BLIND LOVE
9
『』の中は日本語です。
まさか、女がこんな所にいるとはさすがのアレッシオも予想していなかった。
ただ単にバカンスを楽しみに来たというには、その直前にバウジーニから婚約破棄を突きつけられている状態で、暢気にカルネヴァ
ーレに参加するとは思えない。
それならば、女はアレッシオの後を追ってきたということになる。
(誰が・・・・・エンリコ、か)
アレッシオのヴェネツィア行きが決まったのはほんの数日前だ。知っているのもごく限られた者達だけで、アレッシオの信頼に足る者
達ばかりだった。
ただ、先日、オフィスに詫びに訪れたバウジーニ親子は、そこでアレッシオの予定を知ることは理屈としては可能だったはずで、まだ
この女に未練があるらしいエンリコがその情報を流すのも・・・・・想像が出来る。
全てはアレッシオの想像でしかないがそれは事実に違いない。深い口付けから友春を解放したアレッシオは、それでもその身体
をしっかりと抱きしめたまま女・・・・・モニカに視線を向けた。
「・・・・・」
目の前で行われた濃厚な口付けを前に、モニカの顔は嫉妬で青白く歪んでいた。多分、今自分の腕の中にいる友春を、あの
夜パーティーに同行した青年とは気付いてもいないだろう。それはそれで都合がいいが。
「・・・・・誰ですか、その人」
「お前に答える義務はない」
「あなたに恋する女の権利です!」
「・・・・・エンリコとの婚約はどうした」
アレッシオは僅かに口元を緩めた。この女が何と答えるのか、少しだけ興味がある。
「あんな腰抜けっ、あなたのファミリーの一員とも思えない!」
「その男に、私の旅程を聞いたのだろう」
「何も言わなくてもっ、ペラペラ話しましたわ!私のことを諦めきれないようでっ」
モニカは仮面を取った。美しく化粧をしている顔をアレッシオによく見えるように顔を上げ、自分の価値を見せ付けるようにモニカは
鮮やかに笑う。
それほどに自分は値打ちのある女なのだとアレッシオに気付いて欲しいとでも言っているようだ。
その時点で女としての価値が下がっていることに気付かないのかと、アレッシオは内心の溜め息を押し殺した。この手の女にはど
んな反応であれ見せない方がいい。
「私の個人情報を漏洩したエンリコにはそれなりの処罰を考える。お前も・・・・・二度と私の前に顔を見せるな」
「ア、アレッシオ様!」
「・・・・・」
「こ、こんな大勢の中で、私達出会ったんです!運命以外の何ものでもないでしょうっ?」
「・・・・・その運命が、お前にとって後悔するものでなければいいがな」
そう言って、アレッシオは眼差しを動かした。
それを合図として、数名の仮面を付けた男達が一瞬でモニカを拘束した。
「・・・・・」
手を縛り、口を塞ぐと同時に、腹に拳を入れる。鮮やかなその手腕にモニカはその場に蹲りかけたが、その身体を支え、1人が着
ていたマントに包み、肩に担いでその場から立ち去った。
その間、数十秒と経っていない。自分達の周りの者も、揉めているらしいことには気付いただろうが、女が1人連れ攫われたことは
分からなかっただろう。
周りの歓声や歌声は更に響く。
アレッシオは腕の中に抱きしめていた友春の頬に手をやり、トモと穏やかに声を掛けた。
「・・・・・その運命が、お前にとって後悔するものでなければいいがな」
アレッシオの凍えるほどに冷たい声が頭上から聞こえ、友春はますます強くその胸に顔を押し付けながらじっとしていた。
目を閉じていたので周りで何が行われているのか分からない。彼女の更なる抗議の声が聞こえてくるかと思ったがそれもなく、しば
らくして耳に届いたのは、優しいアレッシオの声だった。
「トモ」
「・・・・・」
「顔を上げてくれ」
「・・・・・っ」
アレッシオはそう言うものの、顔を上げてあの女性と視線が合うのが怖い。どんな言葉をぶつけられても、それに自分が耐えられ
るとは思えないと、友春はますますマントを掴む手に力を込めるが、アレッシオはその手に大きな手を重ねて更に続けて言った。
「お前が恐れることはない。トモ、顔を見せてくれ」
「・・・・・」
「トモ」
暴君ではあるが、アレッシオは嘘は言わない。
友春は何とか顔を上げたが、その眼差しは下に向けたままでいた。
「・・・・・」
頭上では、呆れたような溜め息が聞こえる。自分の頑なさにアレッシオが呆れたのだと思った友春は、どうしようかと顔を上げようと
したが、
「あ・・・・・っ」
アレッシオのシャツに、自分の口紅が付いてしまっているのが見えた。アレッシオの胸に強く抱きしめられた時に付いてしまったのだ
ろう。
「ケ、ケイ!」
それまで頑なに顔を上げなかった友春がいきなり名前を呼んだので、アレッシオも驚いたようだ。
直ぐにどうしたと訊ねてきたので、友春はごめんなさいと深く頭を下げた。
「口、ついた・・・・・っ」
「口?」
習った語彙の中に口紅という言葉はなかったので、焦りながらも一番近い言葉を言って、アレッシオの胸を指差し、それにアレッシ
オは視線を向けたが、やがて、なぜだか楽しそうに笑い始めた。
「ケ・・・・・イ?」
てっきり怒られると思ったのに、仮面の向こうのアレッシオの目は嬉しそうに綻んでいる。先ほどまでの、こちらまで恐怖を感じてし
まいそうな冷酷さをいっさい消したその笑みや笑い声に、友春は戸惑いと同時に妙な感情の高まりを覚えてしまう。
(ぼ、僕、どうしたんだろ・・・・・)
誤魔化すようにアレッシオから視線を逸らせば、多くの人混みの中、アレッシオにキスをしたあの女性の姿が無くなっていることによ
うやく気付いた。
(トモのキスマークか)
所有の証のようなキスマークがシャツに付けられても、それが友春のものならばもちろん歓迎だ。
元々友春の頭を胸に押し付けたのは自分であるし、その時に友春が化粧をしているかどうかなど全く頭の中に無かった。
「トモのキスマークなら光栄だ」
「キ、キス?」
「悪かった」
そのまま言葉を続けようとしたアレッシオは、友春に分かるように日本語に変える。
『悪かったな、私が不甲斐無いせいで、お前に不快な思いをさせてしまった。今後は絶対に今回のようなことはないようにする』
『ケイのせいなんて・・・・・そんなふうに、思ってないです。本当なら、僕なんかより、あの人の方がケイの側には相応しいのに、変
に動揺してしまって・・・・・』
『トモ』
『ご、ごめんなさいっ、僕、変なこと言ってる・・・・・っ』
自分の言葉に動揺し、後悔している友春。もっと素直になってしまえばいいのにと、アレッシオはその俯く横顔を見ながら思う。
友春はあの女に嫉妬した。女であること・・・・・それだけを武器にしているような知性のない女に、自分を取られるかもしれないと
思って嫉妬し、そんな自分を恥じているのだ。
(私の側には、お前だけがいればいい)
どんなに美しい女も。
賢く、気品に満ちた女でも。
アレッシオにとって愛する対象は友春だけだ。それを、当の本人だけが、いまだ頑なに受け入れようとしない。
『・・・・・せっかくのカルネヴァーレだ。トモ、私と一緒に楽しんでくれ』
『ケイ・・・・・』
『眩しいほどの生に溢れているこの町を、お前の目に焼き付けて欲しい』
アレッシオに手を引かれるまま、友春はヴェネツィアの町を歩いた。
夜が更けるにつれて人出は多くなり、人々の歓喜の声が響き渡る。
(凄い・・・・・)
仮面を付けているという安心感からか、そこかしこで男女は抱擁し、キスをして、また新しい恋を見つけるようにと踊りながら行き
交っている。
「お嬢さん、他の男のキスはどう?」
「それ、日本の着物だね?とても似合ってるよ!」
「マダムバタフライみたいだ!」
どこを歩いていても、友春の着物姿は目立つようで、男からはもちろん、大柄な女性達にも可愛らしいと抱きつかれてしまう。
始めは緊張し、話し掛けられるたびにビクビクとアレッシオの腕にしがみ付いて隠れていた友春も、何時しか祭りの高揚感に麻痺
してしまったのか、
「あ、ありがとう」
そう言って、笑えるようになった。
(お祭りだから、みんなお世辞も言ってくれるんだろうし)
どんな相手も褒め、笑い合えば楽しいだろう。友春はそう意識を切り替え、自分だけが特別ではないのだと思うようにした。
そうして少し落ち着けば、今度はあのまま姿が見えなくなってしまった女性のことが気になる。いくら、アレッシオがマフィアの首領だと
しても、女性1人をどうにかするとは思えないが・・・・・。
「ケイ」
「どうした?」
友春が祭りを楽しみだしたことを感じてか、アレッシオの雰囲気も穏やかだ。そんな彼に向かって今言うことではないかもしれない
と一瞬頭の中を過ぎったか、友春はどうしても気になって思い切って聞いてみた。
「さっきの・・・・・」
「トモ」
「・・・・・」
(や、やっぱり聞いちゃ駄目なことなのかな)
即座に自分の言葉を遮ったアレッシオに、友春は今言った言葉を後悔する。
しかし、アレッシオは一瞬間を置いた後、握っている手の親指で友春の手の甲を宥めるように摩ると、お前が気にすることはないと
落ち着いた口調で答えてくれた。
「幾ら私でも、女に手を上げない。大人しくするようにと言いきかせるだけだ」
「・・・・・わかった」
友春は頷く。
これ以上この会話はしなくても良い。友春はアレッシオの言葉に納得しようと、自分の頭の中からその姿を消そうと思った。
赤い振袖を着ている友春は、鮮やかな色彩の海を泳ぐ艶やかな魚だ。
本人は目立たないようにとしているつもりらしいが、周りの西洋的な扮装とは違って着物は目立ち、また、着ている友春の繊細な
容貌も頬から首筋に掛けて見える部分だけでも分かるので、食指が動く男達も多いのだろう。
それと同時に、アレッシオも女達の熱い視線を向けられている。背負っている背景がなくとも、男の魅力を感じているのか、すぐ
側に恋人のように寄り添っている友春の姿があっても大胆にモーションを掛けてくる。
自国の女の積極的な行動を否定する気はないが、アレッシオには必要のないもので、誘いを掛けられるたびに友春の頬に唇を
寄せて態度で断った。
「・・・・・」
「疲れたか?」
一向に途切れない人波の中、友春の溜め息に反応すると、少しだけと答えて来た。
「足、痛い」
「・・・・・」
友春は当然足袋に草履姿だ。いくら普段から着物に馴染みがあると言っても、これほどに長い距離を歩き続けるのは大変だった
だろう。
「大丈夫か?」
アレッシオはそのまま友春の身体を抱き上げようとしたが、
「い、いいですっ、キモノ、重い!」
「・・・・・ああ、そうか」
何時もの友春の身体を抱き上げるのとは違い、今日は着物を着ている。優美な外見のそれが意外にも重いことは知っているの
で、友春が止めなければ無様にその場に膝を付いていたかもしれない。
「・・・・・」
相当、情けない表情をしていたのか、友春が笑い掛けて大丈夫ですと言ってくれた。
アレッシオが自分とは比較にならないほどに力があることは知っているが、それでも振袖を着た男の自分を抱き上げるのは無理
だろう。いや、無理ではないかもしれないが、この大勢いる人の中で、何時も以上に体力を使ってしまうに違いない。
自分の言葉に、ようやく今の状況を悟ったらしいアレッシオが、珍しく困ったような様子になったのを見て取って、友春は何だか可
愛いと思ってしまった。
自分が出来ないことを子供のように悔しがっているのを感じたからだ。
「だいじょぶ、私、歩ける」
足は痛いが、もう少しこの雰囲気を楽しみたかった。
「もう少し、いたい」
「大丈夫なのか?」
「・・・・・手、つないでるから」
しっかりと握り合った手を頼りに、まだもう少し歩ける。
「・・・・・では、今来た道を引き返そうか」
「え・・・・・」
「大丈夫だ。同じ道程でも、来た時とはまた違うはずだ」
そのままホテルに戻ろうと言われたら、足の限界も考えると頷くしかなかった。とにかくこのカルネヴァーレの夜は、自分の足で歩く
しか移動手段はない。
「ケイ、お願い」
「もちろんだ」
アレッシオはしっかりと手を握り締めてくれ、そのまま持ち上げて唇を落とす。
いや、それだけではなかった。その手を引いて友春を胸の中に抱き寄せたアレッシオは、当然のように唇を重ねてくる。
「んっ」
仮面で顔が分からないとはいうものの、これだけ無数の人々の視線の中でキスをするのは恥ずかしくてたまらない。アレッシオの
胸を押し返そうとしたが、しっかりと拘束したそれは離れることはなく、ますますキスは濃厚なものになる。
「んんっ」
(・・・・・っ)
振袖を着ていて良かったかもしれない。少なくとも外見上は女に見えるだろうし、男女のキスならば怪しまれることはないかもし
れないと、友春は必死に自分の気持ちを誤魔化した。
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