけたらよいが」

 メルキエ王国の王の言葉は一見もっともな響きを持っている。
バリハン王国の王女が嫁いでいるこの国で、そのバリハンの皇太子妃である人間を丁重にもてなすという言葉を、さすがにシエン
も頭から否定はしない。
それでも、王の蒼を見る目はどこか別の光を帯びていて、本当にシエンが蒼を残して先に帰国してしまうと、何時帰してくれるの
か、きっと分からないだろうと思った。
 だから、ではないが、そのことを蒼に告げる前に、シエンは王に対して謝意を示しながらも断りを入れた。
 「王、ご挨拶に参りました」
 「おお、シエン王子、《強星》殿」
 「・・・・・」
他の者はそうではないが、王だけは蒼を《強星》と呼ぶ。そのことに蒼が戸惑いを覚えているというのが表情で分かるはずなのに、
一向に止めようとはしないのだ。シエンは内心の不快さを笑みに隠して頭を下げた。
 「この度は大変お世話になりました」
 「本当にもう帰国するのか?もっとゆるりとしていけばいいものを」
 「私も、政務に携わっておりますので。長い間国をあけるわけにはまいりません」
 「それならば・・・・・」
 蒼だけでもと言いそうな王に、シエンは言葉を続けた。
 「我が妃も、まだ自国であるバリハンの政を勉励中ですので。機会がありましたらまた、私と共にこちらに伺わせていただきます」
シエンの毅然とした態度に、これ以上言っても無駄だと思ったのだろう。王は渋々ながら頷いた。
 「・・・・・シエン王子がそれ程におっしゃられるのなら仕方ない。《強星》殿、また必ずお越しくだされ」
 「は、はい、ありがとうございます」
シエンの後ろで、蒼も慌てて頭を下げて礼を言った。




(なんだか、ちょっと違う気もするんだけど)
 メルキエ王国に滞在中、蒼が世話になったと思うのはオルバーンやコンティ、そして、エルネストや召使い達だ。
王とは初日に会って以来、ほとんど顔を合わすことも無かったので、引き止められたということ自体が意外に思ってしまったが、どう
やらシエンが上手く断ってくれたようでホッとした。
 けしてこの国が嫌だというわけではなく、むしろまだ見たいと思う所も多くあるものの、それが王の許可を貰わなければいけないの
だとしたら・・・・・ちょっと、遠慮したい。
(なんだろ、あの目が嫌なのかなあ)
 値踏みするような、まるで物を見るような眼差し。あれを向けられている限り、蒼はメルキエの王を好きになれそうにはなかった。
 「出発は午後に?」
 「いいえ、その前に・・・・・」
シエンと王が話していると、ざわっと周りの空気が揺れた。
なんだろうと視線を向けた蒼は、開いた扉の向こうからエルネストが現れたのを見て、思わず顔を綻ばせて名前を叫んでしまった。
 「エルネスト!」
 ようやく覚えた名前は間違ってはいないらしく、エルネストの口元には僅かながら微笑が浮かんでいる。
その表情を見て周りの召使いや衛兵、そして王自身が驚いたように目を見張るものの、エルネスト以外に視線が向いていない蒼
は全く気付かなかった。
 「やはり、今日帰国するのか」
 「うん、お世話になりました、ありがとう」
 礼の言葉はきちんと言わなければと思って頭を下げた蒼に、エルネストはいいやと言葉を続けた。
 「礼を言わねばならないのは私の方だ」
 「え?」
 「ソウには、再び光を見せてもらえたからな」
 「光?」
(・・・・・あれ?でも、エルネストは目が見えてたよな?)
エルネストの言葉をそのままの意味に取り、全く見当違いのことを考えて首を傾げてしまった蒼を見てエルネストはさらに笑みを深く
すると、その眼差しをゆっくりとシエンへ向けた。




 結果的に、こうしてシエンがこの国に来国してくれたことには感謝しなければならないだろう。今、蒼に告げた通り、暗闇の中から
自分を連れ出してくれる存在を共に連れてきてくれたのだから。
 ただ、そう考えてしまえば、この目の前の存在はシエンのものだということを、改めて認識しなければならなかった。
 「世話になった」
 「エルネスト王子」
 「・・・・・私は、シエン王子、貴殿が羨ましい」
何がと言わなくても、シエンには分かったようだ。困ったような表情をするが、それに関しては否定してこない。
(絶対に、手放すことは無いのだろうな)
 たとえ、どこかの国が奪い去ったとしても、このシエンの熱い思いをすれば、乗り込んでいってそのまま奪い返してしまうだろう。
エルネストは考えた。今の自分に、そんなシエン以上の情熱はあるのだろうか・・・・・。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 「・・・・・今は、このまま見送ろう。だが、シエン王子、私はもう目覚めてしまった。もう一度何も見なかった頃には戻らないぞ」
 「覚悟をしておきましょう。しかし、私もこの光を手放すことなど考えていませんから」
 真っ直ぐに自分の目を見返してそう言うシエンの目は笑ってはいない。多分、自分も同じだろうが、それはけして嫌なものではな
いと感じる。
 「エルネスト」
 2人だけにしか通じない言葉を言い合った自分に、父が訝しげに声を掛けてきた。
数年ぶりに素顔を晒し、政にも取り組み始めた自分のここ数日の変化の意味を正確には分かっていないのだろうが、今はまだ王
であるこの父に逆らうことは出来ない。
 ただ、その座に自分が就くことは、そう遠くではないとも思う。
 「何でもありませんよ、父上」
今はまだ目の前にいる《強星》を手の内にすることは出来ないが、その真の光を感じることが出来た自分には、手に入れる資格が
あるだろう・・・・・エルネストはそう考えた。




 喧嘩をしているわけではなかったが、どこか緊張を孕んだシエンとエルネストの会話。
(今日でさよならなんだから、もっと笑って別れたいのに)
別れる時になってどうしてこんな雰囲気になるんだろう・・・・・そこまで考えた蒼は、ハッとあることに気が付いた。
 「シ、シエン」
 「ソウ?」
 「俺、ちょっとっ」
 今日で帰国するということは、別れるのはエルネスト達とだけではない。
自分達と同じ様にこの国に客として滞在していたセルジュとオルバーンとも、今日この場で別れなければならないのだ。まだきちん
とした挨拶をしていなかったことが気になって、蒼は目の前の王に頭を下げると、そのまま謁見の間を慌てて飛び出した。

 「あっ、セルジュたち、見なかった?」
 彼らの宿泊していた客間に訪ねて行ったが、既にそこは綺麗に掃除をされていて、彼らの気配は少しも残っていなかった。
見知らぬ王宮の中を走り回ることも出来ず、蒼は通りがかった召使いの少女に訊ねる。整った容貌に、面白い性格のセルジュ
は召使い達の中でも評判だったようで、少女は直ぐにああと答えてくれた。
 「セルジュ様でしたら、昨夜御発ちになりましたが」
 「ゆーべっ?」
 「はい。急用が出来たとかで、王とエルネスト王子には昨夜の内にご挨拶をされて、そのまま」
 「・・・・・そう、なんだ」
 昨夜、一緒に夕食をとっていた(蒼が大勢の方が美味しいからと、何時も彼らを誘っていた)時はそんな話はしていなかった。
ただ、もう一度蒼をアブドーランへ誘って、シエンがそれを断って・・・・・それでも笑って、またの機会にと言っていた。
(お礼も、さよならも、言ってないのに・・・・・)
 「ソウ」
 廊下に立ち尽くしていた蒼の肩を、誰かが優しく抱き寄せてくれる。
それが誰なのか、振り向いて見なくても分かっている蒼は、泣きそうになっているのをごまかすように、そのまま逞しい胸に顔を埋め
てしまった。




 「・・・・・もう、出発したって」
 「・・・・・そうですか」
 蒼の悲しみと寂しさを感じながら、シエンは強くその身体を抱きしめた。
蒼には伝えなかったが、昨夜遅く、既に蒼が眠りに着いた頃を見計らったかのようにセルジュが部屋を訪れ、今から発つということ
を伝えてきた。

 「・・・・・ソウに、挨拶もしないで?」
 「これでさよならのつもりはないからな」

(何かを、考えているんだろうが)
 今生の別れではないことを笑いながら告げたセルジュが何を考えているのかシエンには分からないが、一つだけ言えることは、今
回の旅で蒼に魅入られた者が増えたということだ。
(それでも、この手は離さないが・・・・・)
どんなに蒼を欲しがる者達が現れても、絶対にシエンは蒼を離さない。それだけは、神に誓って言えることだった。