海上の絶対君主
第六章 亡霊の微笑
32
※ここでの『』の言葉は日本語です
「これは、義兄上。静養されていた宮から姿が見えなくなったことを聞き、とても心配しておりました」
眼差しは厳しいまま、淡々とした口調で言いながらジルベールはこちらに向かってくる。歩くたびに宝飾がぶつかり合うような音が
聞こえるが、この場にいる者達は誰も装いに目をやる者はいなかった。
「とうにその御命はと諦めていましたが、思いがけず御健勝な顔を拝見出来、とても嬉しく思いますよ」
ジルベールの目は、ただ真っ直ぐミシュアを見ている。
「ジルベール・・・・・」
そして、ミシュアの眼差しもジルベールだけに向けられていた。
「久し振りの祖国はいかがか?あなたの愛したジアーラはそのまま残っているでしょうか」
「・・・・・」
「それとも、やはり卑しい女の腹から生まれた者には、まともに治世を行うことも出来ぬと・・・・・笑うているか」
ジルベールの言葉を聞きながら、珠生は何だか自分の胸が苦しくなってきた。
男は明らかにミシュアを傷付けるためにこれらの発言をしているのだろうが、同時に自分自身の胸も深く切り裂いていることに気付
いてはいないのか。
ジルベールを擁護するつもりはないし、怖いと思った気持ちは残っているものの、何だかガキ大将の悲痛な喚きを聞いているよう
な感じがして、どうしても何か胸の中に重いしこりを感じてしまった。
「タマ」
「・・・・・っ」
その時、小さく名前を呼ばれた。
皆の視線がミシュアとジルベールに注がれている中、ラディスラスは珠生を見ている。
「大丈夫か?」
「うん」
それは傍にいるレオンも同じで、彼は剣を握り締めたまま2人の兄弟の対面を睨みつけていた。
今ならば逃げられるかもしれない。掴まれていた綱は離されているし、周りには見張りの人間もいない。
目の前にはラディスラスと仲間達。アズハルも心配そうに自分を見ていた。
(・・・・・よしっ)
用心し、物音を立てないようにしてレオンの背後を回れば、多少遠回りになってしまうが見付からずにラディスラスの傍にいけるよ
うな気がして、珠生はそれを実行しようと足を踏み出したが。
ガッ
「うわあ!」
一瞬、何が起こったのか分からないまま、珠生はその場に大袈裟に顔から倒れてしまった。
この場にいるほとんどの意識はミシュアとジルベールに向けられている。
(今だな)
珠生を拘束していた綱を手放したレオンの視線も当然のごとく2人に向けられているので、今ならば珠生をこちら側に連れてくるこ
とが出来ると、ラディスラスは目の前のレオンの呼吸をじっと計っていた。
その時だ。
「!」
ゆっくりと珠生が動くのが見えた。今が好機だと思った自分と同じように、珠生も今逃げなければと思ったらしい。
レオンの真向かいにいる自分よりも背後にいる珠生の方が動きやすいだろうが、本当に大丈夫だろうか・・・・・その心配は直ぐに
現実のものになってしまった。
「・・・・・っ」
足を踏み出した珠生はレオンのことを気にして視線はそちらに向けられていて、自身の足元を全く見ていなかったらしい。垂れて
いた縄を踏み、そのまま足がもつれて、
「うわあ!」
広間に響く声を上げながらその場に顔から倒れこんでしまった。
「タマ!」
その瞬間、ラディスラスは動いた。
レオンの持っていた剣の切っ先が腕を掠ったが、そんなことに構ってはいられない。
「タマッ、大丈夫かっ?」
「ひ、ひらぃ〜(痛い)」
「・・・・・」
額と鼻の頭を真っ赤にした珠生は、痛みに涙目になっていた。その上、鼻からたらりと垂れた赤い血。
「怪我をしたのかっ?」
「は、はらひ(鼻血)」
ラディスラスは小刀で珠生を拘束していた縄を切ると、そのまま自身の服の袖を切り裂いて珠生の顔に当ててやった。
倒れた時の強い衝撃のせいで鼻の中が切れたのかもしれないが、珠生が赤い血を流したという事実だけで胸がバクバクと慌しく
鼓動を打ち、喉がからからに渇いてしまった。
(・・・・・っそ)
守ると誓った一番大切な存在を傷付けて、いったい自分は何をしていたのか。ラディスラスはノロノロと汚れてしまった顔を拭う
珠生を強く抱きしめる。
「く、くるひ・・・・・っ」
「すまない、タマ」
「ラ、ラディ?」
「俺が傍を離れた精で、お前に怖い思いをさせてしまった」
起こってしまった後で謝っても仕方が無いと分かってはいたが、ラディスラスはそう言わずにいられなかった。
すると、おずおずと珠生が腕を持ち上げ(自分が強く抱きしめているので少ししか動かないようだが)背中をポンポンと叩いてくれ
る。
「ラディのせいじゃないって」
「・・・・・」
「俺のドジのせい。それに、はなぢだけだから平気」
カッコ悪いよなと言って笑う珠生を、ラディスラスは直ぐに顔を上げて見つめることが出来なかった。
確かに怖い思いはしたものの、こうしてラディスラスや皆と合流出来たからよしとする。
(ラディが傍にいるなら安心だし)
それよりも、みっともなく綱を踏んづけて倒れてしまったことを、今この場にいる者達の記憶から抹消したいと思った珠生は、あっと
今の状況に思い当たった。
「・・・・・っ」
ミシュア達を見ていたはずのレオンは、当然のごとく煩くしてしまった自分達を見ている。その手にまだしっかりと剣が握られている
のを見た珠生は、焦ってラディスラスの背中をバシバシと叩いた。
「ラ、ラディッ、後ろ!」
「煩い。もう少しお前を堪能させろ」
「そんなじょーきょーじゃないんだって!」
珠生は焦り、忙しなく視線を動かしてしまう。すると、その視界の中にこちらを向いているミシュアとジルベールの姿を捉えた。
ジルベールはミシュアに何を言いたかったのか、ミシュアはどんな風に受け止める気だったのか。全てを自分がぶち壊してしまったこ
とに何をしているんだと内心思いながら、ここまできて何事もないような態度を取れるはずがなかった。
「ミュウ!ジルベール、この国嫌いじゃないよ!」
「タマ・・・・・」
「俺が嫌いかって聞いた時、そうだって言わなかった!嫌いじゃないよ!」
「おい」
「そーじゃん!けっこー優しい顔して笑うくせに、怒ってばっかだとシワができるんだぞ!」
何か思うことがあるらしいというのは彼の独白からも何となく感じ取れたものの、ジルベールが言う相手は自分ではないはずだ。
ミシュアに、前の王様、彼らの父親に、ちゃんとぶつけなければ何も伝わらない。
ただ、想像していたようなハチャメチャで暴君な男という印象は珠生の中からは薄れていて、それはミシュアに伝えなければなら
ないような気がしたのだ。
「タマ・・・・・」
珠生の一連の言葉にミシュアは目を瞬かせたが、珠生がジルベールを庇ってくれようとしているのが感じ取れて本当に嬉しくなっ
てしまった。
いったい何時から憎悪を向けられるようになったのかは覚えてはいなかったが、幼かった頃自分達はとても仲が良かったはずだ。
周りが何を言おうとも、ジルベールは自分を慕ってくれ、自分も・・・・・。
「ジル」
「・・・・・っ」
幼い頃と同じ呼び方をすると、ジルベールが目を瞠った。
(ああ・・・・・変わっていない)
その表情は幼い頃と何ら変わりない。
「突然の帰国を許してください。そして、勝手にカノイの宮を出てしまったことも」
「・・・・・ミュウ」
「長い間国を空けていた私に何が分かるかと思うかもしれない。ですが、ジル、あなたのしていることを私は認めるわけにはいかな
い。美しかったジアーラを、民の幸せな声に満ち溢れていたこの国を、どうか・・・・・元に戻してください」
病弱であったにもかかわらず、皇太子という地位のミシュアは幼い頃から帝王学を学び、周りも皆かしずいてくれていた。
その反面、義弟のジルベールに付く者は少なく、寂しさもあったのか幼い頃はまるでミシュアを母親と勘違いしているのではないか
と思うほどに傍から離れなかった。
母が違う弟。
皇太子と、王子。
始めは嫡子であるミシュアが次期国王となるのは当然のこととして、言葉は悪いがジルベールは歯牙にもかけられていない存在
だった。
しかし、2人が成長していくにつれ、2人の王子の後見人を自認する者達が国を二つに分ける。
ミシュアは美しく、賢く、穏やかで、国民から慕われる存在であったものの病弱で、反対にジルベールは剛健で先王にも良く似た
風貌だった。
ミシュアは己の身体のことを考え、次期王はジルベールがなった方がいいと思っていたが、周りは正当な後継者はあなただといっ
て譲らなかった。
そんな時に出会ったのだ、瑛生に。
瑛生とのことでミシュアはますます王座への未練が無くなり、瑛生と共にいることが出来たら、身分など何もいらないとさえ思った。
そんな風に思った時点で、もはやミシュアは己が王になる資格がないと自覚した。
そんな風に民を見捨てた罰で瑛生が傍からいなくなり、病気も悪化した。
だからこそ、瑛生と再会し、有能な医師に病気を治してもらったのは奇跡だと思う。
(皆に救ってもらったこの命を、今度はこのジアーラのために使いたい)
「ジル、国の現状は聞きました。あなたがどういうつもりなのか、私には分からない。でも、今ならばまだ間に合う。国を再建する
手伝いを私にもさせて欲しいのです」
ミシュアは固く手を握り締めながら、ジルベールに懇願した。
「ジル」
そう呼ばれたのは何時振りだろうか。今では誰しもが王と呼び、その中には敬愛の意味など全く無いことも感じていた。
この名前で己を呼んでくれたのは、小さくて綺麗な兄だけだった。
「ジル、国の現状は聞きました。あなたがどういうつもりなのか、私には分からない。でも、今ならばまだ間に合う。国を再建する
手伝いを私にもさせて欲しいのです」
「・・・・・っ」
(何を・・・・・知っているというのだ!)
見捨てられた、ただ王という名ばかりの傀儡のことを考えてくれる者など1人もいなかった。
「今更何を言う、ミュウ!お前も私を捨てた!」
「ジル」
「お前は、お前だけはっ、どんなに私が憎しみをぶつけようとも逃げないと思っていたのに!」
支離滅裂な子供のようなことを言っているというのは分かっていたが、ジルベールはこの怒りをミシュアにしかぶつけることが出来
なかった。
「お前だけは!」
「・・・・・っ」
ジルベールは手を伸ばし、ミシュアの腕を掴む。細く、折れそうなそれを何度も揺すっていると、
「止めなさい」
「!」
鋭い声と共に腕が伸びてきて自分の動きを止める。誰だと視線を向ければ、そこには忘れたくても忘れられなかった、自分からミ
シュアを奪った人物、瑛生が立っていた。
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