BLIND LOVE
6
『』の中は日本語です。
翌朝、友春が目覚めた時には既にアレッシオの姿は無かった。
「アレッシオ様は今日の夕方までスケジュールが詰まっています。ですが、ヴェネツィアまでは自家用ジェットを飛ばされるので時間
を気にされることはありませんよ。ここからヴェネツィアは直ぐです」
「・・・・・仕事」
「ヴェネツィア行きも突然お決めになられたことですから。お立場上、簡単にキャンセル出来ないものもありまして」
香田の言葉は柔らかいものだが、それ程アレッシオが日々多忙だということはよく分かる。仕事の相手でもない、ただの学生であ
る自分は、本来彼の邪魔にしかならない存在だろう。
『友春様』
ベッドの上、なかなか起き上がることの出来ない友春に、香田は日本語で話し掛けてくれた。
『アレッシオ様にとっては、あなたが傍にいてくださることが心の安らぎなのです。それは、とても金銭には変えられないものなのです
よ?遠慮をして、あの方を避けられたりしたら、それこそ精神衛生上良くない』
直ぐにでもあなたを攫いに日本に行ってしまうでしょうという言葉は、少し大げさなような気がするが。
『さあ、ヴェネツィア行きの仕度をしましょうか。今回はアレッシオ様も仮装をなさりたいとおっしゃられたので、私も何だか楽しいで
すよ』
『・・・・・仮装?』
『アレッシオ様にお聞きになられませんでしたか?ヴェネツィアのカルネヴァーレは全くの無礼講。身分のある者もそうでない者も、
皆仮面を付けて一時の恋を楽しむ・・・・・そんなふうに言われています』
『こ、恋、ですか?』
『もちろん、友春様は誘惑される方は決まっていますが』
『・・・・・っ』
微笑む香田に何と返事をしていいのか分からず、友春は俯いた。
しかし、ただ祭りを見て楽しむだけかと思っていたものに、自分達も参加をするとなるとどうすればいいのだろうか?
(いくら顔が分からないっていっても、恥ずかしいし・・・・・)
何とかアレッシオに許してもらえないかと、友春は今からソワソワと考えていた。
市内にあるオフィスビルの一つ。
社長室の重厚な革張りの椅子に腰掛けていたアレッシオは、入口の扉の前に立つバウジーニ親子に冷酷な眼差しを向けた。
昨日の今日でここまで来る腰の軽さには感心するものの、それで自分が、いや、友春が感じた不快感を払拭することはとても出
来ない。
「ドン・カッサーノ、夕べは大変申し訳ありませんでした」
「申し訳ありませんっ」
部屋を訪れてから、ずっと同じ言葉を繰り返している2人に、アレッシオは組んでいた指を解いて軽く机を叩いた。
「生憎、私はまだ耳が良い。一度言えば聞こえている」
「・・・・・」
「それで?謝罪は分かった、次に言うことは無いのか?」
いい加減話を先に進めるようにと言えば、バウジーニは息子を振り返り、青白い顔色のまま小さな声で言う。
「あの後、直ぐにモニカに婚約解消を申し出たのですが・・・・・」
「拒否をされたか」
「・・・・・はい」
それは十分予想出来たことだった。
あの手の女は、一度手に入れかけた権力をそう簡単には手放そうとはしない。特に、あの女はエンリコの向こうにアレッシオを見て
いる。
(虚栄心の強い女には、マフィアという名前も恐怖にはならないか)
アレッシオはエンリコに訊ねた。
「あの女とはどうやって知り合った」
「パ、パーティーで・・・・・」
「何時」
「さ、三か月前です」
「・・・・・」
「彼女の方から話し掛けてきて、あの、その日に・・・・・酒に酔って・・・・・」
「嵌められたのか」
あまりにも情けない。酔った男をベットに引きずり込み、関係を持ったと思わせるなど、商売女でもやらないことだ。
さすがに婚約をする時、バウジーニも女の身辺を調べたはずだが、家柄はそれなりのものだったとしても、性格までは分からなかっ
たのだろう。
「家は何をしている」
「宝石商です」
「・・・・・」
アレッシオは直ぐにデスクの上の電話を鳴らして人を呼ぶ。
間もなくやってきたのは、アレッシオの実業家としての顔を持つ時の秘書、マウロ・ラニエリだ。
ウエーブの強い黒髪と、灰色がかった青い瞳を持つ、典型的なイタリア人の彫りの深い容貌をしたこの男は、もちろんアレッシオが
マフィアの首領ということは知っている。
しかし、それ以上に実業家としてのアレッシオの能力の方に興味があるらしい。アレッシオも、陽気で自分に対してはっきりともの
を言うマウロのことを重用していた。
「ナンニという宝石商を知っているか?」
「ナンニ?・・・・・ルチアーノ・ナンニですか?先月、取引を申し込んできましたが」
やはりと思った。
アレッシオの秘書であるマウロの所まで話が上がってくるということは、そこまでくるのにある程度のコネクションを使っているはずだ。
それがバウジーニの名前ではないと言えるだろうか?
出会ったのが三か月前だとしたら、その行動はかなり早い。よほどエンリコは扱いやすい男と思われたのだろう。
「答えは?」
「保留です。上がってきた事業計画書に粗が結構ありましたしね」
「分かった、直ぐに相手を呼んで条件面を詰めるんだ」
「取引されるんですか?」
用心深いアレッシオらしくないと思ったのか、マウロは大げさに肩を竦めて見せる。もちろん、切り捨てろと言った女の家と取引など
するつもりはない。
「相手の仕入れのルートを聞きだして押さえろ。商売をさせないように」
「・・・・・」
マウロは、部屋の中にいるバウジーニ親子に視線を向け、納得したように頷いた。
「事情があるようですね。分かりました」
多くを聞かずに、全てを悟る。
デキる人間しか側に置いていないアレッシオにとっては、それもごく当たり前の部下の行動だった。
旅行の準備はほとんど香田がしてくれた。
友春がしたことといえば、あまりにも多くなってしまう服の数を何とか減らしてくれと頼んだことくらいだ。
「アレッシオ様は後30分ほどでお着きになるそうです」
時刻は午後5時。帰ってきたアレッシオが旅支度を済ませる時間を考えれば、屋敷を出るのは7時を過ぎてしまうだろう。いくら
自家用ジェットを飛ばすといっても、アレッシオにとって負担にならないだろうか?
「友春様」
「・・・・・アレッシオ、大変」
「アレッシオ様が?」
「今日でなくて、いいのに・・・・・」
無理に夜間、飛行機を飛ばさなくても、明日の午前中でもいいと思う。いや、飛行機ではなく汽車でもいいと友春は思ってい
るのだが、どうやら香田はあくまでもアレッシオの味方らしい。
「いくら同じイタリア国内といっても、アレッシオ様は友春様に長時間乗り物に乗せることをしたくないのですよ」
「・・・・・どうして?」
「あなたが疲れてしまうから」
あまりにも単純明快な答えだが、何だか一番アレッシオの気持ちを表しているようで、友春はじわじわと頬が熱くなってきた。
香田や屋敷の者は、当然自分とアレッシオの関係を知っているし、主人であるアレッシオの意図をくんで友春に侮蔑的な視線を
向けて来る者はいないが、こういう時にどんな顔をしていいのか分からない。
「アレッシオ様は、あなたにイタリアを、自分がお住みになっているこのシチリアを好きになってもらいたいのですよ。ですから、少しの
負担も掛けさせたくない。車や汽車で移動すれば、慣れないあなたは疲れてしまうのは目に見えていますから」
「・・・・・」
「それに、プライベートジェットなら、あなたと2人きりでゆっくり出来るでしょう?」
「こ、香田さんっ」
「可愛らしいと思いませんか?」
あのアレッシオを可愛いと言える豪胆な人間は香田ぐらいだろう。
友春は頷くことも首を横に振ることも出来ず、誤魔化すように出してもらった紅茶を口にした。
アレッシオが帰宅したという報告に、友春も他の使用人達と並んで出迎えるために玄関ホールへと向かう。本来は外で待つのだ
ろうが、風邪を引いたらいけないと言われ、温かな家の中で香田と共に並んで立った。
「お帰りなさいませ」
車が停まる音がして、外にいる使用人達がいっせいに挨拶をする声が聞こえる。
やがて時間を置くことなく玄関扉が開かれ、コートを着たままのアレッシオが護衛と共に姿を現した。
「ただいま」
その瞬間、柔らかな笑みを浮かべて自分を真っ直ぐに見たアレッシオが言う。
「お、お帰りなさい」
「変わったことは?」
「ない、です」
「ナツ、準備は」
「全て整っております」
自分に対する態度と、その他の人間に対する態度。アレッシオのそれはとても明白だ。
当初は笑みを浮かべるアレッシオの姿に使用人達は驚愕していたものの、今ではそれが当たり前だと思っているらしい。アレッシオ
にとって、友春は本当に特別な存在だと・・・・・。
(な、何か、困るけど・・・・・)
「トモ」
「は、はい」
「三日間時間を取った。ゆっくりとカルネヴァーレを楽しもうか」
「・・・・・でも、仕事、いいですか?」
「お前以上に大切なものはない」
そう言いながら、アレッシオは友春の前に歩み寄り、軽く頬に口付けをしてきた。外国では珍しくない、ただの挨拶だと毎回自分
に言いきかせるものの、日本人の友春の感覚では気恥ずかしさは消えないままだ。
「・・・・・っ」
(ま、周り、見られてるよっ)
あからさまに自分達に視線を向けて来る者はいないが、アレッシオがこの場から立ち去らなければ使用人達も動くことが出来な
いはずだ。
友春は自分の背に回ってこようとしているアレッシオの手を気にしながら、何とか自分の方からコートへと手を伸ばした。
「コ、コート」
「・・・・・」
「少し、休んで」
予定では直ぐに屋敷を出発するとなっているが、疲れて帰ってきた彼には少しでも休んで欲しい。
そんな友春の気持ちを少ない語彙から読み取ってくれたのか、アレッシオは目を細めると背中を向ける。友春がコートを脱がせや
すいようにしてくれたのだ。
「毎日、トモにこうして出迎えてもらったら嬉しい」
「ケイ・・・・・」
「もちろん、今いる間だけでも」
静かに話すアレッシオの言葉は、友春の胸に響く。
それでもどう答えていいのか分からないまま、友春はアレッシオのコートを脱がせた。
香田に準備をしたものを聞いたアレッシオは満足して頷く。やはりこの男に任せて正解だ。
「トモの様子は?」
「午前中は少し辛そうにも見えましたが、今日は1日静かに過ごされていましたので大丈夫です」
「昨日のことは何か言っていたか?」
「いいえ、何もおっしゃっていません」
その答えにアレッシオは頷いた。
夕べのパーティーで友春が不快感を感じたことは確かだろうが、どうやらそれは今日まで持ちこしてはいないらしい。早々にあの女
の存在を切り捨てて屋敷を辞したことは正解だったようだ。
(それに、今回のヴェネツィア行きも良かったか)
「トモにも言ったが、三日間スケジュールを空けている。その間、仕事に関しての連絡は一切取り次がないように。緊急の場合は
マウロに処理をさせてくれ」
「大丈夫ですか?あの人で」
「仕事面に関してはデキる男だ」
私生活は別だがと付け加えると、香田は僅かに眉を顰めた。
「・・・・・承知致しました。デキるだけそんな連絡が来ないように願っています」
「お前はマウロが苦手のようだな」
「私の常識内に住んでいらっしゃらない方なので」
「単純で扱いやすいぞ」
「馬鹿は嫌いなんです」
身も蓋もない言い様だが、香田が本当にマウロを馬鹿だと思っていないのは分かっている。公私、それぞれの自分の補佐が友好
な関係を築いているのが理想的だが、特に問題が無ければビジネスライクな関係でも構わない。
要は、自分にとってそれぞれが100パーセントの実力を発揮してくれたらいいのだ。
「30分後に出る」
「では、空港の方にも連絡を・・・・・」
「それはマウロにさせた。お前はトモの仕度を手伝ってやってくれ」
「はい」
一礼して部屋を出て行く香田を見送った後、アレッシオは今着ているスーツを脱ぐ。
今からは友春とのプライベートな時間だ。仕事で身にまとっていたものは全て・・・・・時計も、ネクタイピンも、それこそ下着まで替
えたい。
「シャワーを浴びるか」
友春に見られたら風邪を引くと怒られるかもしれないと思うと、自然に頬には笑みが浮かぶ。アレッシオは上機嫌のまま、シャワー
ルームへと足を向けた。
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