海上の絶対君主
第六章 亡霊の微笑
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※ここでの『』の言葉は日本語です
「心配はないようですね。心音も正常のようですし、ミシュア、何かあったら直ぐに私に言ってください」
「はい、先生」
アズハルが診断したミシュアの容態には変わりなく、それを傍で聞いていた珠生と父もホッと安堵の息をついた。
もちろん、ここまで来るのにも細心の注意を払ったのだが、病み上がりのミシュアにとって今回の旅はとても大きな意味のあるもの
で、出来るだけ気遣わなければならない・・・・・珠生はそう思っていた。
(でも、俺までずっと傍についてることないし)
「あ、ルドー!」
甲板を歩いていた珠生は、そこに甲板長補佐のルドーの姿を見つけて駆け寄った。
「ああ、タマか」
「ね、何か仕事ある?」
「仕事って、ジェイの方はどうなんだ?」
「ジェイは、とーさんが手伝うって。まだじゅんびしてるだけだし、俺までひつよー無いかなって」
料理長のジェイを手伝うのは楽しいが、それでもまだ食事時ではないので人手は足りているようだ。
下ごしらえという面倒なことは珠生にはあまり合わないので(目的があれば別だが)、そこから抜け出し、他に何かすることが無い
かと甲板を歩いていたのだ。
「そうだなあ〜」
ルドーは頭をかく。
「まだ出航したばかりで、洗濯物もないし、壊れた所は修理もしてもらったし、見張りは・・・・・」
「?」
「タマ1人じゃ、お頭が許さないだろうしなあ」
「なに、それ」
まるで、ラディスラスの許可が無くては何もしてはいけないと言われているようで面白くない。
以前ならばともかく、これでも今は船上での生活にはだいぶ慣れているのだと、珠生は口を尖らせながら何かしたいと訴えた。
「探せば何かあるだろっ?」
「ん〜」
本当に何も思い浮かばないらしい。ルドーの顔にはそう書かれていて、珠生はもういいよと溜め息をついた。
「自分で何か探す」
「おいっ」
「じゃーね!」
何をしたらいいのかまだ分からないまま、珠生は軽く手を振ってルドーの前から立ち去った。
「全部話して楽になれって。そんなことで俺はお前を見損なったりはしないぞ」
「・・・・・」
ラディスラスは無言になってしまったラシェルをじっと見つめる。
生真面目なラシェルは人の悪口というものを口に出したりしたくないだろうし、それももう過去の過ぎ去ってしまったことだ。
思い出して再び現王への憎しみを蘇らせても何もならないと思っているのかもしれない。
しかし、ラディスラスはそんなラシェルの溜まってしまった思いを全て聞いてしまいたかった。
「私は、人を殺したいと思うほどに憎んだ。そんなことでしか感情を表すことが出来ない私は、きっともう元の生活には戻れない
だろう。ラディスラス・アーディン、お前の船に乗せて欲しい。そして、私をもっと汚す手伝いをしてくれ」
エイバル号に乗る時に聞いた言葉。
結果的に、ラシェルはどんな略奪行為をしても悪人にはなりきれず・・・・・どこか、騎士の志を持った者としてエイバル号の中でも
異質な、しかし一目置かれた存在となった。
ラシェルには、もっとこちら側に来て欲しい。
もっと、心のうちを見せて欲しい。
それはラディスラスの我が儘な思いで、ラシェルにとっては迷惑な話かもしれないが。
「ラシェル」
「・・・・・ラディ、俺は・・・・・」
「・・・・・」
ラシェルは顔を上げた。
「俺のことを・・・・・軽蔑するかも、しれないが・・・・・」
「バ〜カ、過去のことを今更責めるわけがないだろ。それに」
「・・・・・それに?」
「海の男の心は広いんだ」
にっと笑ったラディスラスをじっと見つめていたラシェルは、やがてほうっと大きな溜め息をつく。
そして、苦しげに顔を歪めながらも搾り出した言葉は、ラシェル自身の過去の懺悔とも言えるものだった。
ラシェルはじっと前方を見つめていた。
視線の先にいるのは親愛なる主君、ジアーラ国の皇太子ミシュアで、綺麗で気高い彼の直ぐ隣には、優しげな面差しの男がい
た。
(王子・・・・・あれ程進言したというのにっ)
どこの誰とも分からない男を信用し、あまつさえ恋情を抱いた眼差しで見ている。これほどにあからさまな思いは、何時しか周り
に知られて・・・・・。
「ミシュアの奴、あんな男に誑かされているのか」
「・・・・・っ」
ラシェルは肩を揺らした。目の前の2人に気をとられ、近付いてくる存在に気づくことが出来なかった。
「何を言われておられるのか・・・・・。ミシュア様は優しいお方です。行き倒れのかの者を気になされて・・・・・」
「ものは言いようだな、ラシェル」
「ジルベール様」
「まあ、いい。いずれ他の者も2人のことに気づくだろう。その時にミシュアがどうするか、楽しみだな、ラシェル」
唇を歪めてそう言い捨て、立ち去るジルベールをラシェルは黙って見送ることしか出来なかった。
(いったい、何を考えていらっしゃるのか・・・・・)
王妃から生まれた皇太子、ミシュアと、妾腹のジルベール。歳は一つしか違わないが、同じ王子であるというのにその立場は雲
泥の差だった。
これで、ジルベール自身が能力的に劣れば問題はなかったかもしれないが、ジルベールは賢く、外見も現王に良く似ていた。
何より、王座への執着心が強い。絶対に望めないと分かりきっているからこそ、どうしても欲しい立場だろう。
しかし、もちろん王は次期王の座はミシュアに譲るつもりだし、国民も皆ミシュアを慕っているので、ジルベールの望みは永遠に
叶わないものだとラシェルは思っていた。
危うい均衡。
だが、それは突然に崩れた。ミシュアと異国人瑛生との関係が問題視され、ミシュアが詮議に掛けられた時、共に捕らえられるは
ずだった瑛生は忽然と姿を消した。
本人がいないことで、瑛生は重罪人の扱いになってしまい、その罪人に誑かされたミシュアの皇太子としての資質が問われた。
傍にいたラシェル達はミシュアのそれは優しさ故と、瑛生も何も罪を犯していなかったことと含めて、今回のことを不問に付すように
と願い出たが、
「そのようなよそ者を簡単に城に招き入れ、あろうことか同性に恋情を抱いた兄に、この国を任せられると思うのか!」
ジルベールの強い言葉に、一同は沈黙した。
穏やかな王に慣れ、優しい皇太子に慣れていた国民は、力強い指導者としてジルベールに視線を向けるようになった。
その上、ミシュアは瑛生とのことを一言も弁明しなかった。今から思えば消えてしまった瑛生のことを思い、自身の保身など考えら
れなかったのかもしれないが、その時、ラシェルは一瞬、何も言わないミシュアを不甲斐無いと思ってしまった。
詮議ではミシュアの責任の無い行動は非難され、皇太子の位をはく奪された。
新しい皇太子にはジルベールが選ばれ、今回の件で気の弱くなってしまった王に代わり、彼がミシュアの処遇を決めた。
彼はミシュアの身体のことを考え、海外に静養に出すといったが、それが邪魔な者を国から排除するためだとラシェルは感じ、自
身も供をしたいと願い出たがそれは却下された。
ミシュアがいなくなり、現王も伏せることが多くなったジアーラ国。
「ラシェル、私はきっとミシュアよりも強い王になる。このまま私に仕えろ。共にジアーラをこの世界最強の国としよう!」
ラシェルは皇太子の親衛隊隊長としてそのままジルベールに仕えることを打診されたが、考える間もなく断ると、未練を断ち切る
ように国から出ていった。
「俺は、反論もせずに国を出た王子を一瞬恨んでしまった。本当は、軍を辞めたのならば後から追って彼の傍に仕えることも出
来たのに、その僅かな不信が俺の足を鈍らせた」
ラシェルは拳を握り締める。
もしもあの時に戻れたのなら、ラシェルは絶対にミシュアに付いていった。彼を守り、もっと早くにジアーラに帰国させ、祖国が衰退
するのを共に止めようとしたと思う。
だが、あの時の自分はミシュアに裏切られたという思いの方が強くて、彼のその後を想像することも出来なくて。
(だから、今の俺の王子への態度は、どうしても罪悪感に満ちたものになってしまう・・・・・)
「お前が、タマがエーキの息子だと分かった時の怒りの意味が分かった気がする」
「ラディ」
「お前、エーキを責めながら、自分自身も責めていたんだな」
「・・・・・っ」
ラシェルは大きな息をつく。
ラディスラスは、やはり自分の気持ちを分かってくれたのだ。
生真面目なラシェル。
彼があんなにも一生懸命ミシュアの居所を捜し、彼のこととなると周りが見えなくなってしまうのは、その時の罪悪感が未だに深く
心に残っているからに違いない。
(人間なんてそんなもんなのにな)
信じた者に裏切られてしまえば、誰だって人間不信になってしまう。
ただ、そう意識を切り替えるにはラシェルは真面目過ぎたし、大体ミシュアの行動は国民を裏切るつもりのものでもなかった。
「ミュウはジルベールをどう思ってるんだ?」
「王子は、腹違いといえどジルベール様を厭うてはおられなかった。むしろ、彼のことを誰よりも優先しておられたし、そもそも、
彼ら親子を城に上げるようにと先王に進言なされたのは王子だった」
「・・・・・凝り固まった劣等感ってものは、そう簡単に消えるもんじゃないしな」
「・・・・・そうだな」
「今も、多分変わっていないだろうな」
「もっと・・・・・酷くなられたんじゃないか」
未だ王家に仕えているイザークは、その口からはっきりとしたジルベールの現状は話してくれなかったが、その言葉の端々からも
感じ取れることだった。
国を捨てたラシェルと、国にしがみついているイザークとでは、同じ目的を持っているとしてもその理由まで一つにはならないと思う
が、ラディスラスは今のラシェルの話で分かったことが一つだけあった。
「ジルベールは、ミシュアのことが嫌いなんだなあ」
「なんだ・・・・・子供みたいなことを言って。そんな言葉では・・・・・」
「でも、結局はそういうことだろう?ミュウが嫌いだから城から追い出し、目の届かない他国へと追いやった。そう考えれば至極単
純な奴だ」
ラディスラスはそう言って笑った。
「案外、仲良くなりたいって言えば変わるかもしれないぞ」
「・・・・・あり得ない」
「どうして?」
「あの方が、王子に頭を下げることなど考えられない」
「ああ、そういうことか」
凝り固まった一方的な敵意は、そう簡単に消えることはないのかもしれない。ラディスラスは溜め息をつき、それをどう解消すれば
いいのだろうかと考えた。
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