あやかし奇談
第一章 物の怪の花嫁御寮
10
「弥炬・・・・・」
(本当に、須磨じゃないんだ・・・・・)
自分が真実を言えといったくせに、本当に違う名前を言われると、戸惑いと恐れが胸の中に生まれたのは本当だった。
ただ、やはり短期間とはいえ、一緒に勉強し、遊び、笑い合った須磨を直ぐに拒絶することは出来なくて、巴は思わずじっとそ
の顔を見つめてしまう。
口調も、表情も、何時もと変わらない。
この3人は狐、狐と言っているが、耳や尾なども見えない。
実際に空に浮いた姿を見ていなかったら、絶対に彼が人間ではないと信じられないくらい、目の前にいる同級生はごく普通の
人間だった。
「巴」
「あ・・・・・うん」
返事に詰まった巴に、須磨・・・・・いや、弥炬と名乗った男は苦笑を零す。
「俺が怖い?」
「・・・・・」
身を屈め、少しだけ眉を下げて声を掛けてくれる姿は何時もの須磨と変わらず、彼が弥炬という名前の人ではない生き物だっ
たとしても、とても恐怖だけを感じるとは言えなかった。
「・・・・・」
「・・・・・怖く、ない、けど」
「・・・・・」
「・・・・・ごめん、よく分からない」
今の自分の気持ちを端的に表せる言葉はそれしかない。
「怖いとは、思うけど・・・・・嫌だって・・・・・思えないよ」
どっちつかずの自分の気持ちが申し訳なくて、巴はもう一度ごめんと謝ってしまった。
素直な感情をそのまま伝えてくれたことが嬉しかった。
騙したなと、嘘吐きだと罵られ、人間では無いくせにと恐れられるのが普通だと思っていた。
しかし、弥炬が思っていた以上に巴は優しい性格で、一度心を許した者を簡単には切ることが出来ないらしい。それを狙っ
ていたわけではないが、思った以上の良い反応に、弥炬は笑いながら髪をかき上げた。
「巴に嫌われたらどうしようかと思った」
「あ、あの」
「ん?」
はるか昔から人間界で暮らす弥炬は、それこそ数え切れないほどの人間達を見てきたが、多分その誰もと巴は違うと感じて
いた。
退屈凌ぎで通い始めた人間界の学校で、偶然出会った甘い匂い。それが鍵だと直ぐに分かったものの、自ら手を出すなどと
は考えてもいなかった。
今の状況は多分に成り行きという要素が強く、煩い3匹の懸念は単なる邪推でしかなかったが、今はもうその邪推が的を得て
いると言える。
(こいつらに巴は勿体無い)
「須磨は、本当に・・・・・き、狐?」
そんなことを考えていた間も、巴はずっとその正体のことを気にしていたのか、恐々と訊ねてくる。小動物のようなビクビクとした
様子に笑いながら、まあなと弥炬は頷いた。
「尻尾、出してやろうか?」
「う、ううんっ、いい!」
「フサフサで気持ちいいぞ?」
「え・・・・・や、やっぱりいい!」
少し気持ちが動きかけたようだが、やはり現物を見るのはまだ怖いのだろう、首を左右に振る。可愛いなあと思いながらその肩
を抱き寄せようとした弥炬だったが、
「何、お前達だけで世界を作っているんだ」
そんな不機嫌丸出しの声に、可哀想に、巴は慌てたように自分の傍から飛び退く。
(・・・・・余計なことを)
弥炬は巴を現実へと強引に引き戻した声の主へと鋭い眼差しを向けた。
(こんな状況を招くとは思わなかったが・・・・・)
益荒雄は苦々しく頬を引き攣らせながら、怯えたように自分を見る巴に眼差しを向けた。
先程まで、巴は確かに弥炬に恐れと不信感を持っていたが、実際に言葉を交わせばそれまでの積み重ねてきた時間が物を言
い、気持ちは呆気なく変化をしてしまった。
移り気なのが人間なのだといえばそれまでだったが、自分達と巴の関係を考えれば、今の状況は非常に面白くない。
「巴」
「は、はい」
「・・・・・」
(狐には柔らかな声を返したというのに)
こんなにも誠意を込めて対する自分達にはその態度かと、さすがに益荒雄の口からは嫌味の言葉が零れてしまった。
「慧は巴のために意識を失ったというのに、そんな目に遭わせた相手と笑って話せるのかい?」
「そ・・・・・お、俺は、ただ・・・・・」
「このまま、慧の意識が戻らなかったらどうする?私達は人間とは違ってその生は長いけれど、それでも永遠の命を持っている
というわけではないんだ。知らなかった?」
「!」
その瞬間、巴はパッと八玖叉が抱きかかえている慧へと眼差しを向けた。
色白の肌は真っ青になり、唇もわなわなと震えていて、今の自分の言葉に巴が相当の衝撃を受けたことは分かったものの、益
荒雄は簡単に慰めの言葉を掛けてやる気は無かった。
夫である自分達よりも、いくら人間として付き合いがあったとはいえ狐の方へと気持ちを傾けようとした巴には、少々きつい言
葉も戒めとして投げつけねばならないと思ったからだ。
「巴」
「ご、ごめんなさい、俺、そんなつもりは・・・・・」
「では、どういうつもりでこの狐に縋った?大体、君が私達との約束通り、この鳥居を毎日くぐっていれば何の問題も無かった
ものを」
「・・・・・」
「巴」
「益荒雄」
更に言葉を継ごうとした益荒雄を止めたのは八玖叉だった。
「もうそれくらいでよかろう。巴も、このような状況になるとは思わなかったであろうし」
「・・・・・甘い、八玖叉。今回のことはこれからも考えられることだろう?」
たまたま今回は九尾の狐という強敵で、自分達にとっても意外な敵だったが、この先、巴の周りにはもっと色んな者が現れるか
もしれない。
それが人間であれ、妖怪であれ、巴が自分達以外の者の手を取ることだけは許せないのだ。
(少しきつい物言いになったとしても、巴にはしっかりと自覚をしてもらわないと、ね)
益荒雄の言葉は、針のように巴の全身を突き刺していく。
どうして自分がという理不尽さを感じるよりも、自分のために人間ではないとはいえ誰かの命が失われる危険があったということ
の方が怖かった。
「・・・・・っ」
巴は戸惑いながら、八玖叉の元へ歩み寄る。
「・・・・・」
彼が抱きとめている慧の顔を覗いてみれば、眉間に皺を寄せたまま目を閉じている。何時も激しい感情を映している赤い目は
見えないままだ。
「死・・・・・」
「死んではおらぬ」
「八玖叉さん」
「気を失っているだけだ。いずれ目を覚ますであろう」
「・・・・・」
(本当、に?)
何だか息もしていない様子だが、それでも単に気を失っているだけなのだろうか?
巴が動揺する気持ちのまま見ていると、八玖叉はその場に慧の身体を下ろし、額に指を当てて何事か念じている。
「・・・・・」
まるで、自分の気力を慧に送っているような感じがして、巴も思わずその手を握ったが、
「!」
その瞬間、パシッという静電気のような刺激の後、自分と慧の手が眩しいほどに光った。
「な、何?これ?」
八玖叉は直ぐ目の前で起こった現象に目を見張った。
(今の衝撃と光は・・・・・なんだ?)
気を失っている慧が何らかの力を発揮することは考えられず、もとより、鍵とはいえ普通の人間である巴が今の現象を引き起こ
したとは思えない。
いや。
(鍵だからこそ・・・・・か?)
ただの人間であるはずの巴に、何らかの潜在能力があるのだろうか?
「あ・・・・・っ」
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・目覚めたか」
見下ろす自分達の下で、慧がゆっくりと目を開いた。
始めはどこか不思議そうな表情をしていたが、直ぐに弥炬の姿を見つけて瞬時に戦闘態勢に入ろうと身体を動かそうとする。
しかし、その身体は華奢な腕一本で押さえられた。
「・・・・・離せ、巴」
自分の腕を掴んでいる巴に、慧が声を落としてそう言い放つ。
一瞬、ビクッと手を引きかけた様子が見てとれたが、巴は激しく首を横に振って、嫌ですと小さな声で抵抗した。
「何っ?」
「こ、これ以上、喧嘩しないで下さいっ」
「これは喧嘩じゃない、意地の問題だ」
「で、でもっ、止めてください!」
「巴!」
赤い目を煌かせ、恫喝するように慧は言うが、巴は強く目を閉じたまま慧の手を離そうとはしない。
もちろん、慧が少しでも力を入れれば振りほどけるくらいの力だろうが、気性の荒い慧も巴を乱暴に扱うことは出来ない様で、
チッと舌打ちを打った後、弥炬を睨みつけた。
「命拾いしたなっ、狐!」
多分にそれは強がりだろうが、八玖叉は今は引くべきだと思ったし、先程巴に厳しいことを言った益荒雄も同様の気持ちだろ
うと思った。
痺れるような痛みを受けて、情けないが気を失って・・・・・。
その真っ暗な意識の中、突然何かが・・・・・熱い衝撃を受けて目を覚ました。
目を覚ました時、自分の顔を覗き込んでいた狐の姿が目に入った途端、今度こそと思い、直ぐに攻撃を仕掛けようとしたが、
巴の小さな手が自分を捕まえて離さない。
「こ、これ以上、喧嘩しないで下さいっ」
「・・・・・っ」
これがただの喧嘩だと、巴の目には映っているのだろうか?そうではないと怒鳴っても、自分の声に確かに恐れを感じている様
子でも、巴の手は離れていかなかった。
「・・・・・」
(・・・・・温かい)
目覚める切っ掛けになった熱い衝撃とは違う、何か温かいものが身体の中へと注ぎ込まれている感じがする。まるで、巴が持
つ気、そのままの・・・・・。
癒されているという言葉が一番当てはまるかもしれない。
もっと、もっと、このまま巴の優しい気持ちを注いでもらいたくて、それでも、それを口にして言えば益荒雄や八玖叉が煩く言う
だろうと、慧はわざと怒ったように顔を背け、弥炬に向かって言い放つ。
「命拾いしたなっ、狐!」
それが、本当は弥炬ではなく自分に向けているとは、人一倍意地っ張りな慧は絶対にばらすつもりは無かった。
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