あやかし奇談
第一章 物の怪の花嫁御寮
16
自分を抱いている八玖叉の腕に僅かに力がこもったのが分かった。
いや、それだけではない。向けてくる眼差しの中に、何かを探るような色が濃く浮かんでいて、巴は自分が言ったことが彼にとっ
て意外なことだったということを思い知る。
それでも、ここでちゃんと聞いていなければ、流されるように彼らの花嫁にされかねないので、3人の中では一番話しやすい八
玖叉に思い切って訊ねた。
「今までも、俺みたいな鍵?の、人間が現れたんですよね?」
「・・・・・ああ」
「前、言ってたこと、俺、正確に覚えているのか自信ないけど・・・・・」
「百年に一度、物の怪の者の住む世界と、人間が住む世界を塞ぐ扉の鍵が朽ちる。何度かは、我らのように力のある物の
怪の力で鍵を修復することが出来るが、何時しか鍵自体の力も消えてしまう。その時、人間の中からその鍵になるべき者が選
ばれ、選ばれた物の怪の花嫁となるのだ」
以前、巴にそう言ったのも、確か八玖叉だったと思う。
忘れるほどの昔の出来事ではないのに、巴にとっては不思議な夢を見始めてから今日までが、もう何年も経っているかのように
思えた。
「か、鍵って、何をするんですか?」
「・・・・・」
「駄目になった鍵って、どうなるんですか?」
修復できる期間を考えても、それでも一つの鍵がその役目を終えるまでは数百年間ある。普通、人間の寿命は長くて100
歳、それも本当に長生きしてだ。
それなのに、数百年間も鍵の役割が出来るとは・・・・・。
(か、考えたくないけど、人間じゃなくなるって・・・・・こと?)
今、ここにこうして生きている自分という存在が無くなってしまうのではないだろうか・・・・・。巴は家族や友人達から取り残され
てしまうかもしれない自分がとても怖く感じていた。
「・・・・・」
いきなり、巴はこんなことを思いついたのだろうか。
今まで自分達に流されていた子供だが、こんなことを考えるということは、それだけ自分達との関係を真剣に考え始めたというこ
とだと言えなくもない。
(鍵の寿命か・・・・・)
これまでの鍵は、女が大半だった。
最初は巴のように、物の怪の花嫁となることを嘆き悲しんだが、人間以上に閨の技巧が巧みな物の怪に直ぐに身体から篭絡
され、その役割を受け入れてきたらしい。
物の怪の精を体の奥深くに受け入れた瞬間から、その時の流れは夫となる物の怪と同じになり、やがて鍵の役割を終えた時
は自ら物の怪になるか、寿命を尽きるかを選べるのだ。
「・・・・・」
「や、八玖叉さん?」
自分達にとって、何百年、何千年と生きることは特に意味のあることではない。だが、普通の人間である巴にとっては、それも
まだこんなにも幼い少年にとっては、その選択は何よりも重いものではないだろうか。
「巴」
「は、はい」
「我は、お前を生涯慈しむと誓える」
「え?」
「お前が不安など感じないよう、鍵であるという意識さえ感じないよう、深く愛し、守ることが出来る。その答えだけでは分から
ぬか?」
「・・・・・」
巴の幼い顔に、どうしようという逡巡する様子が見える。質問の答えのようでいて、まるっきり答えていないことを感じ取っている
のだろう。
それでも、正直に鍵の寿命のことを伝えれば、巴の拒絶はますます大きくなってしまうのは確実だ。それだけのことを今、自分
だけの判断で決めても良いものかどうか、八玖叉は視線を彷徨わせている巴の顔をじっと見ながら考えていた。
すると、
《遅い》
苛立ったような声が聞こえた。
それは、八玖叉にだけ聞こえる声だ。
《早く巴を連れて来てくれないかな。これ以上遅くなるようだったら迎えに行くけど》
「断る」
「え?」
急に硬い声音で言った八玖叉に、この声が聞こえていなかった巴は戸惑ったようだ。
「あ奴らが煩い」
「あ、あ奴らって、慧さんと、益荒雄さん?」
「あの2人など呼び捨てで十分。・・・・・巴、今の話は我の判断だけで答えることが出来ぬ話。腹立たしいが、あ奴らもお前
の花婿だからな。皆が揃った時点で、改めて話そう」
「・・・・・そうなんですか・・・・・」
明らかに残念そうに目を伏せた巴の頬に唇を寄せると、八玖叉は煩く喚いている残る仲間のもとへと足を進めた。
(八玖叉さん以外の2人が、ちゃんと話してくれるのか?)
粗野で、荒々しく、何時も怒っているような印象の強い慧と。
物腰は柔らかいものの、何かを企んでいるかのように目が笑っていない益荒雄と。
あの2人を前にして、八玖叉に言ったように話せるかどうかは不安でたまらなかった。
それに・・・・・。
(簡単には言えないってことは・・・・・す、すごく、怖いことだったりして・・・・・)
そもそも、人間ではない相手と、それもどう見ても男である彼らの花嫁だと言われること自体怖いことなのだが、それ以上に何
かあるのかと思ってしまう。
「巴!」
間もなく、鳥居の一番奥、社の前まで着くと、2人の男が待っていた。
八玖叉が腕から下ろすのが待てなかったのか、まるで奪うようにして巴の身体を攫った慧が、赤く光る瞳でじっと顔を見つめてき
た。
「よく来たな」
「け、慧さん、あの・・・・・」
「黙れ。先ずはお前の唇を味わうことが先だ」
「ふむっ」
言葉と同時に重なってきた唇。引き結んでいたのに強引に割り込んできた舌が、傍若無人に巴の口腔内を貪ってくる。
先に八玖叉がキスをしたことは知っているのだろうが、その八玖叉の痕跡を全て消し去るかのように唾液の一滴までもすすり上
げて、巴が息苦しさに身体を捩った時、ようやく唇を離してくれた。
「はあっ、はあっ」
「何をしているんだ、慧。巴が可哀想だろう」
「じゃあ、お前はしないのか?」
「まさか、お前達だけが味わって、私だけがお預けなんて・・・・・優しい巴はそんなことをしないよね?」
「・・・・・っ」
「ほら」
益荒雄が笑いながら手を差し出すと、再度慧は巴の身体を強く抱きしめてから渋々とその身体を益荒雄に渡す。
自分の意志を全く反映してくれていないと思いながらも、巴は近付く蒼い目を見てギュッと目を閉じてしまった。
思う存分巴の口腔内を味わった益荒雄は、そっと巴の身体を地面に下ろしてやった。
立て続けの口付けに、巴の足は一瞬ふらついてしまったが、それでも何とか踏ん張るように立つと、自分の顔をチラッと見つめて
きた。
(ん?)
何か言いたいことがあるような様子に、益荒雄は今日一番初めに巴に会った八玖叉に視線を向ける。
八玖叉はその益荒雄の視線に気付いたはずだったが、なぜか眉間に皺を寄せたまま(何時もそんな表情ではあるが)何も言
わない。
(・・・・・ずるいねえ、八玖叉は)
性格的なこともあるだろうが、巴は自分達の中では一番八玖叉に心を開いている。
多分、八玖叉に何かを言ったのだろうということも想像出来たが、多少の意地悪として、益荒雄は巴から切り出すまで自分か
らは何も訊ねないと思った。
「・・・・・」
「・・・・・」
視線を向ければ何か聞いてくれるのではないかと思っていたらしい巴は、一向に話を切り出さない自分の態度にどうしようかと
迷っているようだ。後もう少し・・・・・そう思っていたが、
「巴、なぜ益荒雄ばかり見ている?」
「・・・・・」
(あ〜あ、何をしているんだか・・・・・)
自分と巴の無言の駆け引きに全く気付いていなかったのか、慧が怒ったようにそう言いながら巴の腕を掴んだ。
直情型である慧の行動には諦めしか湧かないが、今は出来ればもう少し待っていて欲しかったと思ってしまう。
「俺には言えないことかっ?」
「そ、そんなことないです」
「じゃあ、俺に話せ。益荒雄は屁理屈ばかり捏ねるが、俺はお前の言葉に真っ直ぐに答えてやるぞ」
(ただ、何も考えていないだけだろう)
益荒雄は溜め息混じりに口の中でそう呟いた。
「じゃあ、俺に話せ。益荒雄は屁理屈ばかり捏ねるが、俺はお前の言葉に真っ直ぐに答えてやるぞ」
「・・・・・」
慧がそう言うと、巴の眼差しが益荒雄から自分へと向けられた。黒く、澄んだ瞳。巴の魂の清らかさそのものを写しているその
目で見つめられると、慧は身体の奥が熱くなるのを感じる。
(巴といると、俺にも感情というものが生まれる)
妖力が強い者しか人型にはなれない物の怪。
人間の女と体を重ねることが出来るほどに自分達3人は人間に近いが、それはあくまでも近いというだけであって、人そのものに
なれるわけではなかった。
もちろん、何の力も無い、寿命も儚い人間になりたいなどと思ったことなど今まで無かったが、新しい鍵である巴が生まれ、そ
の成長を見守っていた間に、巴のことをもっと知りたくなった。
弱い人間だというのに、その存在が愛しくなった。
花嫁にしてしまえば、巴もいずれ自分達と同じ物の怪になれるだろうが、本当にそれでいいのか・・・・・柄にも無くそんなことを
思ってしまうほどに、人間である巴を・・・・・。
「慧さん、聞いてもいいですか?」
「ああ」
しばらくして、巴は何かを決めたかのように顔を上げた。
「さっき、八玖叉さんにも聞いたんですけど、ちゃんと答えてもらえなくて・・・・・」
「八玖叉?駄目だ、あいつは、ジジイだし」
自分よりも先に八玖叉に大切なことを言ったというのは面白くないが、自分達の中で一番用心深い(単に頭が固いだけだが)
八玖叉は何も答えられなかったようだ。
いったいどんな質問なのかを考える前に、その事実だけを聞くだけでも嬉しい気がする。
(巴の気持ちを一番に理解出来るのは俺だ)
「そ、そんなことはないですけど・・・・・」
優しい巴は八玖叉のことを気にして視線を向けるが、そんな視線も勿体無いと、慧は掴んでいた巴の腕を、更に強く引いて自
分に振り向かせた。
「ほら、何を聞きたい、言え」
「・・・・・・」
「巴」
「か、鍵のことですっ」
「・・・・・鍵?」
「皆さんが言っていた鍵のことです。それと、俺の未来っていうか・・・・・もしも、鍵になったら、俺はどうなるんだろうって」
「・・・・・」
慧は八玖叉を見た。八玖叉が答えられなかったことが分かったからだ。
(今まで怖がっていたくせに、いきなりきたな)
逃げることばかり考えていた様子の巴が、どうして鍵の意味を知ろうと思ったのか。本当に自分達の花嫁になる覚悟を決めてく
れるつもりなのかと、慧は真っ直ぐに自分を見つめる巴にふっと笑い掛けた。
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