海上の絶対君主
第六章 亡霊の微笑
9
※ここでの『』の言葉は日本語です
軽くドアを叩くと、中から入れと声がした。
「ラディ」
「どうした、タマ」
舵をとる操舵室の中にはラディスラスとラシェルがいた。ラディスラスは何時もと変わらない表情だが、ラシェルは眉間に皺を寄せた
思いつめた表情をしていて、珠生は疑うようにラディスラスを見上げた。
「ラディ、ラシェルいじめた?」
「おいおい、子供じゃないんだぞ」
「ラディだったらしそうだもん。ダメだぞ、ラシェルは真面目なんだから」
どんな言葉でからかってこんな顔をさせたのかは分からないが、真面目な人間をからかうのは性質が悪過ぎる。
ムッと珠生が睨んでそう言うと、なぜか庇われたラシェルが違うと口を挟んできた。
「タマ、ラディは俺の話を聞いてくれただけだ、何でもない」
「・・・・・ホント?」
「ああ」
「だから、そう言っただろう?お前こそどうした?」
「え?俺は、何かヒマだったから仕事ないかなって」
「仕事か。まだ出航したばかりでこれといったものはないな」
その答えはルドーと同じものだった。ラディスラスがそう言うのならば、本当にすることが無いのかもしれない。
(・・・・・なんか、暇なんだけど)
何も無いとはいえ、自分以外の人間は皆忙しく動いているので、ウロウロと所在無げに歩いていたら自分だけがサボっているよう
に見えてしまう気がするのだが。
「暇なら、タマ、俺に付き合うか?」
「え?」
その言葉に珠生が視線を向ければ、ラディスラスは笑いながら親指を上に向けている。
(・・・・・上?)
「ほら、落っこちるなよ」
「わ、分かってるよ!」
口では強がっているものの、珠生の動かす手足はとても慎重だ。
下からはその様子が良く見えるラディスラスは、笑いそうになるのを何とか我慢した。ここで笑ってしまうと、せっかくの2人きりの時
間を拒絶されてしまう。
「下も見るなよ」
「う、うん」
己にも何か役割が欲しいとウズウズした様子が見えた珠生を、ラディスラスが誘ったのは見張り台だった。
以前にも上ったことがあるので珠生も直ぐに同意したが、上り下りの恐怖まで払拭されたわけではないらしく、へっぴり腰でゆっくり
と足を動かしている。
「タマ」
「ダメ!」
「ん?」
「しゅーちゅーできない!」
「あー、はいはい」
(取り合えずは上に上がってしまうまで大人しくしておくか)
へたにからかって足を踏み外されてはたまらないと、ラディスラスは今しばらく珠生の可愛らしい尻を眺める楽しみだけに満足して
いようと思った。
怖がってはいたものの、それでも以前よりもかなり早く上に着くことが出来た。
今日は風もなく、天気も良くて、どこまでも続く青い海と空が混じり合う景色は絶景だ。
「きれー」
珠生も顔を綻ばせて、ぐるりと周りを見回している。
大の大人が2人いるのは少々窮屈な見張り台だが、密着出来る良い言いわけにはなる。ラディスラスは珠生の背中から覆いか
ぶさるようにして立つと、少し身を屈めてその耳元で言った。
「なあ、タマ。・・・・・寂しいか?」
「え?」
ここには自分以外には誰もいない。珠生の弱音も愚痴も、聞くのは自分だけだ。
まだ航海は始まったばかりだが、今のうちに珠生の本当の想いを全て聞いておきたいと思ったのだ。
「エーキをミュウに取られて」
「変なこと言うなよ、ラディッ。とーさんは俺のとーさんだし、それは変わらないよ!」
ラディスラスの言葉は珠生にとっては思いもよらなかったことらしく、パッと振り向いたかと思うと一気にそう言ってラディスラスを睨
んできた。
「俺たち、2人のためにジアーラにいくんだろっ?」
「・・・・・それで、いいのか?」
「・・・・・いい」
「タマ」
細い珠生の肩に手を置き、ラディスラスは強がりを言う珠生の唇を強引に口付けで塞ぐ。
(馬鹿な奴・・・・・)
これ以上、珠生に無理に言葉を言わせたくはなかった。
「んっ」
いきなりキスしてきたラディスラスは、そのまま強引に口腔の中に舌まで差し入れてきた。
クチュ
波や風の音にかき消されてもおかしくないはずなのに、自分達の舌が絡まる音が妙に耳に響いた。
(こ、こんなのっ、誰かに見れらたら・・・・・っ)
男同士の自分達が、見張り台の上でキスをしている姿を見られてしまうのは恥ずかしくてたまらない。誰かに見られる前にラディ
スラスの身体を引き離そうと胸に手をやるが、彼の大きな手は片手で易々と自分の手を掴んで押さえてしまう。
「んはっ」
チュッ
音を立てて唇を離したラディスラスの顔が直ぐ目の前にあった。
少し厚めの唇が濡れているのはなぜか・・・・・それが自分とのキスのせいだと分かった珠生の顔は瞬時に真っ赤になってしまう。
そんな珠生の表情の変化に気付いたらしいラディスラスが、ニッと唇の端を上げた。何時も以上に男の色気を感じさせるその表
情に、珠生は焦って目を泳がせた。
「ん?もっとして欲しかったか?」
「な・・・・・っ」
驚いて声が出ない珠生の尻を、ラディスラスは意味深に撫でる。
「ここじゃ抱いても動けないが・・・・・」
「ヘ、ヘンタイッ!」
一瞬でも、カッコいいと思ったのは間違いかもしれない。
珠生はラディスラスの胸を強く押したが、狭い場所では密着した身体を押しのけることは出来なかった。
眠っているミシュアの顔色は良く、ラシェルは心配していた船での旅立ちが彼の身体にそれほど障りが無かったことに安堵した。
もちろんアズハルは船医にするのが勿体ないほどに腕の良い医師で、彼に任せていれば自分が傍にいるよりも遥かに安心だとは
分かっていたが、それでもラシェルは事あるごとにその無事を己の目で確認しなければ気が済まなかった。
「・・・・・」
瑛生はジェイの手伝いをしているらしい。自分もそろそろ仕事に戻らなければと甲板を歩いていたラシェルは、大声で言い合い
をしている人影を見た。
(全く・・・・・)
先程仲良くどこかへ向かったと思ったが、もう喧嘩をしている。仲が良いのか悪いのか、ラシェルは大きな溜め息をついてから足
を踏み出した。
「何をしている」
「ん?」
「あ!」
片方は随分前から近付くラシェルの姿に気付いていたが、もう1人は声を掛けてからようやくその存在に気付いたらしい、パッと
顔を上げると駆け寄ってきた。
「ラシェルッ、ラディがセクハラする!」
「・・・・・せくはら?」
耳慣れない単語に首を傾げると、珠生は焦って片手を振る。
「えっと、えーっと・・・・・あ、エ、エッチなこと!」
「えっち?」
「・・・・・もうっ」
言葉の意味は分からないものの、珠生の赤く染まった顔で何があったのか大体想像がついた。
まだ航海が始まったばかり、そしてここには珠生の父親もいるというのに堂々と手を出し、それに珠生は怒ってしまったのだろう。
(本当に懲りないな)
ラシェルは、自分の目の前で忙しく視線を動かす珠生の肩を抱くと、己のその態度に面白くないように眉を顰めるラディスラスに
言った。
「ラディ、いったい何をしているんだ」
「恋人同士ならば当然の行為」
「・・・・・時と場合を考えてくれ」
「はいはい」
おざなりの返事は、とてもこれから気をつけるといった感じではない。この船の中では王様のラディスラスには、己の忠告もただの
歌声のようなものでしかないのだ。
珠生は怒ってはいたものの、それがほとんどが羞恥のためだとラディスラスは知っている。
自分が触れることを基本的には許容している珠生は、場所と時間さえ考えれば文句も言わないのだろうが、恋する男に理性的
に動けというのはとても無理だ。
「分かった、分かった、もう何もしないって」
だが、目の前にいる頭の堅いラシェルが味方に付いてしまうとこれ以上は無理だとも分かり、ラディスラスは両手を上げて降参す
る格好をして見せた。
「仕事に戻る」
「・・・・・そうしてくれ」
「タマ、お前もそろそろ食堂に行ったらどうだ?手伝うことがあるんじゃないか?」
「・・・・・分かった」
珠生は口を尖らせたまま、それでも素直に頷く。
「よし、行くか、ラシェル」
その表情に笑ってみせると、ラディスラスはラシェルの腕を引いた。
「ミュウはどうだった?」
「眠っていた。顔色も良かったし、心配はないだろう」
「そうか、良かったな」
自分と別れて直ぐにミシュアの様子を見に行ったことは想像がついたのでそう聞けば、ラシェルは端的に答えた。それでもその表
情は十分落ち着いているようで、ラディスラスもホッと安心出来た。
(このまま容体が落ち着いてくれていればな)
ジアーラ国に着けば、ミシュアがしなければならないことは膨大にある。今のうちにゆっくりと身体を休めておいて欲しいと思う反
面、本当に大丈夫なのかと心配は消えないままだが、本人の意思が固ければ自分が口を挟むことはないだろう。
「そういえば、ジアーラの海域に入ってから直ぐにイザークが接触をしてくるんだったか」
「ああ。警備船ではなく、別の船で現れると言っていたが」
「今回のことで、味方も見付けたと思うか?」
その言葉に、少し考えてからラシェルは答えた。
「・・・・・あいつは誠実な男だ。部下ならば信じてついてこようと思うはずだ」
「そうか」
(それは、お前にも言えることじゃないのか?)
ラディスラスの知っているラシェルという男も、真面目で誠実な男だ。エイバルの乗組員に対しても厳しいが面倒見は良くて、そ
れはジアーラの騎士であった時から変わらない姿のはずだ。
(ラシェルが隊長だった頃の人間も残っているはずなんだよな)
ミシュアのために、いや、祖国ジアーラのために立ち上がろうとする者は必ずいる。彼らが自分達に力を貸してくれれば大きな戦
力になるなと思いながら、ラディスラスは先ずは目先の仕事を片付けることにした。
![]()
![]()