海上の絶対君主
第六章 亡霊の微笑
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※ここでの『』の言葉は日本語です
始めは岩穴の神秘的な光景に目を奪われていた珠生も、しだいに時間が気になって何度も背後を振り返ってしまった。
(まだ大丈夫だよな・・・・・?)
もうしばらくは潮は満ちてこないと思うが、入口から100メートルくらいは入ってきているのでもう直ぐに逃げ出すことは出来ない。
「・・・・・」
狭い入口を入った当初はその広さに驚いたものだが、さすがにここまで来ると最初の頃の三分の一近くまで狭くなってしまってい
た。天井はまだ高いが、横から圧迫されているような気がする。
珠生はキョロキョロと周りを見ながらラディスラスに聞いてみた。
「変わった感じ、する?」
「・・・・・匂いがしないか?」
「匂い?・・・・・あ、うん」
ラディスラスに言われるまでは気がつかなかったが、そう言われれば潮の匂いとは違う硫黄のような匂いがした。温泉に行った時に
嗅ぐような匂いだ。
しかし、それは同時に危険の兆候でもある気がした。硫黄臭いということは、もしかしたら火山の火口近くにこの穴は続いてい
るという恐れもあるのだ。
「ラディ、あんまり奥にいかないほーがいいかも」
「どうして?」
「だって、もしかしたら・・・・・」
火山の中に飛び込んでしまうかもしれないと言おうとした時、ガッいう鈍い音ともに乗組員の1人が声を上げた。
「お頭っ、この辺りから水深が極端に浅いですよ」
「タマ、水面を照らしてくれ」
「う、うん」
言われた通りに松明を水面ギリギリに向けると、珠生の目にも海の底のゴツゴツとした岩が見て取れた。さっきの鈍い音は小船
を漕いでいた櫂がその岩に当たったらしい。
船の大きさを考えても、この辺りは水深1メートルほどだろうか。前方はどうなっているのかと珠生が視線を上げると、バシャッと大
きな水音がした。
「ラ、ラディッ?」
それはラディスラスが船から海に入った音だった。ラディスラスの腰よりも少し高い水面の位置は珠生のほぼ予想通りだが、どう
してこんな場所で海に入るのか分からない。
こんなわけの分からない所で簡単に海の中に入るなど、もしも人食い鮫でもいたらどうするつもりだ。
「ラ・・・・・ッ」
珠生が注意しようとすると、背後で同じような水音がする。
まさかと思って振り返ったそこには、珠生以外の人間は船の上にはいなくなってしまった。
「この方が早いからな」
珠生の疑問に答えるように、ラディスラスは船を引っ張るようにして前へ歩き始める。
他の乗組員達も同様にするので、ゆっくりだった船の進むペースがまた速くなった。
(わ、分かるけど〜っ)
櫂が下の岩に当たってしまえば進み難いことは分かるが、自分1人だけ船の上に取り残されたって困ってしまう。
「ラディ、俺・・・・・」
「タマはそこにいろ。泳げないだろう?」
さすがにここでは足が着くと言いたかったが、珠生は松明を持っているんだからと内心言い訳をしながら暗闇の前方を照らすため
に手を大きく伸ばした。
どこから安全で、どこからが危険か。
珠生や乗組員達の命を預かっているラディスラスは慎重に事態を見極めようとしていた。
これだけ水深が浅くなっても天井が高いということは、もう少し進めばどこかに上陸できるということだ。そこからどこまで進めるの
か・・・・・潮の満ちる時間を考えても決断は急がなければならない。
ガッ
「ここか」
やがて、小船のそこが完全に岩に当たった。
「・・・・・」
前方を見ればさらに狭くなっているもののまだ進めそうだ。
「・・・・・ユノ、ここで待機しろ。水面が危険水域まで上がってきたら知らせてくれ」
「分かりましたっ」
「タマ」
「お、俺、行くからなっ」
ここで待っていろという言葉を先読みしたのか、珠生は既に船から下りながらそう言ってくる。
(・・・・・どうするか)
揺れる小船を押さえてもらわなければ満足に船からも降りられない珠生を、この先まだ連れ歩いてもいいのだろうか。
しかし、この中でこの火山島の知識が一番あるのは間違いなく珠生だった。
「・・・・・もう駄目だと思ったら、素直に俺に知らせろ。我慢して付いて来るな・・・・・約束できるか?」
「う、うん」
コクンと頷いた珠生がどこまで本気かは分からないが、それでもラディスラスは珠生を連れて行くことにした。危険は覚悟の上だ。
「しかし、随分匂いも強くなったな」
そして、暑くもなった。
少し考えたラディスラスは自身の服の袖を引き裂くと、それを人数分の細長いものに小剣で切り裂く。
「一応これで口と鼻を覆うんだ」
入口から150メートルほど入った所から海底が陸地に変化し、珠生はそのままラディスラスの後に続いて歩いていた。
松明を持つラディスラスが照らす前方はまだ道が続いている。
「これ、波だけでできたんじゃないみたい」
「お前が言う、火山とやらの影響か?」
「それもあるかも、しれない」
専門知識がないのでなんとも言いようがないものの、だんだん強くなっていく硫黄の匂いとこの蒸し暑さはやはりここが火山島で
あるという証だというのは確実のような気がした。
(だったら、やっぱりまずいんじゃないかな)
今は珠生が片手を伸ばせば指先が岩肌に当たる狭さになっている。この先はもっと狭くなっていくだろう。
「・・・・・」
「・・・・・」
珠生は自分の前を歩くラディスラスの横顔を見上げた。真剣な眼差しで前を向いて歩いている彼の額にも汗が滲んで頬に伝っ
ている。
(ここに、本当に・・・・・)
宝石の原石があるのかという疑問が湧いた時、珠生は壁に当てていた手が何かに引っ掛かって立ち止まった。
「どうした?」
珠生の直ぐ後ろを歩いていた乗組員が訊ねてくる。
「なんか、指が引っ掛かったような・・・・・あれ?」
岩壁の窪みに手が引っ掛かったのかと思ったが、どうやらその岩の向こうには空間があるようだ。
「?」
松明の明かりだけの薄闇の中、パッと見ただけでは気がつかなかった。
どうやら元々空間があった場所に大きな岩が崩れ落ちて、入口が半分近く塞がれているようだ。
「どうした、タマ」
珠生が立ち止まってしまったことに気付いたラディスラスが引き返し、唐突に現れたように見える岩穴を見て目を見開いた。
「これは・・・・・」
「どこにつながってるんだろ?」
「・・・・・少し上に上がっているように見えるな」
今まで歩いてきた道は比較的平坦な道だが、明かりに照らされた狭いその穴の向こうはどうやら上へと伸びているようだ。
「選択肢は三つだな」
「みっつ・・・・・」
そう、このまま真っ直ぐに前へ進むか、今見つけたこの横穴に進むか、それとも・・・・・引き返すか。
考える時間はあまりなかった。
「おい、お前はユノの所に戻ってそのまま岩穴の外に出ろ」
「お頭っ」
ラディスラスに伝言を頼まれた乗組員は焦ったように声を出す。
しかし、どうやらラディスラスの気持ちは決まったようだと珠生はその横顔を見て分かった。
「だ、大丈夫だって、俺がついてるからっ!」
当然、自分も残るんだというようにラディスラスを見ながら言えば、彼は苦笑しながらもそうだなと言ってくれる。
「俺には幸運の女神が付いているからな」
目を細めるラディスラスに、俺は男だと一応反論しておいた。
今からこの横穴を上っていけば、潮が満ちる前にあの場所に戻ることが出来ない。
多分、自分達が戻るまであの場所から動かない乗組員のことを考えると、ラディスラスはもう1人を引き返させて2人の安全を確
保することにした。
残るのは自分と、珠生と、2人の乗組員だ。最低限の動きは何とかなるだろうし、万が一自分が動けない状態になったとして
も2人いるのならば珠生を助けてくれるはずだ。
「行くぞ」
辛うじて大人が1人通れる暗く細い岩穴をラディスラスは上り始めた。急な角度ではないが、所々濡れているので足が滑りや
すい。
「足元気をつけろよ」
「う、うん」
片手で松明を持っているラディスラスは体勢が不安定だが、自分が滑ってしまったら後ろの3人はたちまち巻き添えになってし
まう。足先と右手の指先に力を込め、ラディスラスは確実に前へ進んだ。
「・・・・・」
「・・・・・っ、うわっ」
「タマっ?」
「だ、だいじょぶっ!」
よく付いて来る珠生は時折足を滑らせるのか声を上げるが、ラディスラスの問い掛けには気丈にそう答えてくれる。
(絶対に・・・・・無事にっ)
宝石の原石を見つけることももちろんだが、預かった命を無駄にすることは絶対にしない。
ラディスラスは額に滲む汗を拭うと、急になってしまった岩穴をさらに上り続けた。
アズハルとルドーとジェイは、戻ってきた乗組員の報告に顔色を失った。
「何を勝手なことを・・・・・っ!」
潮の満ち干きで入口を閉ざしてしまう岩穴に入ることでさえ危険だというのに、その上奥で見付かった横穴に潜り込むとは。
「そこが行き止まりだったらどうする気なんですか!」
どこまでの高さがあるのか分からないが、海水が穴を埋めてしまう可能性だってあるのだ。
「落ち着け、アズハル」
「ジェイッ」
「今ここで騒いだって、今からあの中に助けに行くことは無理だ」
その言葉にアズハルが改めて視線を向けると、さっきまでの水面からはさらに上昇して、岩穴の口はラディスラス達が入って行っ
た時の半分以下になっていた。
今から船に乗って辛うじて中に入ることが出来たとしても、ラディスラス達に追いつくのは・・・・・無理だ。
さすがに素早く計算したアズハルは疲れたような息をついた。
「・・・・・後はラディの強運に頼るしかないですね」
「タマもいるだろう」
アズハルの呟きにその名を足したのはジェイだ。
「タマも?」
「あいつは相当な運の持ち主だ。今までだって色んなことを切り抜けてきたじゃないか」
「・・・・・」
「信じよう、今は」
「・・・・・そうですね」
ジェイの言う通り、今はこのまま彼らが無事に戻ってくるのを待っていることしか出来ない。
(新しく見付かったという岩穴が島のどこかに繋がっているといいんだが・・・・・)
島の中心までには行っていないので、そこに洞穴がある可能性はなくもない。そしてそれが海底の岩穴に繋がっている可能性も
あるかもしれない。
そんな僅かな望みを抱きながら、アズハルは段々と波に埋もれていく岩穴を見つめた。
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