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 ドアが開く音を聞き、静は読んでいた本から目を上げて立ち上がった。
そのままあてがわれた部屋を出て玄関に向かうと丁度江坂がコートを脱いでいるところだったので、静は手を伸ばしてそれを手
助けした。
 「ありがとうございます」
 「・・・・・いえ、お帰りなさい」
 「もしも、こんな時間まで私を待っていて下さっているとしたら、そんなことはしなくてもいいんですよ?あなたは学生だし、私も
今は忙しくて帰宅は遅くなると思うので、気を遣って起きているのはやめて下さい、いいですね?」
 「はい」
 素直に頷いた静に、江坂も穏やかに微笑みかけた。
 「でも、せっかく迎えてくださったんですから、お茶でも一緒に飲んでくださいませんか」
 「あ、じゃあ、俺が入れます」
 「いいですよ、火傷でもしたら大変だ」
 「・・・・・」
 「さあ、廊下は寒いでしょう。早くリビングに行きましょうか」



 静が江坂のマンションで一緒に暮らし始めてから2週間経った。
せめて4月、進級してからにという父の言葉に首を横に振ったのは静の方だった。

 「後になる方が嫌だし」

江坂と面会して、同居を了承してから数日後には、父の会社には多額の融資が決定した。株もいくらか戻ってきているようで、
とりあえずの経営危機は完全に脱したようだった。
 そんな風に直ぐに約束を守ってくれた江坂に応える為にも、静は正月を家族で過ごしてから直ぐ、江坂の暮らすマンションに
来た。

 「何も持ってこられなくていいんですよ。全て用意していますから」

既に静の為に用意されていた部屋には電化製品はおろか洋服も有り余るほど用意されており、

 「来て下さってありがとうございます」

そう、江坂の感謝の言葉に迎えられた。

 「ご自宅より狭くなって申し訳ないんですが・・・・・」

 その言葉に、静は首を振った。
高級マンションの1フロアーをぶち抜いたそこは、1つ1つの部屋がゆったりと大きく、とても2人だけで暮らすには申し訳ないほど
の広さがあった。
一軒家の自宅と比べるのもおかしいが、独身の1人暮らしにしてはとても贅沢な空間だ。
・・・・・そう、江坂はたった一人でここに住んでいると言った。



 「独身、なんですか?」
 「ええ、仕事が忙しくて」
 「でも、恋人とかいらっしゃるんでしょう?」
 「いいえ、いませんよ」

 江坂の家族に挨拶をしたいと言った静に、江坂は自分が独身であることを告げた。
恋人もいないと言うと、とても信じられないという風に見つめられたが、本当に今の自分にはそんな相手はいない。もちろん、性
欲処理の相手など数に入れようとも思わなかった。
 そう言うと静は驚いたようで、少しの間じっと切れ長の目で江坂を見つめた。
 「・・・・・江坂さん、モテそうなのに」
 「静さんはそう思って下さるんですか?嬉しいですね」
 「本当ですよ」
普段、あまり表情のない静が、少しだけ怒ったように眉を顰める。
(こんな顔も可愛い)
そんな静の違った面が見れて、江坂は嬉しそうに微笑んだ。
 「だから、あなたはのんびりと自由に過ごして下さい」
 「・・・・・でも、それでは申し訳ないです」
 「いいえ、私が望んで来て頂いたんですから」
 江坂は細心の注意を払って静に接した。
今だなぜ自分が請われたかということに疑問を持つ静に、必要以上の接触はしないようにした。
一応朝食は一緒にとるが、昼はもちろん、夜も午後10時、11時と、静が顔を合わせて気を使わないような時間に帰宅して
いた。
もちろん、公算はある。
案の定、変に生真面目な静は、本当に江坂の言葉通り何もしない自分が許せないようで、数日後には夜帰宅する江坂を
出迎えるようになっていた。
少しずつこちらに近付いてくる野生動物を慣らす様で、江坂は思いがけず楽しんでいる自分に気付いていた。
 「江坂さん」
 「はい?」
 「俺は、本当に何もしないでいいんですか?あなたにだけ負担を強いているように・・・・・申し訳ないです」
 「静さん・・・・・」
(ああ、本当に可愛い・・・・・)
 外見の冷たくクールな印象とはまるで正反対の、素直で真面目な性格の静。ただ見ているだけでは分からなかったそんな内
面も、知れば知るほど好ましかった。
多分、もう江坂の言葉を信じ始めている静を口先だけで丸め込むのは簡単だろうが、ここまで来て万が一の失敗の可能性も
打ち消すことは出来ない。
それに、出来るならば静の意思で自分の事を好きになってもらいたい。もちろん、その為の外堀は完全に埋めるつもりだが。
 「静さんが同じ場所にいるというだけで嬉しいんですよ」
 「・・・・・」
 「おかしいですか?」
 「・・・・・俺は、前に江坂さんと会ったことがあるんですか?」
 何を根拠にそう思ったのか、江坂は頬には笑みを浮かべたまま探るように聞いた。
 「・・・・・どうして?」
 「・・・・・普通、会ったこともない相手に対して、そんなに優しくなれないと思うから・・・・・」
 「ああ」
(そういうことか)
自分の計略を感じ取られたわけではないと分かり、江坂の笑みはますます深いものになった。
 「無条件で優しくしたいと思う相手というものもいるんですよ」
 「・・・・・」
 静の躊躇いが心地良い。
ほんの少しずつだが、自分の方に心が傾いてきているのが分かるからだ。
(せめて、私の正体が分かるまでは・・・・・)
 静には、まだ自分の本当の正体は話していない。
いや、会社の社長であることも事実は事実だが、もっと大きなものを背負っている・・・・・静とは全く縁がないであろうヤクザとい
う組織の、責任あるポジションに自分がいることを、今は当然ながら話すことは出来なかった。
幾ら嫌われていないとはいえ、『ヤクザ』という立場はやはり異質だ。
どんな事実を知られても心が揺らがないようにしなければならない・・・・・江坂はそう決意していた。



 江坂は優しかった。
時々不思議な問いかけのような言葉を言うが、静に何を無理強いするということもなく、ただ傍にいるだけでいいと何度も繰り
返し言われた。
 静自身、この生活はそんなに苦痛なものではない。
他人と暮らすという気遣いも、江坂がほとんどいないのでする必要がなく、部屋の一つ一つに自分の空気というものを感じ取
れるようになって、何時しか部屋に閉じこもるのではなく、日当たりの良いリビングにいることが多くなった。
 「お帰りなさい」
 「ただいま」
 そして、江坂を迎えることも日課のようになってきた。
いや、それぐらいしかさせてもらえないのだ。

 「料理?怪我をしたらどうするんですか」
 「掃除など、埃にまみれる必要はないですよ」

掃除も、洗濯も、食事も、全て江坂が手配した人間がやってくれる。
彼女達が来ている間は静は自室に閉じこもっていたが、何時しか自分のテリトリーに他人が入ってくるという違和感を感じ始め
ていた。
(ここは江坂さんの家なのに・・・・・)
自分が何を基準にしているのか、静は少し分からなくなっていた。



 そろそろ1つの罠を仕掛けようと思った。
江坂はワザと書類をリビングのソファに置いたままマンションを出ると、昼前にマンションに電話をした。
 「ああ、丁度良かった」
もちろん、静が授業がないのでマンションにいることは知っていた。
 「申し訳ないんですが、書類をそこに忘れて・・・・・ああ、それです。しかたない、取りに・・・・・え?いいですよ、せっかくのお休
みのところを・・・・・すみません、助かります」
 案の定、静は自分が持っていくと言った。
電話の向こうの静の様子を思い浮かべながら、江坂の頬には隠せない笑みが浮かぶが、口調の方は申し訳ないというふうに
丁寧に礼を言う。
 「では、今から言う所に持ってきて頂けますか?」
 言った住所を繰り返させ、間違いがないと分かってから電話を切った。
 「例の方に電話ですか?」
 「・・・・・」
 電話を切った途端、江坂の頬からは笑みが消えた。
 「立ち聞きか?」
 「たまたま・・・・・ですよ」
 ドアの影から姿を現わしたのは、ほっそりとした妖艶な男だった。
 「忘れろ」
 「ええ」
たまたま本部に来ていた、今は羽生会の幹部になっている小田切裕(おだぎり ゆたか)は、何時ものように喰えない笑みを口
元に浮かべたまま、更に言葉を続けた。
 「榊さんがぼやいていましたよ。最近、あなたのスケジュールが取れないって。ほとんど日曜は休みを取っているらしいですね、
今までは仕事の鬼だったのに」
 「・・・・・お前にそんなことを言ったのか?」
 「怒らないであげてくださいよ。酒の上の愚痴なんですから」
 「・・・・・」
 江坂は眉を顰めた。
(・・・・・なんのつもりだ・・・・・)
本部にいた頃から、小田切はどこか掴めない男だった。
頭も良く、見目もいい、小田切を欲しがる人間は多かったが、小田切が選んだのはまだ若く、組も成長途中の羽生会だった。
もっとも、江坂は始めから小田切を欲しいとは思わなかった。
扱い辛い・・・・・そう思ったからだ。
 「随分長い間手を出さなかったんでしょう?」
 「・・・・・」
 「小早川商事の株、うちも持ってるんですよ。損はさせないでくださいね」
 「分かっている」
 ほとんど知られることのないはずの静の存在を既に把握している様子の小田切は、敵にすればかなり怖い存在だ。
(取り込まなくて良かった・・・・・)
使える人間は欲しいが、扱い辛い人間は要らない。
江坂は小田切の上司である上杉を気の毒に思いながら、意識をやがて来る静の方へと向け直した。






                                            







「border line」中編ですといいたいところですが、とても3話で終わらないということに気付きました。
よって、番号に変更します。一応、5話で終了予定(笑)。
特別出演のあの方も再度登場しそうです。