海上の絶対君主




第六章 亡霊の微笑


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※ここでの『』の言葉は日本語です






 「私は・・・・・この国を見捨ててしまった罪を償わなければなりません。それは安易な道ではなく、とても険しく、艱苦に身を震わ
せることも多いでしょう。それでも、私は今度こそ逃げようとは思いません」
 ミシュアは真っ直ぐに瑛生を見つめている。
その顔に浮かんだ微笑は今まで見たこともないほどに美しく、ラディスラスは何かを決意した者の潔さをそこに見た。
今本人も言っているように、これからのジアーラの行く末は楽観していいものではない。幸いにも宝石の原石という資産を得たが、
これまでに失墜した国民の信頼を回復したり、近隣諸国への対応と、頭が痛くなることが山積しているだろう。
 それでもミシュアは逃げないと言っているし、多分異母弟であるあの男も協力するはずだ。だが、それはいったいどれ程の年月
を必要とするだろうか・・・・・。
 「ジアーラが、またもとの美しく、豊かな国に戻った時・・・・・」
 「ミュウ」
 「どうか・・・・・どうか、エーキ、私を攫いに来てください」
 その言葉が、どれ程の思いを込めて言われたのか。分からない男などいないはずだ。
(エーキ、お前は・・・・・)
ここで、そんなミシュアの望みまで絶つようなことはしないで欲しい。
 「・・・・・その時は、私だけの君になってくれるんだろうか」
 「い・・・・・いえ、エーキ、今までも、そしてこれからも、私の心はあなたのものです」
 「・・・・・ありがとう、ミュウ」
 「・・・・・お元気で」
 触れることのない、手。
重なることのない、唇。
だが、そこには切ないほどの愛が溢れていて、ラディスラスは柄にもなく胸が詰まる思いがした。
 「・・・・・ふ・・・・・っ」
 「タマ」
 それは腕の中に閉じ込めていた珠生も同様のようで、必死に涙を堪えている。
この言葉だけで、この先何時になるとも分からない再会を願う2人が別れてしまうのだと、そう思うと何だか言いようのない虚しさ
さえ感じてしまった。
(もっと、我が儘になってもいいと思うがな)
 自分達が犯した罪の分だけの苦しみは、もう十分味わったように思うのは身贔屓なのだろうか。
それでもラディスラスは、ここで離れることをお互いに納得している2人に対し、もう一度考え直せと言いたい気持ちを辛うじて押
さえ込む。
 こんなに、珠生も悲しませたのだ。辛い別れにだけはならないようにと、願わずにはいられなかった。




 王宮を出た父は、あのミシュアとの別れを全く感じさせないほどに普段と変わりなかった。
自分なら絶対に後々まで引きずると思うが、これが大人と子供の違いなのだろうか。
 「なんだ、変な顔して」
 「・・・・・」
 「タ〜マ、せっかく2人にしてもらったんだぞ?少しは俺に甘えてくれてもいいんだがな」
 「・・・・・やだ」
(そんな気分じゃないんだ)
 「・・・・・とーさんの・・・・・バカ」
 港に停泊しているエイバル号に乗り込み、明日の夜明けを待って出港する。
他の乗組員達は様々な準備に余念がなく、今回からエイバル号の乗組員になってしまった父もジェイに付いて食堂にこもってし
まった。
 今回負傷中のラディスラスはしばらく安静にしているようにと皆に言い含められて自室に押し込められていて、珠生もその見張
り役として一緒の部屋にいた。
 「なんだ、まだ引きずっているのか?」
 「・・・・・」
 足を捻っているラディスラスはベッドの端に腰掛けたまま、呆れたようにドアに背もたれている自分を見る。その言葉の中の呆れ
た調子に、珠生はムッと口を尖らせた。
(だって、しょうがないじゃん!)
 珠生の頭にあるのは父とミシュアのことで、どうして2人があのまま別れてしまわなければならなかったのか、考えても考えても納
得がいかなかった。
 確かにあのミシュアがジアーラという国を出て行ったのは父が原因だろう。
しかし、その後の国をあそこまで衰退させたのは新しい王だ。
その王の責任をミシュアが取ることはないと思ったし、さらには父までミシュアの手を離すことは・・・・・。
 「仕方ないだろ」
 「・・・・・」
 いきなり思考に割り込んできたラディスラスの言葉に、珠生は眉間に皺を寄せたまま視線を向けた。
 「・・・・・どーして?」
 「ミュウは一国の王子だ。私人として行動する前に、公人としての務めを果たさないといけない」
あまりにも当たり前なラディスラスの言葉に、それでも珠生は反論する。
 「でもっ」
 「タマ」
 「でもっ、それならとーさんも一緒にがんばったらいいだろ!わざわざ離れることなんてないのに!」
 大変なことでも、2人ならば頑張れることは多いはずだ。
ミシュアのためにこの世界にやってきた父と、父のために国を捨てたミシュア。この2人の絆は父の子である自分も入り込めないほ
ど固いと思っていたのに、なんだか絶対なものなどないのかと不安に思ってしまう。
(・・・・・あ・・・・・そっか)
 「タマ?」
 「・・・・・」
 唐突に、珠生は自分の感情の意味に気がついてしまった。
あれだけ深い繋がりだと思っていた2人が別れてしまうということは、自分のことを好きだと言ってくれているラディスラスと自分も、こ
の先別れてしまう可能性があるということでもあるのだ。
 「おい、タマ」
 「・・・・・っ」
(そ、なの・・・・・やだっ)
 同じ男だと分かっていても、好きになってしまった相手だ。
ラディスラスがいるからこそ、この世界でも生きて行こうと思うのに、この先、どんな理由で別れてしまうかも分からないなど、その可
能性を考えるだけで泣きそうだ。
 「・・・・・」
 珠生は、心配そうに自分を見上げてくるラディスラスをじっと見つめる。
そして、フラフラとベッドに近付くと、
 「タ・・・・・」
まだ何か言おうとしたラディスラスの唇にキスをした。




 突然の珠生の行動にさすがに驚いたラディスラスだったが、直ぐに手を伸ばしてその身体を抱き寄せた。
崩れ落ちるように自身の膝の上に身体を預ける珠生だが、何時もならば真っ赤になって抵抗するだろうに今はむしろ積極的に
口を押し当ててくる。
だが、何か気が急いているのか、なかなか舌を差し入れては来なかった。
 「・・・・・」
 必死に唇の角度を何度も変える珠生に、ラディスラスは誘うようにうっすらと口をあけてやる。
その途端、舌を差し入れてはくるものの、どう動こうかと迷いがある珠生の舌を反対に絡めとり、ラディスラスはそのまま己が主導
して口付けを深いものに変えた。
(いったい、何が不安なんだ?)
 「ん・・・・・ふっ」

 ピチャ チュク

唾液が絡まり、抱きしめる珠生の身体が熱くなったのが分かる。
 「ひゃっ?」
 ラディスラスはすっかり力が抜けてしまった珠生の身体をそのまま抱きかかえるようにすると、くるりと体勢を変えて自分の下に組
み敷くようにした。
 「あ・・・・・」
 上から見下ろすと、珠生の頬が紅潮しているのが分かる。瞳は潤み、唇はどちらのものかも分からない唾液で濡れていた。
少しでも揺さぶればそのまま快感に流されそうなのに、目の中にはどこか不安そうな色が残っている。
自分の中の何が珠生を不安にさせてしまったのか、ラディスラスは珠生の髪を軽く撫でて笑い掛けた。
 「どうした?」
 「・・・・・」
 「何でも答えてやる。俺が嘘を言う男じゃないって知っているだろう?」
 「・・・・・なに、それ」
 少しだけ、珠生が笑った。
 「ほら」
その笑みに誘われるように、軽く頬に唇を寄せると、くすぐったそうに身を竦めた珠生が、しばらくして・・・・・何か思いつめたような
表情で見つめてきた。
 「・・・・・ラディは?」
 「ん?」
 何のことだと首を傾げると、珠生も自分の言葉が足りなかったことに気付いたのか少し考えるように視線を揺らし、やがてゆっく
りと口を開いた。
 「俺、と、はなれるかも、しれない?」
 「お前と?」
 「・・・・・好きでも、さよならってある、から・・・・・」
 自分の気持ちをどう表現していいのか考えるように、たどたどしい口調で言葉を綴る珠生の顔をじっと見ているうち、ラディスラ
スはようやくその心の中に生まれてしまった不安が分かったような気がした。
 「ミュウとエーキのことと、お前と俺を重ねているのか?」
 「・・・・・」
 返事はない。しかし、ビクッと震えた身体の反応で十分に分かる。
 「やっぱり、馬鹿だな、お前は」
馬鹿と言われてムッとする珠生の鼻をカプリと噛み、宥めるようにペロッと舌を這わした。
 「この俺の気持ちを甘く見過ぎている」
 強い繋がりに見えたミシュアと瑛生があんな風に別れてしまったことが、珠生の心に強い衝撃と動揺を生んだのは分からないで
もないが、それで疑われてはラディスラスも呆れるしかない。
(悪いが俺は、エーキよりも遥かに諦めが悪い男なんだ)
 もしも自分と珠生があの2人の立場なら、ラディスラスは絶対にあのまま国に珠生を残して行ったりしない。どんなに我が儘だと
言われようと、無責任だと罵られようと、強引に珠生を連れ出すだろう。
 「お前が嫌だって言っても離さない」
 「・・・・・ラディ・・・・・」
 「お前こそ、覚悟をするんだな、タマ」
しつこい男に愛されてしまったことを運命だと諦めて、このまま愛されろと耳元で囁いた。




 父と、ラディスラス。
当たり前だが、その生きてきた背景も、性格も違う2人が、同じ選択をすることはないはずだ。
 考えたら分かることを自分は一心に思いつめてしまっていて、勝手にグルグルと思考が回っていた。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
下からじっとラディスラスを見つめると、男らしい美貌がやんちゃに笑う。
 「納得したか?」
 「・・・・・うん」
 ラディスラスのたった一言で気分が浮上してしまった自分が恥ずかしい。なんだか、それだけ自分がラディスラスを好きなのでは
ないかとからかわれるかと思ったが、ラディスラスは頷いた珠生に向かって、ただ嬉しそうに頷くだけだった。
(・・・・・俺が、離れなきゃいいんだもんな)
 自分は、きっとミシュアのようないい子ではない。
誰かのために自分を犠牲にすることはたぶん出来ないし、自分のための幸せ掴もうと足掻くと思う。
 「ラディも、カクゴしろよ」
 「俺も?」
 「・・・・・くっついて、はなれないから」
 「なんだ、お互い様か」
 「・・・・・そーみたい」
 元々、悩むことでもなかったのかもしれないとほっと安堵した珠生は、何だか急に今の体勢が気になってしまった。
いや、この服の中に片手を入れているラディスラスはいったい何を考えているのだろうか。