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「あ・・・・・」
指定された場所は、都内の有名なカフェテリア。
まだ寒い時期なので屋外のテラスにいる人間はまばらで、静は直ぐに目的の相手を見付けることが出来た。
しかし、直ぐに駈け寄ろうとした静は、そこにいた相手を見て足を止めてしまった。
「ああ、静さん、わざわざすみません」
穏やかに微笑みながら出迎えてくれた江坂は1人ではなかった。
「ここまで大変だったでしょう?疲れませんでしたか?」
「・・・・・いいえ」
「どうしました?」
「・・・・・」
静はチラッと江坂の隣に視線を向けた。
(・・・・・誰・・・・・?)
江坂の隣に立っていたのは、20代後半に見える美しい女性だった。
栗色の髪を緩やかに肩に流し、上品なアイボリーのスーツを身に付けたその女性は、自分に視線を向けてくる静に向かってにっ
こりと微笑み掛けてきた。
「こんにちは」
赤い唇がゆっくり開く。その様はまるで華が綻んだように見えた。
「助かったわ。本当に大切な書類で、凌二さんも困っていたの」
「・・・・・」
(凌二さん・・・・・)
「あなた、静君でしょう?凌二さんに聞いた話よりもとても綺麗ね。会えて嬉しいわ」
「由梨」
(・・・・・名前、呼んだ)
真昼のオフィス街。
昼時なので行き交う人の数も多いが、その中でも江坂とこの由梨という女性は特に目立つ一対だった。
どちらも美男美女、知的でスマート。野外テラスに座っているだけでも、人々の目は自然と吸い寄せられているようだ。
その中には多分に静に向ける視線もあったが、本人は少しも気付いた様子はない。
「静さん、せっかくここまで来てくれたんですから、お昼を一緒にいかがですか?」
「あら、いいわね。静君、一緒に行きましょうよ」
「・・・・・」
静は眉を顰めた。
この綺麗な人に『静君』と呼ばれるのがなぜか居心地が悪く、静は早々に書類の入った袋を手渡すと席に座ることもなく頭を
横に振った。
「俺、帰ります」
「静さん」
「お仕事、頑張ってください」
この2人の前にいると、自分が邪魔者のような気になってしまう。
ムカムカしてしまいそうな気持ちを抑えて、静は早々に立ち去った。
人混みにまみれて姿を消していく華奢な後ろ姿を、江坂は唇に笑みを浮かべながら見つめていた。
(思った以上の反応だな)
曖昧な好感が、はっきりとした好意に変わっている・・・・・十分にそう見えた。
「・・・・・あんなに可愛い子、毒牙にかけるんですか?」
「・・・・・」
「可哀想、あなたみたいな人に見初められて」
「口が過ぎるぞ」
それまでの穏やかな気配は一転し、江坂を取り巻く空気は氷のように冷たくなった。
女は変わらずに微笑んでいたが、その口元は僅かに引き攣ってしまっている。
『大東組』の江坂といえば、氷鬼(ひょうき)と言われているほど、人の情というものをいっさい排除した冷徹な人間として名を
知られていた。
なまじ頭がいいので、ターゲットにした相手はそれこそとことん追い詰める。
簡単に殺すことなどせず、いっそ死んだ方がましだと叫ぶほどに気を狂わせるのだ。
その様子を見ても、少しも表情を動かすことなどない江坂が、先程の青年には驚くほど優しい笑顔を見せていた。
作り物ではない本物のその笑みに、江坂が青年に対してどれ程の執着を抱いているのかは彼を知る人間ならば直ぐに分かっ
た。
もちろん、この女にもだ。
だからこそ、深追いしてはならないという事も暗黙の内に肌に感じ、女はそれ以上口を開くことはなかった。
「金は振り込んでおく」
「・・・・・ありがとうございます」
シマ(縄張り)の中で、一番見目の良いこの女は、多額の借金を抱えていた。それは自分のものではなく男のせいだが、江坂
はその借金を肩代わりする代わりに、たった数分間のこの対面の登場人物としたのだ。
静の気持ちがどれ程のものか図る為だが、思った以上に効果はあったようだ。
「・・・・・」
江坂はそのまま女には何も言わず、自分の会社に向かう為に、すぐ傍の車道に止まっていた車の傍に歩み寄る。
すると、どこにいたのか黒服の数人の男が現われ、車のドアを開きながら頭を下げた。
無言のまま江坂が車に乗り込むと、車は3台の車列になって走り始める。
江坂ほどの立場になれば、何人ものボディーガードが付くのも当たり前のことだった。江坂自身は彼らを空気のように思っている
ので、少しも気にすることはなかったが、傍目から見ればかなり異質で異様な光景だろう。
「どちらへ」
「会社だ」
(・・・・・安いバイト料だ)
江坂が肩代わりしてやった女の借金は3千万。しかし、少しも高いとは思わなかった。
むしろそれぐらいのはした金で、静の可愛い困惑顔を見れて得をした気分になっている。
(さて・・・・・今日帰った時、どう反応するか・・・・・)
マンションに戻ってからも、静の気持ちは少しも落ち着くことが出来なかった。
(あの人・・・・・江坂さんの恋人なのかな・・・・・)
名前を呼び合うほどの親しい関係・・・・・まだ精神的に幼い静にはそれは恋人同士としか想像出来なかった。
「恋人、いないって言ってたのに・・・・・」
マンションのどこにも、女の気配はいっさいしない。
毎夜遅く帰ってくる江坂からも、そういった匂いもしなかった。
江坂ほどの男が結婚もしておらず、恋人がいないという事もおかしいと思っていたはずなのに、いざそれらしい人間が現われると
どうしようもなく動揺してしまう。
あの時、逃げるように立ち去ったりせずに、もっとちゃんと笑って話せなかったのか・・・・・何度も繰り返し自問自答するが、どう
しても笑って2人を見つめている自分というものが想像出来なかった。
江坂に恋人がいてもおかしくは無い。ただ、それを受け入れることが出来ない自分がおかしいのだ。
静は自分の部屋のベットにうつ伏せに寝転がりながら、今日帰ってくる江坂にどう接したらいいかずっと考えていた。
「ただいま」
「・・・・・お帰りなさい」
何時ものように玄関先で出迎えてくれた静の顔を一目見て、江坂は内心ほくそ笑んだ。
今朝、送り出してくれた時とはまるで違う、昼間会った時よりも遥かに青褪めたどこか思い詰めたようなその顔は、悩ましげな伏
せ目がちの横顔がとても綺麗な大人びた表情になっていた。
江坂が思っていた以上に、今日の昼間の出来事は静にショックを与えたようだ。
それは、静が江坂にかなりの好意を寄せているという証に他ならない。
(どれ程可愛い姿を見せてくれるか・・・・・)
「静さん、今日はありがとうございました」
「い、いえ、あれくらいは・・・・・」
「せっかくお休みだったんでしょう?」
「・・・・・」
静は少し困ったように眉を下げている。
幼いその表情に、江坂は思わず笑みがこぼれてしまった。
「どうしました?」
「あ、あの・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・」
なかなか話を切り出せない静を、江坂は辛抱強く待った。
気持ちを言葉にするのが苦手な静をヘタに急かすと、大切な気持ちを聞き逃してしまう恐れがある。
3年待ったぐらいなのだ、ほんの数分などは全く苦にも感じなかった。
「あの、昼間の・・・・・あの人は、江坂さんの・・・・・恋人ですか?」
「・・・・・」
(言った)
自分から昼間のことを切り出してくれた静に、江坂は内心歓喜しながらも、表面上は少しだけ心外だというように口調を改めて
言った。
「前にも言いませんでしたか?私には恋人はいないって」
「・・・・・聞きました・・・・・けど、名前、呼び合ってたし・・・・・」
「彼女はただの知人です。静さんが不快に思うなら今後いっさい会いません」
「そんな・・・・・っ、俺は、そんなこと思っていません!」
「それならば、どうして?彼女が嫌いなんではないですか?」
「初めて会った人に、嫌いなんて・・・・・。俺は、ただ、ただ、ちょっと・・・・・」
「・・・・・」
「嫌だなって、思っただけです」
人の悪口を言うのは嫌だった。
誰かを嫌いになりたくはないし、ましてや初対面の相手にそんな感情を持つことなど考えたことはなかった。
ただ、少しだけ・・・・・江坂の傍にいる彼女の姿を見るのが嫌だった・・・・・そう、思っただけなのだ。
「静さん」
「ごめんなさいっ」
怒られる・・・・・そう思った静はギュッと目を閉じて俯いた。
しかし、ふってきたのは罵声ではなく、何時も以上に優しい言葉と抱擁だった。
「聞いてください、静さん。私が誰を好きなのか・・・・・」
「・・・・・嫌です」
(聞きたくない・・・・・っ)
「あなたです」
「・・・・・」
(・・・・・え?)
思い掛けない言葉に、静はパッと顔を上げてしまった。
目の前には、整った江坂の顔がある。
「私が好きなのは、静さん、あなたなんですよ。こんなふうに言うつもりはなかったんですが・・・・・あなたがあんまり可愛らしいか
ら、どうしても我慢が出来なくなってしまった」
当初の計画では、静の方から好きだと言わせるつもりだった。
もう少しだけ追い詰めて、どうしても言わなければという状況に追い込むはずだった。
(計画というものも、崩れる時もある・・・・・か)
冷静に、慎重に、計画を立てていたはずだったが、余りに子供っぽい静の嫉妬にどうしようもなく気持ちが湧き立ち、これ以上
江坂自身が我慢しようとは思えなくなってしまったのだ。
「江坂さん・・・・・」
「男同士でって気持ち悪いと思われるかもしれませんが・・・・・私は一目見てあなたを好きになってしまいました。もちろん、あ
なたの気持ちが一番大事ですから、無理に応えてくれようとしなくていいんですよ?会社への融資も止めません。あなたがここ
を出たいと言っても止めることは出来ませんが・・・・・出来れば、傍にいて欲しい」
静の身体を抱きしめながら、江坂は懇願するように言った。
それは芝居のつもりだったが、気持ち的には本気だった。頭を下げるぐらいで静が手に入るのならば、土下座をしても全く構わな
いほどだ。
「・・・・・」
(逃げない、な)
抱きしめた静の身体は緊張をしているようだが、逃げようとする気配はなかった。
それでも、静はまだ何も言おうとはしない。
(早かったか・・・・・)
一緒に暮らし始めてまだ1ヶ月経つかどうか・・・・・いきなり好意から恋愛感情に変えさせるには少し早かったかと、江坂は初め
て自分の先走った気持ちを後悔しそうになった。
その時・・・・・、
「男同士で好きになることなんて・・・・・あるんですか?」
困惑したような、縋るような、不思議な響きのその言葉に、江坂は静の背中で目を光らせて笑みを浮かべた。
拒絶されなければ、何とでも言いくるめてしまうことが出来る。
(ここで逃がすことはしないよ、静)
一度、抱きしめる腕に力を込めた江坂は、そっとその身体を離して静の顔を覗き込んだ。
「あなたは、誰かを本当に好きになったことはありますか?」
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「border line」第3話です。
江坂さん、我慢出来ずに言っちゃいました(笑)。
この後をどう言いくるめていくか・・・・・そこが腕の見せ所ですね。