海上の絶対君主
第六章 亡霊の微笑
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※ここでの『』の言葉は日本語です
「うわあああ!」
大きく揺れた甲板の上で、珠生は派手に尻餅をついてしまった。
「ははは、何やってるんだ、タマ」
「ゆ、ゆれすぎ!」
数日後、エイバル号はジアーラ国の海域へと入った。直ぐに以前見たような小さな島々がポツポツと見えてきて、船はそれを避け
るように大きく舵を取る。
ラディスラス達は慣れているだろうが、珠生はどうしてもまだ足腰が弱いので、情けないがどこかに掴まっていないとそのまま海に
振り落とされるのではないかと思うほどの恐怖を感じていた。
「ラディ、べーふぁむ島、もう直ぐっ?」
「明日には着くと思うぞ。それと、タマ、ヴィルヘルム島だ」
「・・・・・いいじゃん」
島の名前の発音はどうも難しくて、つい耳で聞こえた適当なものになってしまうが、ラディスラスは嫌味たっぷりに言い直させるか
ら面白くない。
珠生も最初はムキになって言い換えていたが、やはりどうしてもどこかおかしくなってしまうので、今ではついムッとしてしまうのだ。
「タ〜マ」
「・・・・・」
「お前だって、自分の国を間違われたら嫌だろう?」
確かに、あまり良い気持ちはしない。だが、ラディスラス達も日本語はよく間違えているし、自分だけがお説教をされるのは割が
合わないような気がして、
「あ、おいっ」
珠生は大きく揺れる船の上でこけないようにしながら逃げ出してしまった。
フラフラと揺れながら立ち去っていく珠生の後ろ姿を見ながらラディスラスは苦笑した。
(逃げられたか)
別に、珠生に偉そうに説教をするつもりは無い。ただ、珠生と会話をする機会を増やしたいだけなのだが、まだ子供である珠生は
そんな言葉遊びの大切さを実感してはくれないらしい。
「ラディ」
「ああ、アズハル。どうだ、ミシュアの体調は」
「変わりありませんよ。心配していた船酔いも無いようですし、本当にノエルの医師としての腕は素晴らしいようです」
アズハルの言葉にラディスラスも頷いた。
本人は大丈夫だと言うものの、やはりミシュアの体調が一番の気懸かりだったが、どうやらこちらが危惧していた問題は考えなくて
も良さそうだ。
「もう直ぐですか」
「そろそろ、イザークと合流する頃だが」
「・・・・・上手くいくといいですけど」
「大丈夫だ、俺がいるんだからな」
きっぱりと言うと、アズハルは呆れたような笑みを漏らす。
「本当に、あなたがそう言うと心配している自分が馬鹿みたいに思ってしまいますよ」
「そうか?」
そう信じるからこそ、後ろを振り向かなくてもいいのだ。大体、これほど多くの男達を率いる人間が、始めから不安を漏らしていて
も始まらない。
「大体、俺はな」
単純ではないのだぞと説明をしようとしたラディスラスは、
「お頭!商船が近付いてきます!」
ルドーの言葉にハッと身を翻した。
船首に立ったラディスラスは遠眼鏡を覗いた。
確かに近付いてくるのはジアーラ国の国旗をはためかせた商船のようだ。
(俺達が海賊だと知らないのか?)
海賊船エイバルの名は世に轟いていても、実際にそれがどんな船かを知る者はそれほどに多くはないようだ。商船側に何かの
突発的な事故が起こり、こちら側に助けを求めていることも考えられたが・・・・・。
「・・・・・ん?」
(あれは・・・・・)
商船の船内から人影が現れた。その顔を確認した途端、ラディスラスの口元はにやりと緩む。
「帆を降ろせ!向こうが近付くのを待つんだ!」
「お頭、襲うんですか?」
今回は海賊行為はしないのではないかというルドーの問いに、ラディスラスは心配するなと笑った。
「あれはこっちの味方だ。おいっ、誰かラシェルを呼んできてくれ!」
食堂に逃げ込んでいた珠生は、騒がしくなってきた外の様子が気になってしまった。
(何があったんだろ?)
先ほどまでは船も大きく揺れていたが、今は少し落ち着いている。何か変化があったみたいだと、珠生は手にしていた野菜を厨
房に戻しに行った。
「珠生?」
「ちょっと!」
不思議そうに問い掛けてくる父にそう答え、珠生は食堂を出た。
木の階段を駆け上がると、甲板の船首の方にゾロゾロと船員達が向かっている。
「なに?」
その中の1人を捕まえて聞くと、どうやら商船がこの船に近付いてきているらしい。
海賊の船に近付いてくるなど、わざわざ蜘蛛の巣に引っ掛かりに来る蝶のようだなと思ったものの、多分向こうはこの船が海賊船
だとは知らないはずだ。
(ラディ、襲ったりしないよな)
今回は別の目的があるので海賊行為はしないはずだが、向こうから来るのをわざわざ拒むこともしないかもしれない・・・・・そん
な風に思いながら、珠生も人の波に従った。
(案外・・・・・地味)
商船といっていたので、以前ベニート共和国の第二王子ユージンと出会った時に彼が乗っていたような派手な船かと想像して
いたが、直ぐ目の前に近付いている船はそれよりもずっと簡素な造りのようだ。
(こんなんじゃ、ラディも逃がしてやるよな)
「・・・・・あれ?」
甲板にはラフな格好をした商人が立っている。長い髪を縛り、じっとこちらを見ている瞳は・・・・・。
「あーっ、イザークッ?」
大声で叫んだ珠生に、イザークは碧色の瞳を細めた。
(うわっ、まるっきり別人に見える〜)
それ程大掛かりな変装をしているわけではない。
何時もきっちりとした制服を身にまとい、硬い雰囲気を持っていたイザークと、今目の前にいる少し遊び人風に服と表情を変えた
イザークはとても同一人物とは思えなかった。
「どうしてそんな格好して・・・・・」
そのまま珠生はイザークの乗っている船へと近付こうとしたが、
「うわっ」
その腕はしっかりとラディスラスに掴まれてしまった。
「ラディ、ちょっと」
「よお、イザーク、案外そっちの方が素なのか?」
ラディスラスは珠生の言葉を聞かずにイザークに話しかけている。イザークは珠生に向けていた穏やかな表情から一変、何時も
の騎士の表情になってラディスラスに言った。
「気づかなかったのか」
「まさか、こんなに堂々と近付いてくるとは思わなかった」
「案外昼間の方が目立たない」
そう言っているイザークの前で、商船側の男が渡し板をエイバル号に渡してきた。
イザークは無言のままこちら側に渡ってきたが、その後ろから2人の男も同じように渡ってくる。3人が渡りきると別の人物が渡し板
を取り、そのまま商船は離れ始めた。
「あ・・・・・」
(あの人は行っちゃうんだ)
イザーク達を運ぶためだけに来た船。戻っていくあの船の中にいる人物は大丈夫なのかなと、珠生はチラッと考えてしまった。
イザークの後ろにいるのは、同じような服装の若い男達だった。しかし、ただの商人でないのはその眼差しや身のこなしからも分
かる。
「部下だ。今回のことは全て話してある。信用のおける者達だ」
「じゃあ、討伐軍の?」
「レイモン・ベイリーとダリル・カイレ。レイモンは以前私と同じくラシェルの下にいた」
「・・・・・へえ」
黒い短髪に、薄茶の瞳をしたレイモンと、明るい髪の色に碧の瞳のダリル。2人共イザークと同じように商人の格好をしているが、
その服の上からでも鍛えている身体は良く分かる。
イザークの部下らしく、生真面目そうな表情をしているが、レイモンの方は少し複雑な表情でラディスラスの後ろに視線を向けて
いた。
そこには、かつての彼らの上司であったラシェルが立っているはずだ。海賊にまで身を落としてしまったのかと、半ば哀れみの感情を
抱いているのかもしれないが。
「ようこそ、エイバル号へ」
ラディスラスは2人に向かって手を差し出した。
「・・・・・」
「・・・・・」
黙ってその手を見下ろす2人に、ラディスラスは笑いながら言葉を続ける。
「どうした?海賊なんかと手を握り合えないか?だが、今回のことに限り、俺達は同志だ。信頼なくして、大儀を成すことは出
来ないんじゃないか?」
暗に、子供じみた真似はするんじゃないという意味を込めて笑みを深めると、2人はそれぞれ眉間の皺を深くしながら乱暴にラ
ディスラスの腕をとった。
「ダリル・カイレです」
「・・・・・レイモン・ベイリーです。このたびは王子のためにご助力くださると聞きました。よろしく・・・・・お願いします」
レイモンは深く頭を下げる。
(・・・・・どうやら、潔さも上司似らしいな)
「こちらこそ。頼りにしている」
頭を下げてくる相手にはそれなりの礼をとる。それは海賊ではなく海の男の礼儀だと、ラディスラスはしっかりとレイモンの手を取っ
て言った。
久し振りに会うレイモンは、立派な騎士になっていた。
最後に会った時は、レイモンはまだ十代だったはずだ。この数年間、彼はどんな思いでジアーラ国に残ったのだろうかと思いながら、
ラシェルはラディスラスとの挨拶が終わった後に自分の方へと歩いてくるレイモンをじっと見つめた。
「・・・・・隊長」
「俺はもう、隊長じゃない」
「・・・・・」
「・・・・・これまで、国を守ってくれて・・・・・感謝する」
搾り出すように言った言葉に、レイモンが唇を噛み締める。その表情は昔と変わらないなと、ラシェルは苦笑しながら自分とほぼ
変わらない高さになった肩を叩いた。
「王子に会うだろう?」
「・・・・・王子は、お元気でいらっしゃるのですか」
「ああ。だからこそ、こうしてジアーラに戻られることを決意してくださった」
今のミシュアの身体の状態は、落ち着いてからイザークも含めて説明するが、ミシュアの気力は自分達が想像するよりもはるか
に大きく、強い。さすがに一国の王子だった人だと、ラシェルはさらにミシュアのことを尊敬したくらいだ。
「それと、この船にはエーキも乗っている」
「!」
「自制しろ、レイモン」
「・・・・・っ」
そもそものジアーラ国衰退の切っ掛けが何であるのか、ミシュアの親衛隊だったレイモンも例外なく知っている。
だからこそ、ラシェルと同じように瑛生に対しても負の感情が大きいが、今のミシュアの傍には瑛生が絶対に必要なのだとラシェル
は分かっていた。
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