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(誰かを本当に・・・・・?)
真っ直ぐ自分を見つめてくる江坂の視線が怖くて、静はギュッと目を閉じてその言葉を繰り返した。
あまり人と接することが好きではなく、感情表現も下手な静は、これまではっきりとした恋愛関係といえる相手はいなかった。
それでも、『いいな』とか、『可愛い』とかの気持ちは持ったことはある。もちろん相手は同世代の少女達だ。
ただ・・・・・それらがホンワカとした気持ちになったのは確かだが、江坂の言っているような・・・・・『本当に好き』という強い気持
ちになったのかといえば、首を縦に振ることなどはとても出来なかった。
自分が幼稚な子供だと思い、静の頬は恥ずかしさでジワジワと赤くなっていく。
(俺、俺・・・・・)
「すみません」
先に動いたのは江坂の方だった。
江坂は静の肩から手を離し、少し身を引いて穏やかに言った。
「あなたはまだ若いのに、経験が無いのは当たり前です」
「・・・・・」
その声が余りに優しくて、静はそっと目を開いてしまう。
少し離れた場所にいる江坂は、スーツの内ポケットから煙草を取り出して口に咥えると、無言のまま火をつけて一度深く吸った。
家では誰も吸わないので静は煙草に対して耐性がなく、コホンと咳をしてしまった。
「あ、すみません。煙草、苦手なんですね」
「だ、大丈夫です!」
ここは江坂の家で、江坂が煙草を吸いたいなら止めることなど出来るはずがない。
しかし、ブンブンと首を横に振る静に苦笑した江坂は、なんとそのまま煙草を握り締めてしまったのだ。
「!江坂さん!」
静はそれまで出したことがないような大きな声で江坂の名前を呼ぶと、慌ててその手を掴んで開かせた。
静よりも大きな、しかし綺麗なその手の平には、痛々しい小さな赤黒い痕が付いていた。
「み、水!冷やさないと!」
「大丈夫ですよ、これくらい」
「そんなことないです!痕になったら大変だし!」
静は江坂をキッチンに引っ張ってくると、そのまま水で手を冷やし始めた。
静の厚手のシャツの袖口と、江坂のスーツの袖口は、見る間に水に濡れて色が変わっていった。
(少し感情的になってしまったが・・・・・おかげで静の意識がこちらに近付いたな)
わざとした行為ではなかったが、優しい静は江坂のその行為を黙って見過ごすことは出来なかったようだった。
しっかりと手を握り締められ、身体を密着させられる。
真剣に心配してくれていることがその眼差しと手の力からも良く分かり、江坂は笑みを浮かべたままその横顔を見つめた。
(本当に素直で・・・・・愚かなほど馬鹿な子だ)
自分を好きだと言った男の前で、無防備な心を晒すということがどんなに愚かなことか・・・・・静はきっとこの先一生分かること
はないだろう。
もちろん、江坂も悟らせるつもりはないが。
「・・・・・静さん」
江坂は身を屈め、静の耳元に唇を寄せた。
その身体がビクッと反応する様を間近に見ながら、江坂はその耳元で懇願するように言った。
「私があなたを好きだということだけは覚えていてください。これから先、あなたが誰かを愛するとしても、私のこの気持ちが変わ
ることはないですから」
「・・・・・」
「男女でも、男同士でも、愛し合うということに何の境界もありません。私は・・・・・」
「!」
江坂は水で冷たくなった静の手をギュッと握り締めた。
「私は、あなたに会った瞬間に、その境界線を越えたんですよ」
大学からの帰り道、静は重い足取りで家路についていた。
本当はこのまま江坂のマンションには帰りたくなかったが、かといって自宅に帰ろうとは思わなかった。
今の静にとっては、江坂のマンションは立派に自分の帰る場所になっていたのだ。
「おはようございます、静さん」
あの次の朝、昨夜あんなことがあったとはとても思えないほど普通に江坂は接してくれた。
それが大人の対応だとは分かるが、静はとてもそんな態度は取れなかった。
どうしてもぎこちなく接してしまう静に怒ることもなく、江坂は何時ものようにただ・・・・・優しかった。
「・・・・・どうすればいいんだろ・・・・・」
あれから一週間近く経つが、静はずっと考え続けている。
(男同士なんて、考えてもなかったし)
それでも不思議と、『拒絶』という言葉は出てこなかった。
何もなかったことにして、融資だけを受けて、江坂のマンションを出て行く・・・・・江坂はその可能性も許してくれたが、静自身こ
のまま江坂を切り捨てることなどとても出来なかった。
頭が良くて。
カッコよくて。
優しくて。
何より、言葉足らずな自分の気持ちを、まるで肉親のようにちゃんと汲み取ってくれる人。
この先、どれ程の人間と出会うかは分からないが、これ程に自分を想ってくれる人と出会えるかなど想像も出来ない。
「・・・・・あ」
丁度、マンションが見える角まで来た時、静は思わず立ち止まってしまった。
(・・・・・江坂さん?)
マンションの入口に、3台止まっていた黒塗りの高級車。その真ん中の車の後部座席のドアを助手席から降りてきた男が開け
ると、そこから降りてきたのは間違えようのない人・・・・・江坂だった。
何時も静に向けてくれる優しい眼差しを欠片も見せず、まるで氷のように冷たい目をした江坂は、そのまま振り向きもせずにマ
ンションの中に入っていく。
「・・・・・」
あっという間の出来事に、静はしばらく足が動かなかった。
『今日は午後の最後の授業が休講になったようでお帰りになっています。このままマンションに向かわれているようですが』
静に付けている護衛からの連絡を車の中で受けた江坂は一瞬考えた後、運転手にマンションに向かうように命令した。
このままではマンションで静とかち合う可能性はあったが、それはそれで面白いと思った。
あの日から、静が可哀想なほど自分を意識しているのは感じていた。
思わず笑い出してしまいそうだったが、それを押し殺しながらごく普通に今まで通りに接した。それにまた途惑っている静がいて、
その変化に江坂は最近とてもいい気分になっていたのだ。
だからこそ、試してみてもいいと思った。
静がどこまで自分の傍に近付いてこれるかということを。
「お帰りなさい。今日は立場が逆ですね」
マンションの部屋のドアを開けると、まるで待ちかねたように江坂が玄関先で出迎えてくれた。
「・・・・・どうして?」
「恋する男の勘・・・・・ですか」
普段ほとんど言わないような軽口を言うが、江坂の態度は何時もとあまり変わらない。
静は一瞬、自分が見たものは幻かもと思ったが、それでもどうしても気になって江坂に聞いてみた。
「あ、あの、江坂さん、何時帰ってきたんですか?」
「つい先程ですよ。静さんが帰ってくる直前」
「・・・・・」
(やっぱり、あれは江坂さんだったんだ・・・・・)
垣間見た黒ずくめの男達が一体何者なのか、静は聞いてもいいのかどうか迷った。
今までならば、どんなに気になったとしても口に出すことは絶対になかったはずだった。相手のことを考えるという事も一端はある
が、誰かと深く関わることを恐れる自分の為に、見て見ぬフリをすることが常だった。
しかし。
「・・・・・江坂さん、俺、さっき、江坂さんを見掛けたんです、マンションの前で」
「そうだったんですか?声を掛けて下さったら良かったのに」
「・・・・・」
少しも隠すふうもなく言う江坂に、静は更に言葉を付け足した。
「なんか、怖い感じの人と一緒でした。あの人達・・・・・」
「私の部下です」
「・・・・・部下?」
「立場上、身を守ってくれる人間が必要なもので」
「え?」
(身をって、そんな仕事してるの・・・・・?)
静の表情が強張ってしまったことに気付いたのか、江坂は苦笑を零しながら静に言った。
「怖いですか?私が」
「・・・・・」
その瞬間、静は言葉につまった。
ヤクザの組の幹部とはさすがに言わなかったが、言葉の雰囲気で静は何かを感じただろう。
目に見えて表情が硬くなっていくのか分かったが、江坂は宥める言葉を掛けずにじっとその顔を見つめていた。
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・怖い、です」
「静さん」
「でも・・・・・江坂さんの傍は居心地が良くて・・・・・」
江坂はゆっくりと静に近付いた。
小さくて臆病な野生の動物のような静が怖がらないようにそっと手を伸ばし、ほっそりとした頬に手をやって上を向かせた。
その目は伏し目がちにはなっているものの、完全に閉じられてはいなかった。
「キス、しますよ」
「・・・・・」
「嫌だったら、私を突き飛ばしてでも逃げなさい」
そう言って逃げ道を作ってやってから、江坂は小さなその唇に自分の唇を重ねた。
ギュッと閉じたままの唇が、静がこういった接触に慣れた人間ではないと教えてくれる。
「・・・・・」
重ねただけの口付けは、それ以上深くしない間に解いてやった。
あからさまに安堵の溜め息を零されたのには苦笑を禁じえないが、それでもこれで静との関係が大きく前進したのは確かだ。
それに、江坂はこれで静を追い詰める手を緩めるつもりは毛頭なく、このまま静が他の事を考える暇がない内に、最終的にそ
の心も身体も手にしてしまうつもりだった。
「嫌でしたか?」
「・・・・・」
「男との・・・・・私とのキスは嫌だった?」
言葉を変えて聞いてやると、微かにだが首を横に振った。
「ありがとう。私はとても嬉しいですよ」
「・・・・・江坂さんは、本当に、あの、俺の、こと・・・・・」
「あなたを愛しています。もう、ずっと前から」
その気持ちは嘘ではないので、静の胸にも重く響いただろう。
(もう少し・・・・・)
「少しだけ、あなたに触れてもいいですか?」
「・・・・・え?」
(もう少しだ・・・・・)
「あなたが私のことを本当はどう思っているのか、嫌でなければその身体に触れて確かめてみたいんです。身体だけが欲しいと
は思っていませんが、生理的に拒絶をするなら受け入れることは出来ないでしょう?」
静は追い詰められていた。
江坂のことは嫌いではない。それは事実だ。
怪しい男達を従える仕事についていたとしても、こうやって身体に触れようとしてきても、今までの優しい江坂のことを、思った以
上に信頼し、受け入れてきた静には真に拒絶など出来なかった。
(ど、どうしよう・・・・・)
まだ初恋どころか、恋愛自体に不慣れな静には、それが江坂の言葉巧みな罠だと気付くことさえ出来ない。
嫌いでなければ身体も受け入れることが出来るはず・・・・・江坂の言葉は第三者が聞けば明らかに強引な方程式だと分かる
ものだが、子供の静に言葉の裏の意味を気取ることはとても出来なかった。
「き、嫌いじゃないと・・・・・受け入れられるんです、か?」
「ええ。あなたも私を想ってくれているという証ですよ」
「で、でも、まだ会って1ヵ月くらいなのに・・・・・」
「この私が一ヶ月も待った。私からすれば、もう何年もあなたを前にお預けでいた気分ですが」
「・・・・・」
整った江坂の顔が、ゆっくりと近付いてくる。
「大丈夫。あなたはきっと、私に応えてくれるはずですよ」
目の前の江坂の眼鏡越しの瞳に自分の顔が映ったと思った瞬間、静はまるで噛み付かれたと思うほどの激しいキスを受け、
反射的にギュッと目を閉じて江坂の服を握り締めた。
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「border line」第4話です。
詐欺師江坂の口車に乗せられて、静ちゃんはとうとう(笑)。
次回最終回。どう決着をつけましょうか。